第2話
第2話
葦の穂が、朝を待てぬ湿気に濡れていた。 凛煌は泥を掻き分けて這い上がった。懐の禁書は鉛のように重く、濡れた衣が肌に貼りついて熱を奪う。王宮の炎は地平の端で赤く燻り続け、風向きのままに煤の匂いを運んでくる。父王の血も、女官の断ち切られた悲鳴も、老将の最後の一喝も、すべてがいま、少年の腹の底で渦を巻いていた。 葦原の先には黒々と横たわる低山があり、その稜線の向こうに北の峰々が連なる。白夜が言った。半里流されれば城外の葦原、そこから北の山岳へ、と。老将の声がまだ耳元に残っていた。 「──北の、山岳へ」 凛煌はその一語を呪文のように唱えた。呪文でもなければ脚は動かぬ。十七の体は、冬の水に浸かった罰として、膝から先が他人のもののように感じられる。 背後、葦の原を切り裂いて、馬蹄の音が近づいていた。まだ遠い。だが、遠いからこそ恐ろしい。馬は、歩より速い生きものである。歩く者と駆ける者、その差は蓋(ふた)をして数えれば、絶望という名の穴になる。 少年は這うように葦を抜け、雑木の間へ身を滑り込ませた。小径はなく、露に濡れた下生えが脛を刺す。それでも、根と石の隙間へ身を投じる。背後の馬蹄に混じって、男たちの低い声が飛んできた。 「王子は書を抱えておる。水に濡れておろう、痕を追え」 黒鉄郎麾下、索敵斥候の声であった。凛煌は息を殺し、己の吐く白息を袖の裏に押し込みながら、斜面の闇へ駆け込んだ。
──その同じ刻、帝都瑠央、内城地下書庫の石段では、すでに火花が散り止んでいた。 白夜は石段を背にして太刀を構え、三人の敵をすでに斬り伏せていた。だが、背に受けた二本の矢が、もう重心を奪っている。具足の下で血がじわりと板金を湿らせ、足許の石畳を黒く染めた。 四人目の槍を、老将は刀身で跳ねた。跳ね返す力は、往時の半分も出ぬ。背の傷、七十年分の歳月、そして──己の使命を果たし終えたという安堵。三つが腕を重くしていた。 「飾り物の父子の、飾り物の臣とは、憐れよなあ」 甲冑の喉元に銀の緒を結んだ若い将校が、兵の間から進み出た。黒鉄郎麾下、第三陣・斉焔(せいえん)の名を帯びる男である。白夜は笑った。皺の奥で、笑いだけが若かった。 「飾り物の頸なら──容易う刎ねられよう。さあ、参られよ」 老将は太刀を投げ捨てた。鋼が石を打つ澄んだ音が、書庫の闇に広がる。投げ捨てた意味は一つ。時を稼ぐのはここまで、殿下はもう水路の半里を下った、あとは黙って頸を差し出し、敵の刃を鈍らせてやるだけ。 白夜は片膝をつき、次に両膝を折り、そして頸を垂れた。 斉焔の刃が、燭の最後の火を舐めて走った。
鋼が骨を断つ鈍い響きが、帝都の地底から北の森の斜面へ、水脈と夜気を伝って届いたとき──凛煌は木の根にしがみつき、崖縁をよじ登っていた。 耳の奥で、あの一撃がまだ反響している。老将が頸を斬られた音か、己の心音か、少年は判じることを止めた。判じたところで、戻れはしない。 馬蹄は斜面の下で一度乱れ、また整う。斥候は馬を降り、草の寝かたを読んでいるのだろう。凛煌はわざと、硬い石の尾根を選んで登った。泥の足跡を残さぬためである。いつ覚えた技か、と己に問うて、記憶の底から父王の声が立ち上がった。 「猟の名手は、鹿の脚を読むのではない。鹿の怯えを読むのだ」 幼き日、御狩場で聞いた言葉だった。怯え──いま、この体を動かしているのは、それだった。 やがて山峡に入った。谷は狭く、両岸の崖は人の背丈の七倍ほど、見上げれば空が帯のように細い。水は流れておらず、乾いた石が苔に覆われている。古老の話では、瑠央北方・鉛霞(えんか)の山系には、古戦の兵が隠れ住んだ洞窟が無数に穿たれていると聞いた。 凛煌は谷の奥へ分け入った。果たして、苔生した岩陰に、大人一人が屈んで入れるほどの亀裂があった。 身を滑り込ませ、膝を抱えて、ようやく息を整える。 亀裂の内は、外よりなお冷えていた。岩肌は夜露を溜め、指で触れれば骨まで凍みる。湿った苔の匂いに混じって、微かに硝のような、古い鉄の錆びた気配が漂う。ここを塒(ねぐら)にした古戦の兵の汗か、朽ちた具足の残り香か。凛煌は耳を澄ませた。斥候の声は遠く、ただ己の歯の根が鳴る音だけが、岩の壁に小さく反響した。歯を食いしばっても止まらぬ。止めようと念じれば、喉の奥で嗚咽に化ける。少年は袖を噛み、唾の味で己をこの世に繋ぎ止めた。
懐の禁書は、まだ冷たかった。 凛煌はそれを胸から引き出した。濡れた衣とは対照的に、書の表紙は一滴の湿りもない。玄と黄の紋様が、薄暗がりの中で微かに脈打っているようにも見える。少年は息を殺し、人差し指で紙の縁を立てた。 指先が、紙に触れた刹那、皮膚の下で微かな痺れが走った。冷たさではない。熱でもない。ただ、何かに──覗き込まれている、という感覚だった。 最初の一葉が、開いた。 そこには、文字が並んでいた。細かく、連なり、ときに塊となり、ときに鎖のごとく繋がって──だが、読めぬ。 一行も、一字も、読めぬのである。 凛煌は漢字を知らぬわけではない。王宮の書庫で、古今の経史を諸博士より授かり、十五にして『春秋』の注を諳んじた。『呉子』『六韜』の兵書も、一通りは目を通した身である。だが、この書の文字はどの字書にも属さぬ。楷書でも篆書でもなく、草書の崩しでもない。線は確かに引かれているのに、意味を拒んでいる。まるで文字そのものが、読み手を品定めしているかのようだった。 目を凝らせば凝らすほど、線は鰻のごとく身をくねらせ、視界の端で形を変える気配さえあった。凛煌は瞼を強く閉じ、もう一度開いた。同じだった。いや──同じに見えて、先ほどとは一画、違っている気さえする。文字の方が、こちらを試し、こちらの瞬きを数えている。 二葉目を繰った。同じだった。三葉、四葉──凛煌の指は震え始めた。 「──読めぬ」 呻きが漏れた。 「読めぬぞ、白夜。読めぬのだッ」 老将の最期の言葉が耳に戻る。読む刻が参ります、殿下が真に目覚めなさる刻が、と。では、いつだ。いつ、来る。父王は刺され、老将は頸を刎ねられ、瑠央は燃え、己は谷底の岩の隙間で膝を抱えている。ここで眠れば死に、歩けば捕まる。その夾(きょう)の間で、一体、いつ目覚めよというのか。 胸の底から、熱いものがせり上がった。凛煌は禁書を抱きしめ、声を殺して泣いた。声を立てれば斥候に聞かれる。ゆえに喉は鳴らさず、肩だけを震わせた。震えは岩壁に伝わり、苔を微かに揺らす。涙だけが、十七の頬を伝って禁書の表紙に落ちた。 ──落ちた涙もまた、紙に染み込まず、玉のように表紙を転がって、岩の床へ消えた。 少年は一つのことを悟った。この書は、己の涙さえ拒む。己の血も、汗も、恐らくは命さえ、条件を満たさねば、この紙は受け入れぬ。読む者を選ぶとは、そういう意味であった。凡庸と嘲られた十七の王子を、禁書はいま秤にかけ、そして──まだ、選んではいない。 選ばれぬ、という事実が、刃よりも深く胸を裂いた。父王は己を最後に信じた。白夜は己のために頸を差し出した。それほどの重みを負わされた身が、いま、一葉の紙にさえ受け入れられぬ。凛煌は唇を噛み、血の味を舌の上に広げた。血もまた、紙の端に触れた途端、吸われることなく珠となって滑り落ちた。 「──ならば、問う」 少年は掠れた声で呟いた。相手は書か、天か、死者たちか、己自身か、判らぬまま。 「汝は、何を以て人を択(えら)ぶ」 答えはなかった。玄と黄の紋様は、ただ、少年の瞬きの倍ほど遅れて、一度だけ、冷たく沈むように光を吸った。
谷の空が、白みかけていた。 朝が来れば、追手は動きを変える。夜の掃討は耳を頼り、昼の掃討は目を頼る。凛煌は岩の隙間から這い出し、東の稜線へ目を走らせた。煤を孕んだ雲の下、最初の光が鈍く刷(は)かれている。 復讐と逃亡──二つの道が、この夜明けの中で並走していた。復讐は、読めぬ禁書を抱えて吠えることであり、逃亡は、禁書を捨て名を隠し凡庸を装うことである。少年はどちらも選べぬまま、ただ、白夜の最期の笑みを瞼に描き直した。 書を抱く指は、冷えたまま離れぬ。離れぬならば、いまは抱いて歩くしかない。 凛煌は一歩を踏み出した。痩せた脚が、石を噛んで軋む。谷の奥からはもう馬蹄の音は聞こえぬ。斥候たちは、いったん別の沢へ散ったらしい。だが彼らは必ず戻ってくる。 それまでに、この身を何処(いずこ)かへ── 懐の玄黄が、ほんの一度だけ、冷たく脈打った。