第1話
第1話
軍手を外した指先に、石膏粉が白く噛みついていた。
最終バス、最後列。廃ビル解体現場の帰りだ。作業着の襟元からコンクリートの粉の匂いが立ちのぼって、隣の席の学生が露骨に距離を取る。俺は窓に額を押しつけた。夜の都心が流れていく。三年前のいま頃、俺はまだ剣を振っていた時間だった。
窓ガラスに映る自分の顔は、蛍光灯の下で妙に老けて見えた。目の下の隈、無精ひげ、額に張りついた汗の乾いたあと。二十六の顔じゃない。三十の輪郭だった。バスは赤信号で止まり、タイヤの軋む音が、耳の奥をざらりと撫でる。作業着の袖口を捲ると、腕にはまだ今日の打痕が赤く浮いていた。ハンマーで躯体を叩き続けた反動が、親指の付け根に鈍く残っている。剣の握りとは違う、何かを壊すための握力だった。
ポケットで端末が震えた。
後輩の名前。通知のプレビューだけで、本文の半分が見えた。
──先輩の名前、塗り替えられましたよ。
心臓が、一拍ずれる。
指が勝手に画面をなぞっていた。三年間、一度も開かなかったアプリのアイコンが、通知欄から蘇るように浮かび上がる。VRMMO『アストラル・ヴェルト』公式ランキング。最新更新、今朝。全サーバー総合第一位の欄に、見覚えのあるタグが並んでいた。
《シロガネ・カルマ継承者》
カルマ継承者。
三年前、俺が最後に首を刎ねた男のプレイヤーネームを、冠として背負っている誰かがいる。バスのブレーキで上体が前に流れた。俺は手すりを掴み損ねて、膝を前の座席にぶつけた。鈍い痛みが右膝の古傷まで届く。リアルでは三十を目前にした肉体、ゲームでは引退した最強。その落差の重みが、やっとここで追いついてきた。
後輩から続きのメッセージが届いた。動画のURLだ。俺は親指で再生ボタンを押す。
画面の中、銀髪のプレイヤーが剣を振り抜いている。必勝パターンの「九連咬」。三年前、俺が設計図を引いた型だ。それを、もっと研ぎ澄ました形でなぞる誰かがいる。カメラが寄ると、装備欄のシールドに焼き付けられた家紋が見えた。カルマが最後に俺へ見せた紋章。継承者という単語は、ちゃんと重い意味の方の継承だった。
「……マジかよ」
声が乾いていた。
動画の中の剣筋を、俺は何度も巻き戻した。三年前、俺自身が夜通し組み立てた連携。初太刀で相手の重心を崩し、二の太刀で防御姿勢を誘い、三の太刀で踏み込ませる。その誘いのタイミングが、継承者の剣では半呼吸ぶん早い。速いんじゃない、早いんだ。未来を読んで置く剣だった。誰かがこの型を、俺の手を離れた場所で育てていた。指先が、なぜか冷たくなった。爪の根元から血の気が引いていく感覚。喉仏の裏側で、粘ついた唾が詰まる。あの日、俺が刎ねた首から噴いた光の粒子。その光を、三年ぶりに間近で嗅いだような気がした。
バスを降りると、四月の夜風に残業帰りのサラリーマンが混じっていた。居酒屋の前を通り、コンビニの光を素通りして、築四十年のアパートの外階段を上がる。二〇三号室。ドアを開けると、奥の部屋から埃の匂いが噴き出してきた。
壁際に、それは立っていた。
ダイブポッド。三年前に新品で買った、中古車一台分の値段がしたVRハードウェア。アルミの装甲には所々に汚れが染みつき、電源ランプは死んだままだ。俺はその手前で立ち止まった。作業着のズボンからスマホを引き抜いて、もう一度動画を再生する。
「……強いんだな、お前」
銀髪のプレイヤーに向かって独りごちた。コメント欄はカルマ継承者への賛辞で埋まっていた。中に一つだけ、ぽつんと沈んでいる書き込みがある。
「黒曜、ならどう返すんだろうな」
黒曜。俺のプレイヤーネーム。三年間、誰かの口から出たのを見るのは初めてだった。
炎上した日のことが戻ってくる。運営の仕様変更。装備のインフレ。俺の使っていた旧式スキルが軒並み下方修正された翌週、掲示板では「黒曜、もう過去の男」というスレが立った。俺は一週間だけ耐えた。八日目、無言でログアウトして、そのまま三年、ここで生きてきた。壁紙が煙草のヤニで黄ばんでいくのを、毎週月曜に見届ける生活だった。
冷蔵庫を開けて、発泡酒を取り出した。プルタブを引く音が、やけに大きく響く。一口飲んで、液体の薄さに鼻で笑った。三年前の俺なら、一瞬でこの一本を空にしてダイブしていた。
ソファに腰を下ろすと、スマホがまた震える。
後輩の追伸。
──明日、カルマ継承者、ランク一位防衛戦やるらしいです。先輩、見ます?
見るか、見ないか。
俺はしばらく、天井の染みを見上げていた。
雨漏りのあとだ。去年の梅雨で染みた染みが、今は茶色の島みたいに広がっている。この三年間、上を向くのはこの染みを数えるときだけだった。下を向いて鉄骨を叩き、帰りの電車でスマホを見て、部屋に戻って発泡酒を開ける。視線の高さが、ずっと胸より下にあった。ゲームの中で、俺はいつも水平に立っていた。剣の切っ先を相手の喉元に合わせ、互いの目の高さで殺し合っていた。背骨の通った視線の記憶が、天井の染みの下で、わずかに疼く。
結論から言えば、発泡酒は飲み干せなかった。
三口目の後、俺は缶をテーブルに置いて立ち上がった。ダイブポッドの前に進む。右の掌を、アルミの装甲に置いた。冷たい。三年ぶんの冷たさだった。指先から手首へ、その冷たさが這い上がってくる。不思議と、現場で触れる鉄骨の冷たさとは種類が違った。鉄骨は朝の冷たさ、こいつは夜の冷たさだ。起動を待っていた機械だけが持つ、忍耐の温度。
電源ケーブルは、ずっとコンセントに差さったままだった。差したまま、忘れたふりをしていた。本当はいつでも戻れる場所を残していた。自分でも気づかないふりで、だ。
背面のダストカバーを外す。ファン周りに灰色の綿埃が固まっている。作業着のポケットからハンカチを取り出して、内側を一度だけ拭いた。白いハンカチに、黒い粉が線を引く。廃ビル清掃で慣らした手つきのまま、俺はVRハードを掃除していた。おかしな話だった。昼間はコンクリートの残骸を掻き出す手で、夜は自分の過去を掃き出している。指の動きは同じなのに、拭った粉の重さが違った。
胸の奥で、何かが細く震えはじめていた。恐怖でも、懐かしさでもない。もっと粗い、砂のような感情。三年間、蓋をしてきた箱の縁が、指先でこつんと鳴った音に近い。喉の奥で唾を飲み込む。その一口が、さっきの発泡酒より重かった。
電源を押す。
起動音が、三年前と同じキーで鳴った。ロゴが点く。液晶の青い光が、俺の顔の半分を照らす。壁に伸びた影が、ふいに剣を持ったシルエットに見えた。気のせいだ。
「カルマ継承者、か」
声に出すと、不思議と背骨が伸びた。
アカウント認証画面。俺のIDは生きていた。課金情報だけ、解除していなかった。月々四百八十円、惰性で引き落とされていた基本サービス料。それが今夜、意味を持つ。
パスワードを打ち込む指が、途中で止まった。
最後にログアウトした日のパスワードを、覚えているか。
「……黒曜、最後の日」
指が、勝手に記憶の通りにキー配列を弾いていた。
認証成功。
ヘッドセットを被る。ベルトを締める。フルダイブの同意画面が、網膜の内側に浮かぶ。
──本サービスは脳波直結のフルダイブを含みます。継続してよろしいですか。
画面の下、小さく注意書きが流れていた。三年ぶんの規約改定のダイジェスト。俺はそれを、一行も読まずに「同意」を押した。
読む必要は、なかった。
戻るためじゃない。塗り替えに行くためだ。
視界が白く溶ける。
耳の奥で低い起動音が唸る。フルダイブ特有の、臓器が一瞬だけ浮く感覚。三年ぶりだったが、身体は忘れていなかった。
光が切り替わる。
チュートリアル跡地の石畳。夜の風。遠くに篝火の揺れ。
そして、俺の視界の右端に、半透明のウィンドウが音もなく展開した。
見たことのない表示だった。
《熟練度継承:LEGACY──検出》 《固有フラグ:解錠準備中》
広場を行き交う他プレイヤーの頭上に、薄い数値が漂っている。
俺にだけ、見える数字。
「……なんだ、これ」
指先が、まだ掴んでいない剣の柄を、無意識に求めていた。
三年前の俺が、俺の中で、静かに立ち上がる。