第1話
第1話
空気が、軋んだ。
それ以外に表現のしようがない。四月の夕方、まだ明るい空の下で、路地裏の空気だけが別の季節になった。冷たいとか重いとかじゃない。もっと根本的な——空気そのものが、こっちを見ている感覚。
俺は足を止めた。
佐伯陽太、十七歳。今日も部活に入らず、コンビニで肉まんを買って帰るだけの放課後だった。近道のつもりで入った雑居ビルの裏手。ゴミ集積所の横を抜けて、駅前の通りに出るいつものルート。何百回と通った道だ。
なのに、首の後ろが粟立っていた。
この感覚を、俺は知っている。
小学三年のとき、横断歩道で信号待ちをしていたら急に身体が動いた。一歩後ろに下がった直後、信号無視のトラックが目の前を突っ切った。風圧が前髪を巻き上げて、アスファルトの焼けた匂いが一瞬だけ鼻腔を焦がした。中学一年の林間学校では、夜中にテントの外に何かがいると感じて動けなくなった。翌朝、隣のテントの支柱が折れて倒壊していた。
医者には異常なしと言われた。霊能者を名乗る人間には「何も視えませんね」と首を傾げられた。母さんは「陽太は勘が鋭いのね」と笑って終わりにした。
勘。そう、勘だ。ただし普通の勘とは精度が違う。
「殺気」としか呼べないものを、俺は感じ取れる。
自分に向けられた害意、あるいは危険の気配。それが人間のものか、そうでないかに関わらず。理由は分からない。説明もできない。でも外したことは一度もなかった。
だから今、この路地裏で首筋が総毛立っている事実は、俺にとって明確な警報だった。
振り返る。
通行人が一人、路地の入口側を歩いていた。サラリーマン風の中年男。その男の足元から伸びる影が——不自然だった。午後四時の太陽は西に傾いていて、影は東に伸びるはずだ。なのに男の影は、四方に広がっていた。アスファルトの上を水たまりみたいに這い、じわじわと面積を増している。
男自身は気づいていない。スマホを見ながら歩いている。
影が、盛り上がった。
平面だったものが三次元の体積を持ち始める。黒い靄が男の足元から立ち昇り、人の形を取ろうとしていた。頭らしきもの、腕らしきもの。輪郭だけがぼんやりと浮かんで、中身は真っ黒な空洞。そこから腐った泥のような臭気が漂ってきた。生ゴミの匂いとも違う、もっと根源的な——何かが腐敗し続けている、終わりのない崩壊の臭い。
心臓が跳ねた。
怖い。当たり前だ。こんなものは見たことがない。殺気は感じてきたが、その「発生源」をこんなにはっきり視認したのは初めてだった。
逃げろ。頭がそう叫んでいる。
だが足が動かない。靄の——あれの意識が、サラリーマンの男から俺に移った。殺気の矛先が変わったのが分かった。こっちを見ている。見えない目で、こっちを品定めしている。首筋から背骨に沿って、氷の指で撫でられるような悪寒が走った。膝の裏が震えている。握り締めたコンビニの袋が、かさかさと乾いた音を立てた。
「——Loss確認。動くな、坊主」
声は、背後から来た。
煙草の匂いがした。甘い煙が鼻先をかすめて、俺の横を通り過ぎた。
女だった。身長は俺より低い。百六十あるかないか。くたびれたカーキのモッズコートに、色の抜けたジーンズ。煙草を咥えたまま路地裏を歩いてくる姿は、どこからどう見てもただの中年女性だった。
ただし——纏っている空気が、異常だった。
殺気感知が沈黙している。いや、違う。沈黙じゃない。この女からは殺気を感じないんじゃなくて、殺気のスケールが大きすぎて感覚が飽和している。海の中にいるとき水を感じないのと同じだ。全方位から均等に圧がかかると、人間の感覚はそれを「無」と誤認する。
化け物だ、と直感した。あの黒い靄なんかとは比較にならない。
女は靄に向かって右手を持ち上げた。指を軽く振る。それだけだった。
靄が、弾けた。
破裂音も閃光もない。ただ——在ったものが、無くなった。人の形を取りかけていた黒い塊が、跡形もなく消滅した。あの腐敗の臭いも、まるで最初からなかったかのように路地裏の空気から抜け落ちた。代わりに残ったのは、夕方の路地裏に本来あるべきアスファルトと排気ガスの匂いだけだった。サラリーマンの男の影が、正常な長さと方向に戻る。男はスマホから顔も上げず、路地を出て行った。
何も起きなかったことになっていた。
俺だけが、呼吸を忘れて立ち尽くしていた。
「……何、ですか。今の」
声が裏返った。情けないとか思う余裕もなかった。
女が振り返る。切れ長の目が俺を見た。四十代だろうか。化粧っ気のない顔に、口元の煙草だけがやけに似合っている。
「お前、あれが見えてたのか」
質問の形をしていたが、声音は確認だった。答えを知っている人間の聞き方。
「見えて……いや。見えてはいない、と思います。ただ——」
「殺気だけ拾った?」
言葉が詰まった。今まで誰にも正確に理解されなかった感覚を、この女は一言で言い当てた。
「なんで、それを」
「お前の挙動で分かる。あの靄——お前らの言葉で言うなら幽霊みたいなもんだが、あれの形を目で追ってなかった。代わりに殺気の方向が変わった瞬間に身体が反応してた。視覚情報じゃなく、攻撃意思で対象を捕捉してる」
女は煙を吐き出した。白い煙が夕方の光に透けて、すぐに消えた。
「面白いな。ちょっと調べさせろ」
ポケットから取り出したのは、手のひらに収まるサイズの黒い板だった。スマホではない。表面に細かい文様が刻まれていて、女が指で触れると淡い光が走った。
板を俺に向ける。数秒。光が明滅して、何かの数値を表示した。
女の眉が上がった。
「霊力測定値——ゼロ」
「は?」
「ゼロだ。完全なゼロ。霊力の片鱗もない。普通の人間でも微量の霊力は持ってるもんだが、お前は本当にゼロだ。こんな数値は見たことがない」
女は黒い板の表面を指で二度叩いた。再測定。光が走り、数値が表示される。結果は同じだった。女の目が細くなった。困惑ではない。何かを確かめるような、獲物を見つけた狩人の目だった。
女は煙草を路上に落とし、ブーツの底で踏み消した。
そして、笑った。
口の端だけが持ち上がる、不敵な笑み。楽しくてたまらないという顔だった。
「霊力ゼロで殺気だけ拾える? 面白い欠陥だな」
欠陥。その言葉は、不思議と嫌じゃなかった。今まで「異常なし」「気のせい」「勘が鋭いだけ」と片付けられてきた俺の体質を、この女は初めて「何かである」と定義した。欠陥であっても、無ではない。
胸の奥で、ずっと詰まっていた何かが動いた気がした。
「あの、あなたは——」
「鬼道雪乃。退魔師だ」
退魔師。頭の中で漢字を組み立てる。魔を退ける者。さっきの光景を見た後では、冗談だと笑い飛ばす気にはなれなかった。
「坊主、名前は」
「佐伯、陽太です」
「陽太か」
雪乃と名乗った女は、モッズコートのポケットに両手を突っ込み、値踏みするように俺を見た。
「お前、暇か」
「……は?」
「暇かって聞いてる。今日の予定」
「いや、特には——」
「よし。来い」
踵を返す。当然ついてくるものだと思っている歩き方だった。
「ちょっと、どこに」
「うち。説明することが山ほどある」
立ち止まる気配はない。路地を出て、駅とは反対方向に歩いていく。
俺は数秒だけ迷った。知らない人間について行く危険性。常識的な判断。そんなものは分かっている。
だが首の後ろの粟立ちが、完全に消えていた。
この女の傍にいる限り、殺気を感じない。海の中の水。あまりにも巨大な力に包まれているせいで、外からの害意が届かない。生まれて初めての感覚だった。十七年間、常にどこかで薄く感じ続けていたノイズが——消えている。
静かだ。
まるで、ずっと鳴り続けていた耳鳴りが止んだみたいだった。世界の輪郭が鮮明になり、夕方の風が頬を撫でる感触さえ新鮮に感じる。こんなにも穏やかな放課後が存在し得たのかと、十七年間の自分が少し哀れになった。
気づいたら、足が動いていた。
「——あの。退魔師って、何なんですか」
「歩きながら話す。長くなる」
モッズコートの背中が、夕陽を受けてオレンジに染まっていた。
俺はまだ知らなかった。この日を境に、自分の世界が根本から書き換わることを。霊力ゼロの人間が退魔師の道を歩く、前代未聞の物語が始まろうとしていることを。
そして——鬼道雪乃が俺を「拾った」本当の理由を、この時の俺は想像すらしていなかった。