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万年Eランクの観察者

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の第三ダンジョンは、夜とは違う顔を見せる。

地下に朝も夜もないはずだが、蓮にはわかる。地上の気温変化が地下水脈の流速に影響し、壁面の結露パターンが微妙に変わるのだ。朝方は水滴が細かく、夕方になると粒が大きくなる。三年間同じ壁を見続けた人間だけが読み取れる、ダンジョンの体温のようなものだった。

地下四層の入口で松明に火を点ける。ギルド支給の魔導灯もあるが、蓮は松明を好んだ。炎の揺らぎが壁面の凹凸を浮き彫りにし、魔導灯の均一な光では見落とす陰影を教えてくれる。手帳を左手に、松明を右手に。いつもの装備、いつもの順路。

今日の巡回はD-7区画から始める。昨日記録した苔蜥蜴の代謝異常の追跡調査だ。排出された魔石の欠片がまだ残っていれば、結晶構造から個体を特定できる。蓮は通路の角を曲がり、昨日の地点にしゃがみ込んだ。

欠片はあった。だが位置が変わっている。昨日は壁際にあったものが、通路の中央寄りに転がっていた。蹴飛ばされたのか、あるいは——蓮は欠片を拾い上げ、松明にかざした。淡い青緑の燐光。苔蜥蜴のものに間違いない。だが結晶の表面に、見慣れない縞模様が走っていた。

手帳を開き、過去の記録と見比べる。苔蜥蜴の魔石は通常、均一な半透明だ。縞模様が出るのは外部から強い魔力干渉を受けた場合に限られる。蓮はその事実を、二年前に学術資料で読んでいた。実物を見るのは初めてだった。

欠片をポーチにしまい、立ち上がる。松明の炎が揺れた。風はない。地下四層に気流が発生するのは地下水脈が増水した雨季だけで、今はまだ乾季の終わりだ。なのに炎が揺れた。蓮はそのわずかな異変を、几帳面に手帳へ書き留めた。

D-7区画の壁面調査に移る。蓮は松明を壁に近づけ、いつものように表面をなぞった。

第三ダンジョンの壁面には、肉眼ではほとんど判別できない魔力紋様が刻まれている。ギルドの学術部門はこれを「構造維持術式」と呼び、ダンジョンの壁や天井が崩落しないのはこの術式のおかげだとしている。ほとんどのハンターは壁の紋様など気にもしない。目に見えず、触れても感じず、ただそこにあるだけのものだから。

だが蓮は三年間、毎日この壁を見てきた。

松明の炎を一定の距離と角度で壁面にかざすと、魔力紋様がごく淡い光を反射する。その反射パターンは区画ごとに固有で、蓮は手帳の中に全区画の「光の指紋」を記録していた。正気の沙汰ではない作業だと自分でも思う。だが三年前、姉の通信記録を聞いた夜に始めたこの記録を、蓮は一日も欠かしたことがなかった。

松明をかざす。壁面が淡く応える。

蓮の指が止まった。

紋様が——違っている。

D-7区画の北壁、座標にして通路入口から十四歩目の地点。構造維持術式の反射パターンに、見たことのない揺らぎがあった。規則的に並ぶはずの光点の一つが、かすかに明滅を繰り返している。脈打つように。

蓮は手帳を開いた。七冊目の百二十三頁。D-7区画北壁の記録は、三年分すべてこの一頁に凝縮されている。毎日同じ壁を見続けた一〇九五日分のデータ。季節変動、地下水脈の増減に伴う微細な変化、苔の繁茂期に起きるわずかな乱れ——それらすべてを差し引いても、今目の前で起きている明滅は、過去のどのパターンにも該当しなかった。

呼吸を整え、松明の角度を変えてもう一度確認する。変わらない。明滅は続いている。

蓮はポーチから小さな魔力測定器を取り出した。ギルドの備品ではなく、自費で購入した携帯型の旧式モデルだ。精度はギルドの大型機材に遠く及ばないが、相対的な変化を捉えるには十分だった。測定器を壁面に当てる。針が揺れた。基準値から〇・三ポイントの上昇。誤差の範囲と言われればそれまでだが、蓮の記録では、この区画の魔力値は三年間で〇・一ポイント以上の変動を示したことがない。

〇・三は異常だった。蓮にとっては。

ギルドに報告しても一笑に付されるだろう。「最下層の壁の光が少し揺れている」——それがどうした、と。蓮自身にも、この異常が何を意味するのか分からなかった。だが三年前に苔蜥蜴の排出周期の記録を始めたとき、その意味だって分かっていなかった。分からないから記録する。意味は後からついてくる。

蓮は測定値を手帳に書き込み、明滅する光点の正確な位置に赤い印をつけた。それから松明を掲げ直し、隣接する壁面を確認し始めた。

異常は一点だけではなかった。

D-7区画の北壁に沿って調査を進めると、同様の明滅がさらに三箇所で確認された。いずれも微弱で、意識して探さなければ見落とすほどだ。蓮は四つの光点の位置を手帳に記し、線で結んだ。

奇妙な配列だった。四点は等間隔ではなく、不規則に散らばっている。だが蓮がマップ全体の中にその四点を落とし込んだとき、別の規則性が見えた。四つの明滅点を結ぶ線を延長すると、すべてがD-7区画の最奥部——ギルドのマップで「行き止まり」と記された壁面の一点に収束する。

蓮は足を速めた。松明の炎が空気を裂き、湿った壁面に揺れる影を投げる。D-7区画の最奥は、三年間で数えきれないほど通った場所だ。苔の分布を調べるために何度も壁に手を当て、湿度を測り、亀裂のひとつひとつまで記録してきた。そこに隠し通路などあるはずがない——蓮自身がそう断言できるだけの記録を持っている。

行き止まりの壁が見えた。苔に覆われた灰色の石壁。見慣れた景色。何も変わっていない——はず、だった。

松明をかざした瞬間、蓮は息を呑んだ。

壁面の構造維持術式が、四つの明滅点とは比較にならない強さで脈動していた。規則的な明滅ではない。まるで呼吸をするように、ゆっくりと膨らみ、縮み、また膨らむ。三年間この壁を見てきて、一度たりともこんな現象は起きていない。

蓮は手帳を握りしめたまま壁に近づいた。松明の熱が苔を乾かし、かすかに青臭い匂いが立ちのぼる。壁面に手を当てた。

振動があった。地下水脈のものではない。もっと深く、もっと遅い振動。まるで巨大な心臓が、壁の向こう側で鼓動しているような。

蓮の指先が、苔の下に隠された筋を見つけた。目では気づかなかった。だが三年間壁に触れ続けた指先が、石の継ぎ目のわずかな段差を拾い上げる。筋は壁面を横に走り、直角に折れ、縦に伸びていた。長方形の輪郭。人ひとりが通れるほどの。

蓮はゆっくりと苔を剥がした。指先に冷たい石の肌触り。その下から現れたのは、ギルドの公式マップには存在しない、精緻な封印紋様で縁取られた——扉の輪郭だった。

松明の炎が、封印紋様の刻線に影を落とす。蓮はしゃがみ込み、扉の輪郭に沿って指を這わせた。

紋様は構造維持術式とはまったく異なる体系だった。蓮の知識では解読できないが、刻みの深さと風化の具合から、相当な年月が経過していることだけは読み取れた。少なくとも、ギルドが第三ダンジョンの調査を開始するよりも前——おそらく数百年の単位で古い。

手帳に紋様のスケッチを取りながら、蓮の思考は姉の最後の言葉を反芻していた。

「最深部に、生きている迷宮がある」

地下四層は最下層であって最深部ではない。ギルドの分類上はそうなっている。だがもしこの壁の向こうに、ギルドの測量が届かなかった空間があるとしたら。蓮が三年間記録し続けた微細な異常——苔蜥蜴の代謝変動、湿度分布のズレ、そして今日の魔力紋様の明滅——そのすべてが、この扉の向こう側から漏れ出した何かの兆候だったとしたら。

封印紋様の脈動が、少しずつ速くなっている気がした。蓮はその拍動を手帳の隅に時系列で記録しながら、自分の心臓もまた、同じように速くなっていることに気づいていた。

扉は開いていない。封印は生きている。だがその封印の呼吸が、三年間の沈黙を破って今ここに現れたということは——何かが、変わり始めている。

蓮は手帳を閉じ、松明を掲げて立ち上がった。壁の向こうから、かすかに、何か古いものの匂いが漏れていた。苔でも水でもない。もっと深い場所の、もっと長い時間を含んだ匂いだった。

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