第1話
第1話
鐘が鳴らぬ夜であった。 代わりに鳴ったのは、鉄靴が玉砌を踏み砕く音。帝都・瑠央の空は、子の刻を過ぎてなお昼のごとく赤く、王宮の甍が次々と業火に舐められていく。城壁の上、黒鉄郎の旗が翻る。鴉の紋を黒地に染め抜いた、簒奪者の軍旗である。 内城の第三閣、燭が音もなく揺れた。 「陛下、最早──」 老宰相が膝をつこうとする刹那、その喉は一本の矢に貫かれた。王座の間に乱入した甲冑の群れは、親征帰りの誉れも忘れて畳を踏みにじる。先頭に立つ影は、背丈こそ並だが双眸に凍土を宿していた。宰相・黒鉄郎。亡国の夜を演出する本人である。 「飾り物の父子が、ずいぶんと粘ったな」 玉座に座したまま動かぬ父王の胸を、黒鉄郎は自らの刃で突き下ろした。朱が玉座の段を染めて流れ落ちる。 十七歳の王子・凛煌は、柱の陰でその一瞬を目に灼きつけていた。逃げよと父が言ったのだ。振り返るな、と。だが足は動かぬ。喉が裂けるほどに叫びかけた声を、背後の大きな掌がふさいだ。 「殿下。後生でござる」 遺臣、白夜将軍の低い声であった。
「父上──父上ッ」 凛煌の喉から漏れた呻きは、灰燼の風に散った。白夜の太い腕に抱え上げられ、少年の体は柱から引き剥がされる。白夜は七十を越えた老将である。皺深い手の甲には古傷が縦横に走り、かつて先帝の時代に十余度の軍門を叩いた武辺の証を留めていた。 「地下書庫へ参ります。お立ちになれますかな」 答えず、凛煌はただ頷いた。涙は出ぬ。胸の底に、熱でも冷でもない塊が居座り、ただ脚を前へ送らせる。 廻廊を駆けながら、少年は己の過去を見た。 凡庸な飾り王子、と人は呼んだ。武芸の試合では初太刀で転び、詩宴では韻を踏み損ねて諸侯の嘲笑を買った。父王は大ごとには叱らず、ただ「生きておればよい」と袖を撫でた。なるほど、生きてさえおればよい玉だったのだ、自分は。王統の飾り、血の保険、簒奪者に討たれるに格好の的。 父王の袖の匂いが、なぜか今更に鼻腔に蘇った。白檀と、古い墨の匂い。少年の日、詩を誤って頬を赤らめる凛煌を、父はその袖の下に匿い、「恥は血には染まらぬ」と囁いた。いま、血は玉座の段を這い、袖は業火の中である。──余はあの袖に、何を返した。何一つ、返せぬままに今宵である。胸を抉る問いは、鉄靴の音に混ざって廻廊を転がっていった。遠く、名も知れぬ女官が引き裂かれた悲鳴を上げ、それは途中で物のように途切れた。 「白夜。余は──余は何のために生まれた」 問う声は我ながら子供のものだった。老将は答えず、肩にかけた具足の紐を締め直すのみ。具足の革が鈍く軋む。その沈黙は拒絶ではなく、答えを急がぬ者の間合いであった。凛煌は己の問いの浅さを恥じ、唇を噛んだ。廊下の石畳は赤く濡れ、あちこちに近衛の屍が折り重なっている。誰かの開かれた瞳が、天井の赤い照り返しを受けて凛煌を見上げていた。見てはならぬ、と老将の掌が少年の後頭を押し、視線を前へ戻させた。 地下書庫の石段を降りると、地熱と黴の匂いが肌を打った。奥壁の一角、先代より七重の封印を重ねた鉄匣。白夜はそこに掌を当て、朱印を刻んだ指で印を結ぶ。鈍い音とともに扉が開き、中から一冊の書が現れた。 表紙に題字はない。ただ、玄と黄の二色で渦巻く紋様が描かれている。 蝋燭の火がそれを舐めた途端、紋様は生き物のごとく蠢いて見えた。黄は陽、玄は陰──混沌の始原を模したと伝わる古紋である。書庫の四方から、遠雷に似た震動が断続的に降ってくる。黴と鉄錆の匂い、そこにわずかに、消えかけた線香の残り香が混じっていた。なぜ、いまこの場に線香が。凛煌は問う暇もなかった。 「『玄黄兵譜』──先帝が秘蔵なされ、読む者を選ぶと伝わる禁書。殿下、お受け取りを」 受け取った凛煌の指先に、書は異様な冷たさで吸いついた。紙ではない。羊皮でもない。指の腹が文字の溝をなぞる度、背筋に一瞬、刃を当てられたような戦慄が走る。 冷たいのに、焼ける。矛盾した感覚が肘から肩へ駆け上がり、耳の奥で細い鐘が鳴ったような錯覚がした。手を放そうとしても、書は指先に吸いついて離れぬ。まるで──選ぶほうが、書の側であるかのように。 「読めぬ。一行も読めぬぞ、白夜」 「今は、それでよろしゅうござる」 老将は片膝を突き、少年の眼を真正面から受けた。 「読む刻が参ります。殿下が真に目覚めなさる刻が──その日まで、生きて下され」 白夜の瞳は赤く湿っていた。泣いているのではない。年輪が滲ませる、やむにやまれぬ色であった。七十年の戦場で拾わなかった涙が、いま、この瞬間のためにだけ取ってあったかのように、老将の頬を一筋だけ伝って、床の石に黒い点を残した。凛煌はその一点を、瞼の裏に焼き付けた。
頭上で轟音が鳴った。柱が裂ける音、甍が崩れる音、続いて、甲冑の足音が地下へ降りてくる気配。黒鉄郎の兵が書庫の入口を嗅ぎ当てたのだ。 白夜は静かに立ち上がった。 「水路は西の壁、三つ目の燭台の裏。水は冷えておりますが、半里流されれば城外の葦原へ出まする。そこから北の山岳へ」 「白夜、共に──」 「老いた犬に、若き天子の背は追えませぬ」 皺の奥で、白夜は微かに笑った。少年が初めて見る笑みであった。凛煌は喉をこじ開けて「将軍ッ」と叫びかけたが、その二字のあいだに老将はもう踵を返していた。 言い捨てて、老将は腰の太刀を抜いた。七十の手が握る刃は、しかし並の若武者の剣より重く落ち着いている。廊下の奥から湧き出す兵影に向き直り、白夜は鎧の袖を翻して吠えた。 「殿下の御名を呼ばせまいぞ。ここに在すは、老いぼれ白夜只一人──さあ、首が欲しくば取りに参られよ」 燭の火が揺れた。 凛煌は拳を握り、禁書を懐に押し込み、西壁の燭台を引いた。石の回転扉が鈍く開く。振り返る間もなく、背後で鋼と鋼が噛み合う音。老将の大喝と、複数の悲鳴。 石の扉が閉じる瞬間、細く鋭い隙間から、鋼の火花が一つ、飛び込んできて凛煌の頬を掠めた。熱くはなかった。むしろ、冷たい印のように肌に刻まれた。扉は音を立てて噛み合い、書庫の光が断たれ、世界は暗渠の闇に堕ちた。 水路の水は、予想を超えて冷たかった。膝まで浸かり、腰まで浸かり、ついに胸まで達したとき、少年の歯はがちがちと鳴った。流れに身を任せ、暗黒の坑を下る。頭上で再び轟音。王宮の梁が崩れたのか、水面に煤と火の粉が降ってきた。 呼吸が鼻から抜けるたび、白い蒸気が闇に溶ける。水は鉄の味がした。どこかで父王の血が、この水に混ざって下流へ流れているのではないか──そんな妄念が少年の視界を赤くした。闇は目を閉じても閉じても変わらぬ濃さで、ただ水音と自分の心音だけが世界を満たしている。腕を動かせば、袖の裡で禁書が岩のごとく重い。紙のはずが、鉛のような重さで脇腹を圧す。あの書は、水に呑まれても己の形を崩さぬのだ。 その中で──凛煌は聞いた。 首を刎ねる音である。 剣が骨を断つ、あの鈍く重い一打。遠く、確かに、老将の最期を告げる音が石壁を伝って降りてきた。 「──ッ」 声を殺した。殺せねば、追手に自らを知らせる。目頭で熱が破裂し、涙が冷水に混じって消えていく。凡庸と嘲られた十七の背に、いま、一本の棟梁が音を立てて立った。 棟梁は血で濡れ、墨で彫られ、老将の絶叫で焼き入れされていた。これから先、この棟梁が軋むたびに、自分は白夜の顔を思い出すのだろう。──忘れてはならぬ。忘れた瞬間、己は真に凡庸へ堕ちる。冷たい流水の中で、凛煌は歯を噛み締め、幾度も幾度も老将の最期の笑みを瞼の裏に描き直した。 生き延びねばならぬ。それは義務ではなく、老将の首が凛煌に預けた債券であった。 どれほど流されたか、知れぬ。 やがて水路は下り勾配を終え、葦の匂いと夜の風が肌に届いた。城外である。水は音もなく湿地へ吐き出され、少年の体は泥の岸に転がり落ちた。 懐の禁書は、ぐっしょりと濡れていた。──しかし、一滴の水も、紙には染み込んでいなかった。
凛煌は葦の陰から、帝都・瑠央を振り返った。 王宮は、赤い百合のごとくに咲いていた。 父王の亡骸を抱いた玉座が、いま、あの炎の中にある。白夜の首級が、敵軍の槍先に晒される朝が来る。凡庸な飾り王子を嘲った廷臣たちも、半数は刎ねられ、半数は跪いて黒鉄郎の靴を舐めるだろう。 「必ず、還る」 歯を軋ませた。 「父上の敵、白夜の恩、──この国の作法を、すべて書き換えてから」 懐の禁書が、冷たく脈打った気がした。 葦原の向こう、北の山岳が黒々と眠っている。十七歳の少年は、泥を拭って立ち上がり、一歩を踏み出した。 亡国の王子の逃避行は、この一歩をもって始まる。 そして、読む者を選ぶ禁書の文字列が、いつ、少年の脳裏で組み替わるのか──それを知る者は、まだ、天下に一人もいなかった。