第2話
第2話
雪乃の家は、駅から十五分ほど歩いた住宅街の外れにあった。
古い一軒家。築四十年は超えているだろう木造二階建てで、庭には手入れを諦めた植木が好き放題に枝を伸ばしている。表札は出ていない。門扉の代わりに、錆びた鉄柵が半開きのまま固定されていた。
「散らかってる。気にするな」
玄関を開けた瞬間、煙草と古い紙の匂いが混ざった空気が流れ出てきた。散らかってるどころの話じゃない。廊下の両脇に積まれた段ボール箱、壁に立てかけられた木箱、天井から吊るされた乾燥した植物の束。まともに歩ける幅は人一人分しかなかった。
「靴はそのまま。どうせまた出る」
言われるがまま靴を履いたまま廊下を進み、奥のリビングに通された。八畳ほどの和室。畳の上に座卓が一つ、周囲には書類と本が山積みになっている。壁際の本棚には背表紙の読めない古書がぎっしり詰まっていて、その隙間に黒い板——さっき俺の霊力を測ったものと同じような道具が、何枚も差し込まれていた。
雪乃は座卓の向こう側にあぐらをかき、新しい煙草に火を点けた。
「座れ」
俺は座卓の手前に正座した。落ち着かない。当たり前だ。一時間前までコンビニの肉まんを齧りながら帰宅するだけの高校生だった人間が、今は見知らぬ中年女性の自宅の畳の上にいる。
「質問は最後にまとめて受ける。まず聞け」
雪乃が煙を吐いた。白い煙が畳の上を這うように広がり、天井の染みに吸い込まれていく。
「この世界には、お前みたいな普通の人間が知らない生態系がある。さっきの黒い靄——あれは『Loss』と呼ばれるものだ。人間の負の感情が凝固した霊的存在。恨み、嫉妬、絶望、そういったものが一定量を超えると物質界に滲み出してくる」
淡々とした口調だった。世間話と変わらないテンションで、世界の裏側を語っている。
「Lossを放置すると周囲の人間に憑く。精神を蝕み、最悪の場合は死に至る。さっきのサラリーマンも、あと数時間で意識を乗っ取られていた」
背筋が冷えた。あの男は、スマホを見ながら歩いていただけだ。何も知らないまま、死にかけていた。
「Lossを狩るのが退魔師だ。日本だけで約三千人。世界規模だと二万弱。表向きには存在しない職業で、一般人の認知の外に置かれている」
雪乃は座卓の上の書類の山から、一枚のラミネートされたカードを引き抜いて俺に見せた。顔写真付きの身分証。「退魔師協会」と印字されている。ランクの欄には「S」とあった。
「退魔師は大きく二つの系統に分かれる」
雪乃は煙草の灰を灳皿に落としながら、右手の人差し指を立てた。
「一つ目が正統派。生まれ持った霊力を術式に変換して戦う。結界術、破魔術、浄化術——いわゆる退魔師のイメージはだいたいこっちだ。霊力が高いほど強い。家系の血統で霊力量が決まるから、名門の家に生まれれば有利。退魔師全体の七割がこの系統だ」
二本目の指が立つ。
「二つ目が装備派。霊力を外部装置に充填して戦う。霊刀、符術、式神——道具を媒介にすることで、本人の霊力が低くても戦闘力を底上げできる。技術と知識で霊力の壁を越えるタイプだ。残りの三割の大半がこっちに入る」
二本の指が折りたたまれた。
「そして、どちらにも属せない連中がいる。規格外。正統派の術式も組めず、装備派の道具も起動できない。霊力が極端に低い、あるいは——」
雪乃の目が、俺を真っ直ぐに射抜いた。
「ゼロの人間」
分かっていた。さっき測定された時点で、薄々理解していた。だが改めて言語化されると、胃の底が重くなった。
「正統派は論外だ。術式は霊力を回路に通して発動する。ゼロからは何も生まれない。装備派も無理だ。霊刀も符も式神も、起動には最低限の霊力が要る。お前にはその最低限すらない」
容赦がなかった。事実を事実として、削ぎ落とした言葉で並べていく。
「つまり、既存のどの流派のどの技術体系も、お前には使えない」
沈黙が落ちた。畳の目を見つめながら、その言葉を咀嚼した。
使えない。何一つ。霊力がゼロということは、退魔師という世界において完全な無能力者だということ。さっき路地裏で見た光景——雪乃が指を振るだけでLossを消し飛ばしたあの圧倒的な力。あれと同じ土俵に、俺は立てない。立つための足場すら存在しない。
「……じゃあ、なんで俺をここに連れてきたんですか」
声が乾いていた。
「さっきも言ったろ。面白い欠陥だからだ」
雪乃は新しい煙草に火を点けた。チェーンスモーカーか、この人は。
「お前の殺気感知は異常だ。霊力ゼロの人間がLossの攻撃意思を感知するなんて事例は、少なくとも俺の知る限り記録にない。霊力で感じ取っているんじゃない。別の何かで拾ってる」
「別の何か」
「まだ分からん。だが一つ確かなことがある」
雪乃が煙草を咥えたまま、座卓の下から木箱を引っ張り出した。蓋を開ける。中には布に包まれた細長いものが収まっていた。
布を解く。刀だった。全長六十センチほどの短刀。鞘は黒漆で、柄には古い紐が巻かれている。鞘から数センチだけ抜いて見せる。刃は金属の光沢ではなく、暗い灰色をしていた。
「霊刀。装備派の基本武装だ。通常はこれに霊力を流して起動する。持ってみろ」
差し出されて、両手で受け取った。見た目より軽い。だが柄を握った瞬間——何も起きなかった。当然だ。霊力がゼロなのだから。
「何も感じないだろ」
「はい」
「そうだ。通常の霊刀はお前には鉄の棒と同じだ」
雪乃が霊刀を受け取り、木箱に戻した。
「だが、殺気感知があるなら話が変わる」
雪乃が立ち上がった。部屋の隅に歩いていき、壁に掛けられていた古い掛け軸を外した。その裏に、鉄の扉があった。
「退魔の戦闘は、突き詰めれば三つの要素だ。感知、回避、打倒。どこにいるか分かり、攻撃をかわせて、相手を倒せればいい。正統派も装備派も、この三つを霊力で実現している」
鉄の扉に手を当てる。雪乃の指先から微かな光が走り、重い金属音とともに扉が開いた。
「だがお前は、一つ目を霊力なしで持っている。殺気感知——Lossの攻撃意思を感じ取れるなら、それは感知能力だ。精度はまだ分からんが、さっきの反応を見る限り、並の正統派より鋭い可能性すらある」
扉の向こうには、下に続く階段があった。地下。コンクリートの壁に裸電球が等間隔に並んでいる。
「感知があるなら、回避は身体能力で補える。人間の肉体でLossの攻撃をかわす技術体系は存在する。俺が叩き込んでやれる」
階段を降りながら、雪乃が振り返った。裸電球の光が横顔を照らしている。
「打倒についても、方法がないわけじゃない。霊力以外のエネルギーでLossの核を破壊する手段は、理論上は存在する。実証例がないだけでな」
地下は広かった。十メートル四方のコンクリートの空間。天井は三メートル以上ある。壁には札が隙間なく貼られていて、微かに発光していた。結界か何かだろう。床には無数の傷跡——斬撃痕、焦げ跡、ひび割れ。ここで何度も何度も戦闘が行われてきた痕跡だった。
「殺気感知を武器にする戦い方がある」
雪乃が地下訓練場の中央に立った。煙草を踏み消し、モッズコートを脱ぐ。その下には黒いタンクトップ一枚。腕に走る古い傷跡が裸電球の光を受けて白く浮かんでいた。
「退魔師の術式も道具も使えない。霊力という燃料が存在しない。だったら、ない前提で組み立てればいい。お前の殺気感知を起点にした、お前にしか使えない戦闘術を」
俺は地下訓練場の入口に立ったまま、雪乃の言葉を聞いていた。
ない前提で、組み立てる。
その言葉が、不思議なほどすとんと腹に落ちた。
十七年間、俺はずっと「ないもの」として扱われてきた。異常なし。気のせい。勘が鋭いだけ。殺気を感じるという事実は、いつも「ないこと」にされてきた。そして今日、霊力がゼロだと測定された。正統派にも装備派にも属せない。退魔師の世界においても、俺は「ないもの」だった。
だが——この女は、「ない」ことを否定しなかった。ないならないで、別の組み方があると言っている。
「明日の放課後、ここに来い。訓練を始める」
雪乃の声には、有無を言わせぬ響きがあった。提案ではない。決定事項の通達だった。
「……俺に、できるんですか」
「さあな。やってみなきゃ分からん」
突き放した言い方だった。でも嘘はなかった。殺気感知は嘘を暴く。この女の言葉には打算も同情もない。純粋な——好奇心だけがある。
「霊力ゼロの人間がLossを殺せるかどうか。それを検証する実験だと思え」
雪乃が裸電球の下で笑った。路地裏で見たのと同じ、口の端だけを持ち上げる不敵な笑み。
「面白い実験になるぞ。——お前が生き残ればの話だが」
背筋を駆け抜けたのは、恐怖ではなかった。
明日が、待ち遠しい。そんな感覚を抱いたのは、十七年の人生で初めてだった。
帰り道、住宅街の夜道を歩きながら、さっきまでの出来事を反芻していた。退魔師。Loss。霊力ゼロ。殺気感知。どの単語も二時間前の自分にとっては存在しない概念だった。
携帯が振動した。母さんからのメッセージ。「晩ごはんいる?」
「いる」と打って送信した。いつもと同じ日常の言葉が、奇妙に遠く感じた。
俺はまだ普通の高校生だ。明日も学校に行って、授業を受けて、コンビニで何か買って帰る。その放課後に——あの地下訓練場へ降りる。
ポケットの中で、指先がまだ霊刀の柄の感触を覚えていた。何も起きなかった、あの空白の手触りを。
いつか、あの刀を起動できるようになるのだろうか。
首の後ろの殺気感知が、微かに反応した。遠い。ずっと遠い場所から、何かがこちらを見ている気配。雪乃のそばにいた時は感じなかった種類の——観察するような、冷たい視線。
振り返っても、誰もいなかった。夜道にはオレンジ色の街灯が等間隔に並んでいるだけだ。
気のせいだ、と今日までの自分なら思っただろう。
だが今の俺は知っている。この感覚は、一度も外れたことがないと。