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透魔眼の観測者

第3話 第3話

第3話

第3話

退社後、俺は八神の名刺を手帳に挟んだまま、地下鉄の改札を通った。

 電話はかけなかった。かける理由がないと自分に言い聞かせた。得体の知れない女が意味深な言葉を残していっただけの話だ。新規取引先を名乗っていたが、あの振る舞いはまともなビジネスパーソンのそれではなかった。手首を掴み、囁き、走り書きの番号を残して去る。普通に考えれば関わるべきではない人種だ。

 ——視える人は、視られている。

 頭の中でリフレインする。消そうとしても消えない。ホームの蛍光灯がちらつくたびに金曜の夜の記憶が蘇り、改札の向こうに立つ通勤客の輪郭をつい確認してしまう。ブレていない。誰もブレていない。当たり前だ。三十二年間、ノイズなんて月に一度あるかないかの頻度だった。金曜日が異常だっただけで、世界は正常に回っている。

 そう思おうとした。

 帰りは東京駅で乗り換えて、いつもの路線に乗る。いつもの駅で降りて、いつもの道を歩く。マンションまでの十五分。地上を歩けば商店街を抜けるルートだが、俺は冬場から地下通路を使う癖がついていた。風が当たらないし、コンビニにも寄りやすい。天井の低い、やや薄暗い通路。平日の午後八時でも人はまばらで、自分の革靴の音だけがコンクリートの壁に反響する。

 地下通路の中間あたりで、足が止まった。

 二十メートルほど先に、人影があった。

 紺のスーツ。黒い鞄。通路の壁際に立って、こちらを向いている。深夜の丸の内線のホームで見たのと同じ姿勢。微動だにしない。呼吸しているかもわからない静止。蛍光灯の白い光が男の片側だけを照らし、もう片側が通路の影に溶けている。

 金曜の夜の男だった。

 心臓が喉元まで跳ね上がった。足が後ろに下がろうとする。だが男は——笑っていなかった。金曜の夜のような、歯が多すぎる不気味な弧ではなく、穏やかな、むしろ人懐こいとすら言える表情を浮かべていた。

 「やあ」

 男が口を開いた。声は普通だった。中年男性の、少し低い、よく響く声。地下通路の反響がわずかにエコーをかけている。

 「金曜日はすまなかった。驚かせてしまったね」

 話しかけてくる。金曜の夜、向かいのホームから笑っていたあの男が、まるで顔見知りに声をかけるような気安さで、話しかけてくる。

 「……誰だ」

 声が掠れた。逃げるべきだと体が訴えている。背中の産毛が逆立ち、両手が冷たくなっていく。指先の感覚が遠い。だが足は動かなかった。金曜の夜と同じだ。見てしまったら動けなくなる。

 「名前はないよ。少なくとも、君たちが使うような名前は」

 男が一歩近づいた。革靴がコンクリートを踏む、乾いた音。歩き方は普通だ。人間そのものだ。だが——輪郭が、ブレ始めていた。

 金曜の夜より酷い。

 肩の線が二重に見える。首のあたりで境界が揺らぎ、スーツの下に別の何かが蠢いているのが透けそうになる。それなのに男の顔だけは鮮明で、穏やかな微笑みを崩さない。人の皮を被って、その下で何かが膨張している。

 「君はよく視える。とてもよく。こんなにはっきり視える人間は久しぶりだ」

 また一歩。距離が十メートルを切った。

 ノイズが激しさを増す。男の輪郭がぐずぐずに崩れ始め、スーツの肩口がぶくりと膨らんだ。布地の下で何かが動いている。一つではない。複数の、小さな塊が、皮膚の下を走り回るように蠢いている。

 「近づくな」

 声が震えた。鞄を前に構える。何の意味もない。わかっているが他にできることがない。

 男が首を傾げた。穏やかに、心底不思議そうに。

 「怖がらなくていい。俺はただ——」

 言葉が途切れた。

 男の首が、裂けた。

 正確には、首の皮膚が縦に割れて、中から黒い何かが溢れ出した。湿った音がした。生肉を引き裂くような、粘性のある重い音。裂け目は肩まで広がり、胸を走り、腹を下る。スーツごと人の形が縦に裂けて、中身がこぼれ落ちるように噴き出す。黒い、光沢のある塊。一つ一つが蟲だった。甲虫のような硬い殻を持ち、多すぎる脚で空気を掻きながら、裂けた皮膚の間から際限なく這い出してくる。

 人の形が崩壊していた。

 さっきまで穏やかに話していた中年男性の皮が、地下通路の床にべしゃりと落ちた。抜け殻のようなスーツと皮膚の残骸。その上に、黒い蟲の集合体が人の形を模して立っている。蟲の一匹一匹が別の生き物で、しかし全体で一つの意思を持っているかのように連動して動いている。形は人間に似ているが、比率がおかしい。腕が長すぎる。首にあたる部分がなく、頭部と胴体が直結している。

 そして、その頭部にあたる塊の中で——黒い眼が、二つ、俺を見ていた。

 金曜の夜と同じ眼だった。瞳孔と虹彩の区別がつかないほど黒い。蟲の集合体の奥で、その眼だけが生物的で、意志を持っていて、明確に俺を捉えていた。

 走った。

 体が動いたのは思考より先だった。鞄を投げ捨て、来た道を振り返って全力で走った。革靴がコンクリートを叩く音が跳ね返り、自分の荒い呼吸が耳の中で破裂する。地下通路は真っ直ぐで、曲がる場所がない。出口は来た方向に百メートル以上。反対側は——あの化け物が塞いでいる。

 背後で、蟲の擦れ合う音がした。甲殻が甲殻とぶつかる、乾いた、大量の。それが一斉にこちらに向かってくる音だとわかった。速い。俺の全力疾走より速い。壁を這い、天井を走り、通路全体を使って蟲の波が迫ってくる。

 足がもつれた。

 革靴の踵が滑り、体が前のめりに倒れかける。手をついて踏みとどまったが、その一瞬のロスで距離が詰まった。掌にコンクリートの粗い感触が食い込み、擦り剥いた皮膚がじんと熱を持った。背中に風圧を感じる。いや、風圧ではない。蟲の群れが巻き起こす空気の振動だ。無数の羽と脚が起こす、生理的嫌悪感を掻き立てる震え。

 追い詰められた。

 通路の分岐点——非常階段への扉の前で、足が止まった。扉を押す。開かない。施錠されている。防火扉の冷たい金属面に手のひらを押し当てたまま、振り返った。

 蟲の集合体が、五メートル先に居た。

 天井から壁から、通路の断面をびっしりと蟲が覆い尽くしていた。その中心に、人の形を模した本体が立っている。黒い眼が、じっと俺を見ている。逃げ場がないことを知っている眼だった。急いでいない。追い詰めた獲物を観察するような、余裕のある視線。

 脚が震えた。背中が防火扉に貼りつき、手のひらの汗が金属面を濡らしている。呼吸が浅い。視界が狭まる。恐怖で思考が凍りつきかけている。地下通路の空気が重い。蟲が発する微かな腐臭が鼻腔の奥に貼りつき、喉の奥がせり上がった。

 蟲の群れが、ゆっくりと距離を詰めてきた。床を覆う黒い波が革靴の爪先に触れる。甲殻の冷たい感触が、靴底を通して足の裏に伝わった。

 ——死ぬのか。

 こんな場所で。経理課の月次締めを終えた帰り道の、地下通路で。

 誰にも説明できない理由で。

 蟲の一匹が足首を這い上がってきた。ズボンの裾から脛に入り込む。細い脚の先が素肌を引っ掻き、鳥肌が膝から太腿まで一気に駆け上がった。そのとき——。

 右眼が灼けた。

 比喩ではなかった。眼球の奥に焼けた鉄棒を突き込まれたような、純粋な熱。痛みで声が出ない。両手で右眼を押さえて膝をつく。涙が溢れ、視界が歪む。左眼だけで見上げた世界は、さっきまでと同じ地下通路だった。蟲の群れが目前に迫り、黒い眼がこちらを見下ろしている。

 だが右眼を覆った手の隙間から漏れ見える世界は——違った。

 色が反転していた。

 天井の蛍光灯が黒く、コンクリートの壁が白く発光し、蟲の群れは半透明の灰色に沈んでいる。反転した世界の中で、蟲の集合体の胸のあたりに——鮮烈な赤い光が、脈打っていた。

 何だ、あれは。

 あれは——核だ。

 なぜそう思ったのかわからない。知識ではなく、直感ですらなく、右眼が勝手に「読み取った」としか言いようのない確信が頭蓋の内側に流れ込んできた。あの赤い光が止まれば、この蟲の群れは崩壊する。

 右眼の熱が全身に広がっていく。視界が明滅する。意識の端が溶けかけている。このまま見続ければ、目が壊れるかもしれない。でも視線を外せなかった。外したら終わりだとわかっていた。

 蟲の群れが一斉に動いた。

 ——その瞬間、右眼に灼きついた赤い光の残像だけを道連れに、佐伯透の意識は暗転した。

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