第1話
第1話
水の滴る音が、闇に一定の拍子を刻んでいた。
第三ダンジョン、地下四層。ハンターギルドが「最下層」と分類する、報酬効率の最も低い階層だ。まともなハンターなら週に一度の定期巡回ですら嫌がるこの場所に、御堂蓮は三年間、ほぼ毎日通い続けている。
松明の灯りが苔むした壁面を舐める。蓮は足を止め、しゃがみ込んだ。通路の隅に転がる小さな魔石の欠片——昨日はなかったものだ。手帳を開き、日付と座標、欠片の色と大きさを書き留める。指先が薄く湿った紙面に触れるたびに、インクがわずかに滲んだ。この湿度では仕方がない。それでもペンを止めない。
「……三日周期が崩れてる」
独り言が湿った空気に溶けた。この区画に棲む苔蜥蜴は三日ごとに魔石を排出する。それが二日に縮まっているということは、個体の代謝に変化が起きたか、別の個体が縄張りに入り込んだか。どちらにせよ、三年間安定していたパターンが今月に入って二度崩れたことになる。
蓮は壁に手を当てた。指先にひんやりとした石の感触。微かな振動が伝わってくる——地下水脈の流れは昨日と同じだ。気温も、湿度も。だが苔蜥蜴の代謝周期だけが狂っている。蓮はその違和感を、几帳面な文字で手帳に書き加えた。
三年分の記録が詰まった手帳は、もう七冊目になっていた。背表紙に振られた通し番号を誰かが見れば、正気を疑うだろう。最下層の魔物生態記録など、ギルドに提出しても報酬の加算すらされない。
それでも蓮の足は、今日もこの暗い回廊に向かう。苔の匂いがやけに濃い。雨季が近いのかもしれなかった。蓮は松明を掲げ直し、次の区画へ足を踏み入れた。天井から落ちた水滴が首筋を伝い、冷たい線を引いた。
地上に戻ると、ギルド本部のロビーが騒がしかった。
見覚えのある顔ぶれが奥のラウンジに集まっている。中心にいるのは桐嶋——蓮と同期のハンターで、今日Bランクへの昇格が正式に承認された男だ。がっしりとした肩に真新しい銀色の胸章が光り、周囲の仲間が酒杯を掲げて歓声を上げていた。
「桐嶋さんBランクだってよ。同期じゃ二番目の速さじゃないか?」 「一番は柊だろ。あいつもうAランクの推薦試験受けるって話だ」 「マジかよ。三年でAって化け物だな」
受付カウンターの横で飛び交う会話が、否応なく蓮の耳に流れ込む。三年。同じ三年という歳月を、蓮はまったく別の場所で過ごしてきた。桐嶋が中層の魔物と死線をくぐっていた頃、自分は苔蜥蜴の排出した魔石の欠片を数えていた。柊がパーティを率いて深層攻略に挑んでいた頃、自分は壁の湿度を指先で測っていた。同じ三年が、こうも違うものになる。
蓮は視線をカウンターに落とし、依頼完了の報告書を差し出した。
受付の女性職員が書類に目を通す。一瞬、指が止まった。
「……第三ダンジョン、地下四層巡回。御堂さん、また最下層ですか」 「ええ」 「報酬は基本手当のみになりますが」 「構いません」 「あの」職員が声を落とした。「もう少し上の階層に挑戦されてはいかがですか。Eランクの許可範囲でも地下八層までは——」 「四層で十分です」
蓮が遮ると、職員はそれ以上何も言わなかった。報告書に受領印が押される。小さく乾いた音が、ラウンジの歓声にかき消された。
背後で誰かの声がした。ひそめたつもりなのだろうが、ギルドのロビーは思いのほか音が響く。
「おい、見ろよ。御堂がまた四層帰りだぜ」 「まだ辞めてなかったのか、あいつ」 「辞めないだろ。辞めたら何も残らねえもん」
笑いを噛み殺す気配。蓮は表情を変えなかった。一年目はこの手の言葉に拳を握った。二年目は聞こえないふりをした。三年目の今は、ただ事実として受け止めている。万年Eランク。昇格試験すら受けず、最下層だけを巡回し続ける男。それが御堂蓮に対するギルドの総意だった。
かつては忠告をくれる者もいた。「才能がないなら別の道を探せ」「せめてパーティに入って中層を経験しろ」。善意だったのだろう。だが三年という歳月は善意すら風化させる。今では誰も蓮に声をかけない。嘲笑ですらなく、無関心。透明な存在として扱われるほうが、蓮にとっては都合がよかった。
祝賀の輪には目もくれず、出口に向かう。ガラス扉を押し開けると、夕暮れの生温い風が頬を撫でた。ダンジョンの中の冷たく湿った空気とはまるで違う。街路に並ぶ飲食店の看板がオレンジ色の光を歩道に落とし、仕事帰りの人々が談笑しながらすれ違っていく。蓮は手帳を胸ポケットにしまい、駅への道を歩き出した。足取りに迷いはなかった。迷いがないことだけが、三年間で蓮が手に入れた唯一の収穫かもしれなかった。
蓮の部屋は六畳一間のワンルームだった。Eランクの基本手当では、これが精一杯だ。
だが狭い部屋の密度は異様だった。壁の一面を占める本棚には、ダンジョン関連の学術資料と使い込まれた探索手帳がびっしり並んでいる。反対側の壁には、蓮が独自に作成した第三ダンジョンの詳細マップが貼られていた。ギルドの公式マップには載らない細部——地下水脈の流路、苔の分布域、魔物ごとの移動パターンと時間帯——が、色分けされた線と記号で描き込まれている。三年分の観察が一枚の壁に凝縮されたそれは、もはやギルドの公式資料より精密だった。
シャワーを浴び、コンビニの弁当を片付けると、蓮はデスクに向かった。今日の記録を手帳からマップに転記する。苔蜥蜴の代謝周期の変動。赤いペンで新しい印を書き加え、しばらくマップ全体を眺めた。赤い点が二つ、同じ月に並んでいる。三年間で初めてのことだ。
原因は分からない。分からないが、記録はする。いつかこの一点が意味を持つ日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
三年間、ずっとそう思いながら記録を続けてきた。姉ならこの手帳を見て笑うだろうか。「蓮は昔から、観察日記だけは続くのよね」——そんな声が聞こえた気がして、蓮はペンを止めた。
デスクの引き出しを開ける。奥に、一台の古い通信端末。五年前の型で、画面の端にひび割れが走っている。姉の——御堂葵の私物だった。第三ダンジョン崩壊事故の現場から回収された、唯一の遺留品。
充電ケーブルを繋ぎ、電源を入れる。バッテリーはとうに寿命を迎えていたが、給電しながらなら最後の通信記録だけは再生できた。画面が青白く灯るたびに、ひび割れの影が天井に細い枝のような模様を描く。
蓮はこの五年間で、この音声を何度聞いただろう。百回は超えている。それでも指は再生ボタンに伸びる。聞くたびに、姉の声の輪郭が自分の記憶と録音との間で微かに揺らぐのが怖かった。いつか、録音の声を姉の声だと認識できなくなる日が来るのではないかと。
ノイズ混じりの音声が、薄暗い部屋に流れ出した。
『——蓮、聞こえる? こちら御堂葵。第三ダンジョン最深部、地下四十二層。予測より遥かに深い——計器が全部振り切れてる』
荒い呼吸。何かが崩れる重い轟音。そして——
『最深部に、生きている迷宮がある。ここは——これは、人が作ったものじゃない。蓮、もし私が戻れなかったら——』
通信は、そこで途切れる。いつもと同じ場所で。同じ沈黙で。
蓮は端末を握ったまま、しばらく動けなかった。指の関節が白くなるほど力がこもっていることに、自分では気づいていない。
生きている迷宮。五年前、その言葉の意味は分からなかった。今でも理解しているとは言えない。だが最下層を三年間歩き続けて、ひとつだけ確かになったことがある。ダンジョンは変化している。ギルドが「安定した地下構造体」と公式に分類する第三ダンジョンの最下層で、苔蜥蜴の代謝が周期を崩した。壁面の湿度分布が、三年前の記録と合わなくなっている。
些細な違和感だ。誰も気にしない。気づきすらしない。
だが蓮の七冊の手帳には、その変化がすべて記録されている。
端末の電源を落とし、枕元に手帳を置いた。明日もまた、四層に潜る。暗い天井を見上げる目に、迷いはなかった。姉の声の残響だけが、鼓膜の奥でまだ小さく震えていた。