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玄黄兵譜 ―亡国の王子、下剋上の狼煙―

第3話 第3話

第3話

第3話

谷を出て、幾つの沢を越えたかは数えられぬ。  凛煌が辿り着いたのは、榛生(はんせい)という名の寒村であった。北方・鉛霞山系の裾、谷川が蛇のごとく屈曲する痩せ地に、土壁と藁葺きが二十戸ほど寄り集まっている。冬を越したばかりの田は白く霜に覆われ、肥える気配もない。村の入口に立つ標石は風化して、刻まれていたはずの村名さえ半ば読めなくなっていた。  少年は名を棄てた。  背から禁書を布に巻き、襤褸の農衣に身を沈め、名を問われれば「煌(こう)」とだけ答えた。王子の凛煌ではない、ただの逃散農夫の煌である。村長の石蓋(せきがい)老はその身上を深く問わず、納屋の片隅と、朝夕二椀の粥を与えた。 「薪を割れるか」 「割れまする」 「割れぬ者はここにはおらぬ」  老はそれだけ言って、欠けた斧を差し出した。斧の刃は幾度も研ぎ直され、刃先は三日月のごとく痩せていた。柄の樫は、幾人の掌の脂を吸ったものか、黒々と飴色に染まっている。凛煌がそれを受け取ると、老の眼が一瞬、少年の指先を舐めるように見た。絹袖の下で育った、細い、白い指である。老は何も言わなかった。ただ軽く顎を引き、裏庭の薪束を指した。それだけのことが、かえって少年の胸を灼いた。──この老は、すべて見抜いている。見抜いた上で、問わぬのだ。  三月(みつき)が過ぎた。  手は節くれ、掌には固い胝(たこ)がいくつも生え替わり、剝がれ替わった。王宮で絹の袖を払っていた指は、いまや斧柄の樫を握り、根雪の下から薪を掘り出す手である。夜、納屋の藁に背を沈めれば、腰の骨が軋む音が聞こえた。それでも、眠れば夢に白夜の笑みと父王の袖が現れ、凛煌は幾度も闇の中で目を覚ました。禁書は、相変わらず一字も読めぬ。ただ布を解いて紋様を撫でる夜だけが、この身がまだ凛煌であることの、細い糸であった。

 村には、重税がかかっていた。  簒奪者・黒鉄郎は帝都を奪ったその足で、北境十三郡に新税を布告していた。穀十に二を徴していた旧税を、五に三へと改めたのである。麦の穂が結ぶ前から、郡吏は升を抱えて村を廻り、前倒しに差押の印を打っていく。石蓋老は鬚を梳きながら、火桶の前で呟いた。 「この春、童(わらべ)三人が死んだ。腹を空かせて、雪解けの水を飲み過ぎて腹を下してな」  老の声は恨みを帯びてはいなかった。恨みを帯びる体力すら、この村には残っておらぬのだ。凛煌は薪を抱えて土間に立ち、ただ老の皺の奥を見ていた。火桶に落ちた炭の粉が、ちり、と小さく爆ぜ、細い煙が老の眉のあたりで一度だけ渦を巻いた。老の瞳は、その煙を追わなかった。追う気力もない、というよりは、追うに足る何物も、もうこの世に残っておらぬのだという眼であった。──父上の治世には、このような税はなかった。そう言いかけて、唇を噛んだ。父上の治世に「あった」ものを、自分は一つでも数えられるか。絹の衣、金の盃、朱塗りの欄干、宮女の笑い声──数えられるのは、己の周りを飾っていたものばかりである。村の童の腹にあったものを、凛煌は一粒も知らぬ。 「煌よ、お前、帝都を見たことがあるか」 「……ございませぬ」 「そうか。儂も、無い」  老は乾いた笑みを落とし、火桶に炭を足した。炭は湿っていて、ちちち、と細い悲鳴のような音を上げた。その音を聞きながら、凛煌は己の掌を見た。胝の上に、また新しい胝ができかけている。帝都も、この村も、この掌の上では同じ重さであった。重さというよりは、軽さだ。どちらも、凛煌という器に、まだ容れられていない。

 石蓋老の孫娘を、藜(れい)といった。  年は十四、五か。頬は青白く、袖口はほつれ、しかし眼だけは、雪の下の若芽のように澄んでいた。娘は毎朝、納屋の戸口に一椀の粥を置いた。粥は日に日に薄くなり、終(つい)には湯に麦粒が数えるほど浮かぶだけとなった。それでも娘は、椀を置くとき、必ず両手を添えた。片手でも運べる軽さの椀を、両手で置くのである。凛煌はその所作を、幾度か納屋の隙間から盗み見ていた。娘の指先は、霜焼けで赤黒く腫れ、節々に細かな罅が走っていた。その指で、娘は毎朝、椀の位置を二度三度と直した。戸口の土が凍てて歪んでいるので、そうせねば椀が傾いて粥が零れるのだ。零れれば、それは麦粒の数を減らすことに他ならぬ。娘は、一粒を惜しんでいた。惜しみながら、それを他人に差し出していた。  ある夜半、凛煌が薪の束を担いで納屋へ戻ると、戸口に藜が立っていた。手には、欠けた椀が一つ。 「煌殿。……これを」  差し出された椀には、粟の粥が、わずかに粘りを帯びて揺れていた。朝の湯粥よりも、遥かに濃い。湯気は細く、弱く、しかし確かに立っていて、冷えた夜気の中で娘の頬にほのかな影を落としていた。少年は息を呑んだ。これは、藜の分である。 「……お前の夕餉では」 「今日は、祖父さまも食べぬと申されて」  藜は目を伏せた。睫毛の先で、囲炉裏の残り火が小さく跳ねて見えた。嘘の下手な娘であった。凛煌は椀を押し返そうとした。だが、娘の細い指が椀の縁に絡みつき、離さぬ。指は冷え切って、爪の先が紫がかっている。その指が、椀の温みを、少年の指先へ分け与えようとするかのように、一度だけ強く押し返した。 「煌殿は、薪を割る。薪がなければ、冬は越せぬ。──割る者は、食わねばならぬ」  幼い声であった。だが、その一語一語に、藜という娘の短い十四年が凝っていた。食う者と、食わせる者。薪を割る手と、椀を運ぶ手。村は、そうやって、辛うじて成り立っている。  凛煌は椀を受け取った。粥は、指先にほんのりと温かかった。温かさは、掌の胝を通り抜け、胝の下の、まだ柔らかい肉のあたりまで、じわりと染みた。それは、絹布団の温みとも、夏の陽光の温みとも違った。人が、己の分を削って譲り渡した、そういう種類の温みであった。  ──王宮で、自分は何椀の粥を、誰のために温めたか。  その問いは、喉ではなく、腹の底に落ちた。落ちて、重くなった。凡庸と嘲られた飾り王子は、そもそも椀など持ったことがなかった。持たぬ手で、この娘の椀を受け取る己が、ひどく汚いもののように思えた。指先の胝さえ、三月かけて手に入れた偽の胝のように感じられた。本物の胝は、この娘の霜焼けた指の罅にこそ宿っているのだ。  だが、受け取らねばならぬ。薪を割る者は、食わねばならぬ。そう娘が言ったのだ。凛煌は椀を両手で抱え、頭を垂れた。言葉は出ぬ。出せば、泣く。十七の飾り王子は、三月のあいだに、泣き方を少しだけ忘れかけていた。藜は小さく一礼し、闇の中へ戻っていった。娘の藁沓が、凍てた土を踏む音が、かし、かし、と遠ざかってゆく。その音が聞こえなくなるまで、凛煌は戸口に立ち尽くしていた。椀の中で、粟の粒が、ひとつ、ふたつ、己の呼吸に合わせて微かに揺れていた。  その夜、凛煌は禁書を開いた。相変わらず文字は読めぬ。だが、玄と黄の紋様を眺めながら、少年は初めて、復讐という語を舌の上で転がさなかった。代わりに転がったのは、粥の味であった。薄い粟の甘み、そのわずかな粘り、欠けた椀の縁の冷たさ。──父上の治世の税は、この村まで、何を届けていたか。届いていなかったとすれば、己は何を「還す」つもりで、あの夜「必ず還る」と誓ったのか。  納屋の梁の暗がりに、白夜の笑みが浮かんでは消えた。老将は、答えぬまま首を刎ねられた。答えは、生き残った者が、己の足で探せ、ということだろう。凛煌は椀の底を指で撫で、残った粥粒を舌に乗せた。粥は、鉄の味も血の味もせぬ。ただ、民の飢えの味が、そこにあった。飢えに、味などない、と人は言うかもしれぬ。だが確かにあった。薄く、透き通り、それでいて芯のところに、石のように冷たい塊が沈んでいる──そういう味であった。少年は舌の上でその塊を幾度か転がし、やがて飲み下した。胸の奥、心の臓のあたりで、塊はゆっくりと溶けていった。溶けながら、溶け切らぬ何かを残した。その残滓が、これから己を導くのだと、凛煌はまだ知らぬ。

 翌朝のことである。  東の空がまだ乳色に染まる前、村の老犬がけたたましく吠え立てた。凛煌は斧を握ったまま、納屋の戸を押し開けた。  遠く、峠の向こうから、地を揺らすような音が近づいていた。  雷ではない。季節外れの雷であれば、空が鳴る。だが、鳴っているのは地の底である。一打、二打、三打──次第に数を増し、やがて数え切れぬ連打となって、村の土壁を微かに震わせた。積まれた薪束の上から、白い霜の粉が、さらさらと落ちた。  蹄音であった。  一騎や二騎ではない。百を超え、恐らくは三百に達する軍馬の、峠を下る音である。  石蓋老が家の戸口に這い出てきた。老の白髯が、朝風に微かに揺れる。老の背後から、藜が顔を覗かせた。娘の眼は、もはや若芽の色ではなかった。雪解け前に、もう一度凍り直した若芽──そういう、硬い、澄んだ色をしていた。 「……煌よ。ありゃあ、討伐の兵だ」  老の声には、もはや驚きすらなかった。諦念だけが、皺の奥で静かに座っていた。  凛煌は斧を握りしめた。掌の胝が、三月分の重みで樫に食い込む。懐の禁書が、布の下で、冷たく──一度、深く、脈打った。

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