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万年Eランクの観察者

第3話 第3話

第3話

第3話

封印紋様に縁取られた扉の前で、蓮は三度深呼吸をした。

松明の炎が壁面の脈動に合わせるように揺れている。昨夜の発見から一日。蓮は一度地上に戻り、装備を整え直してここに来た。追加の松明を三本、携帯型魔力測定器の予備電池、応急処置キット、そして七冊目の手帳。ギルドへの報告は、していない。

報告すべきだという判断は正しい。未記載空間の発見はギルド規定で即時報告が義務づけられている。Eランクの単独行動許可範囲を逸脱する可能性も高い。だが蓮の中にある何かが——三年間最下層を歩き続けた執念とも、姉の最後の通信への固着とも呼べる何かが、まずは自分の目で確かめることを選ばせた。

扉の前にしゃがみ込む。封印紋様に指先を近づけると、紋様の脈動がわずかに速まった。反応している。蓮の——いや、人の存在に。

指が石に触れた瞬間、紋様全体が一度だけ強く光り、そして消えた。

低い振動が足裏を震わせる。扉を構成していた石壁がゆっくりと内側に沈み込み、人ひとりが横向きに通れるだけの隙間が現れた。冷たい空気が噴き出し、蓮の前髪を揺らす。地下四層の湿気とは質の異なる冷気だった。もっと深い。もっと古い。骨の芯まで沁みるような、何百年も動かなかった空気の重さがあった。

蓮は松明を隙間に差し入れた。炎が大きく煽られ、一瞬消えかけて、すぐに持ち直す。奥に空間がある。暗闇の中に、松明の光が届く範囲だけがぼんやりと浮かんでいた。

手帳を開き、時刻と現在の状態を記録する。ペンを走らせる指先が微かに震えていた。寒さのせいだけではないことを、蓮自身が一番よく知っていた。

隙間に身体を滑り込ませた。

通路は狭く、天井が低かった。

松明を掲げても頭上までわずか二十センチほどの余裕しかなく、蓮は自然と腰を屈めて進むことになった。壁面は第三ダンジョンの灰色の石材とはまるで違う——黒に近い濃紺の岩肌で、表面に細かな結晶が散りばめられている。松明の光を受けて、結晶のひとつひとつが暗い星のように瞬いた。

足元には苔が密生していた。地下四層の苔とは種類が異なり、白に近い薄緑色をしている。踏むたびに湿った感触が靴底を通じて伝わり、微かに甘い腐葉の匂いが立ちのぼった。この苔が光を発しているのだと、数歩進んで気づいた。松明を下ろすと、足元が仄かな燐光に包まれている。生物発光だ。光源なしでもかろうじて足元が見える程度の、頼りない光。

通路の壁面に手を当てる。冷たい。だが第三ダンジョンの壁のように無機質な冷たさではなく、生きた石の冷たさだった。指先に感じるわずかな振動に意識を集中する。壁の向こうに何かが流れている。地下水脈よりもずっと遅く、ずっと太い流れ。脈動のリズムを手帳に記録しようとして、それが扉の封印紋様と同じ周期であることに気づいた。

この空間全体が、ひとつの鼓動に同期している。

通路は緩やかな下り勾配を描きながら蛇行していた。歩数を数えながら進む。五十歩。百歩。二百歩を超えたあたりで、壁面に変化が現れた。

文字だ。

黒い岩肌に直接刻まれた術式だった。封印紋様の一種であることは分かるが、扉のそれとは体系が違う。より古く、より複雑で、より切迫した印象を受ける。蓮の知識では解読できないが、刻み方が荒いことだけは読み取れた。丁寧に設計された術式ではない。何かを急いで封じ込めなければならなかった者の手跡。

術式をスケッチしながら進む。通路が広がり始めている。天井が高くなり、壁と壁の間隔が開いていく。苔の燐光が強まり、松明がなくても輪郭が判別できるほどになった。空気の温度がさらに下がる。吐く息が白い。

そして——通路が終わった。

蓮は足を止め、目の前に開けた空間を見上げた。

広間だった。天井は松明の光が届かないほど高く、闇の中に消えている。床は平らな石畳で、苔の燐光が地表を薄く覆い、青白い湖面のように見えた。広間の壁面全体を、通路よりもさらに密度の高い封印術式が埋め尽くしている。文字の上に文字を重ね、その上にまた文字を刻んだような、狂気じみた執念の痕跡。何重にも重ねられた封印は、ここに閉じ込められたものがどれほどの脅威であったかを、言葉よりも雄弁に物語っていた。

だが蓮の目は壁面を追わなかった。広間の中央に釘付けになり、動けなくなっていた。

鎖があった。

天井の闇から五本、床面から三本。太さは蓮の腕ほどもある黒い鎖が、広間の中央で交差し、何かを縛り上げている。鎖の表面にも封印術式が隙間なく刻まれ、薄暗い光を断続的に明滅させていた。

その鎖の中心に——獣がいた。

黒い毛並み。横たわった体躯は蓮の身長の三倍はある。狼に似た輪郭だが、あらゆるものが規格外だった。四肢は鎖に巻かれて折り畳まれ、尾は石畳の上に力なく投げ出されている。肋骨の形が毛皮の下にくっきりと浮き上がり、呼吸のたびに胸郭がかすかに上下する。生きている。辛うじて。

蓮は一歩、また一歩と近づいた。恐怖はあった。だがそれ以上に、目の前の存在が纏うあまりの衰弱の気配が、足を止めさせなかった。三年間、暗い通路の果てで息絶えかけた苔蜥蜴を何度も見てきた蓮には、生き物の命の残量が皮膚感覚として分かる。この獣は——もう、ほとんど残っていなかった。

獣の頭部が見えた。巨大な頭蓋に、瞳が六つ。額から頬にかけて三対の眼窩が並んでいる。だがそのうち四つは光を失い、灰色の膜に覆われて閉ざされていた。残る二つだけが、わずかに開いている。濁った金色の瞳。かつては灼けるような輝きを放っていたであろう色が、今はほとんど燻った残り火のようだった。

蓮の手帳を握る手から力が抜けかけた。

災厄級。

知識としてしか知らない分類だ。ギルドの記録では百年以上確認されていない、大陸規模の被害をもたらし得る存在。伝承と古文書の中にしか生きていないはずのもの。それが——鎖に縛られ、瀕死の姿で、第三ダンジョンの最下層の、さらに下に。

「……お前が、いたのか」

声が出たのは無意識だった。蓮自身、何に対して語りかけているのか分からなかった。三年間の記録が突然意味を持ち始めている。苔蜥蜴の代謝異常も、壁面の魔力紋様の明滅も、すべてはこの獣の——封印の内側から漏れ出した生命活動の残滓だったのだ。封印が弱まり、内側の気配が滲み出していた。三年間拾い続けた微細な異変の、その源がここにあった。

獣の残された二つの瞳が、蓮を捉えた。

視線が交わった。

次の瞬間、蓮の体内で何かが弾けた。

腹の底から——いや、もっと深い、魂の表面とでも呼ぶべき場所から、灼熱の奔流が全身を駆け上がった。制御できない。松明が手から滑り落ち、石畳に当たって火花を散らした。膝が折れかける。視界が白く焼けて広間の輪郭が溶けた。

蓮は胸を押さえた。心臓ではない。心臓よりもっと内側の、これまで存在すら知らなかった何かが、灼けるように脈打っている。全身の血管を内側から押し広げるような圧力。魔力——これが魔力だ。三年間、ギルドの測定でほとんどゼロに近い数値しか出なかった自分の魔力が、堰を切ったように暴れ出している。なぜ今。なぜここで。その問いを組み立てる余裕すら、奔流が奪っていった。

獣の瞳がわずかに見開かれた。衰弱の底から、何かを認めたような光が灯る。

蓮の意識が明滅した。広間が遠ざかる。獣の金色の瞳だけが、白く焼けた視界の中心に残っている。膝が石畳についた。手帳が床に落ちる音が、ひどく遠い場所から聞こえた。

奔流は止まらない。身体の奥底で封じられていた何かが——三年間、いや、生まれてからずっと眠っていた何かが、獣の視線に呼応するように目を覚まそうとしていた。蓮の意志とは無関係に。蓮の身体を器として使い、溢れ出そうとしている。

意識の端が霞んでいく。石畳の冷たさが頬に触れた。倒れたのだと理解するまでに、数秒かかった。薄れゆく視界の端で、獣の灰色に閉ざされた四つの瞳のうちひとつが——ほんのかすかに、金色の光を取り戻しかけるのが見えた。

そこで、蓮の意識は途切れた。

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