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透魔眼の観測者

第2話 第2話

第2話

第2話

月曜の朝、俺は何事もなかったかのように出社した。

 丸の内線の同じホームに立ち、同じ車両に乗り、同じ改札を出た。ホームの蛍光灯は白く、タイルの目地は均一で、電光掲示板の文字列は正確に到着時刻を刻んでいた。すべてが秩序立っていた。週末は部屋に籠もって録画を消化し、日曜にはスーパーで食材を買って自炊までした。鶏むね肉の塩麹漬けを焼いて、作り置きの味噌汁を温めて、白米をよそった。正常だ。まともな社会人の休日だ。金曜の夜のことは夢みたいなもので、寝不足と疲れ目が重なった一過性の幻覚で、三十二年間そうしてきたように「気のせい」の引き出しに放り込めば済む話だった。

 ——はずだった。

 エレベーターを降りて経理課のフロアに入ると、隣の席の園田が「おはようございます」と声をかけてきた。いつもの笑顔。いつもの声。だが俺は園田の輪郭を一瞬だけ確認してしまう。ブレていない。普通の人間の普通の境界線だ。安堵と同時に、そんな確認をしている自分に苛立った。三十二年間やってこなかったことを、たった一晩の出来事が習慣に変えようとしている。

 席についてPCを起動する。メールを開き、週末に溜まった社内通知を流し読みする。その中に一件、総務からの連絡があった。

 『松田さん(営業二課)が体調不良のため、本日よりしばらくお休みされます』

 松田は営業二課の主任で、俺の三つ隣の席に座っている男だ。先週の木曜から顔色が悪かった。「ちょっと風邪っぽくて」と言いながら、妙に目の下の隈が濃かった。金曜は有給を取っていたはずだ。それが今日からしばらく休み。

 気になった。金曜の夜のことと結びつけるのは飛躍だとわかっている。同僚が体調を崩すなんて珍しくもない。季節の変わり目だし、営業は外回りで体力を使う。理屈ではそうだ。でも——松田の輪郭は、先週あたりから微かにブレていなかったか。木曜の午後、コピー機の前ですれ違ったとき、肩のあたりの線が一瞬だけ二重に見えた気がした。気のせいだと片づけた。あの頃はまだ、片づけられた。

 いや。考えるな。

 俺は仕訳データの画面を開き、数字の海に意識を沈めた。借方と貸方。勘定科目と税区分。ここには曖昧なものは何もない。数字は嘘をつかないし、輪郭がブレることもない。経理の仕事が好きな理由はそれだった。

 午前中はそうやってやり過ごした。昼休み、園田と社食でうどんを食べながら、松田の話が出た。

 「松田さん、大丈夫ですかね。先週もしんどそうでしたけど」

 「風邪だろ。営業は忙しいから」

 素っ気なく答えた自分の声が、少し硬いことに気づいた。園田は気にした様子もなく、うどんを箸で持ち上げながら続けた。

 「でも最近、うちのフロア体調悪い人多くないですか。山本さんも先週早退してたし」

 園田の何気ない言葉に、箸が止まりそうになった。確かに、ここ二、三週間で体調不良の報告が増えている。具体的に何人とは数えていないが、肌感覚としてはある。

 「たまたまだろ」

 偶然だ。偶然に決まっている。

 うどんの汁を啜った。出汁の味がちゃんとした。鰹節の香りが鼻腔に広がって、舌の上に旨味が残る。金曜の夜の生姜焼きとは違う。味覚が正常に機能している。それだけで少し安心した。

 午後一時過ぎだった。

 俺が月次の減価償却データを突き合わせていると、フロアの入口付近が微かにざわついた。来客だ。営業宛の来客は珍しくないが、経理課のエリアにまで足音が近づいてくるのは少し変だった。

 顔を上げると、総務の川島が女性を一人連れて歩いてきた。

 「佐伯さん、新規取引先の八神さん。経理処理の件でお話があるそうです」

 川島はそれだけ言って去っていった。残された女は、俺のデスクの前に立っていた。

 八神凛。第一印象は「場違い」だった。

 黒のパンツスーツに白いブラウス。服装自体は標準的なビジネスウェアだが、着ている人間が標準ではなかった。年齢は二十代後半に見える。背筋がまっすぐで、肩の力が抜けているのに隙がない。目が合った瞬間、値踏みされているような——いや、透かし見られているような感覚があった。黒い瞳の奥に、観察者特有の冷たい光がある。

 周囲のオフィスの空気が、一段だけ温度を下げたように感じた。

 「佐伯透さんですね。八神と申します」

 声は低めで、よく通った。名刺入れから一枚を取り出し、両手で差し出す。所作は完璧だった。名刺には「KTコンサルティング 八神凛」とあり、住所と電話番号が印刷されていた。聞いたことのない社名だ。

 「佐伯です。お世話になります」

 俺も名刺を返した。経理課の人間に直接来客が来るのは珍しいが、新規取引先の登録や支払条件の確認で担当者が挨拶に来ることは稀にある。そういうものだと処理しようとした。

 名刺を受け取る瞬間、八神の指が俺の手首に触れた。

 冷たかった。空調の効いたオフィスで、人の体温とは思えないほど冷たい指先。反射的に手を引こうとしたが、八神は引かせなかった。名刺を渡す動作の自然な延長のまま、手首を掴んでいる。握力は見た目に反してかなり強い。細い指の一本一本が、手首の骨格を正確に捉えていた。

 「——あなた、視えてますよね」

 囁くような声だった。周囲のデスクには聞こえない、俺だけに届く音量。

 心臓が跳ねた。

 八神の目が俺を射抜いていた。さっきまでの営業的な微笑みは消え、その下にあった本来の表情が覗いている。真剣で、切迫していて、そして——どこか安堵しているような。

 「何の、話ですか」

 声が上擦った。周囲を見る。園田はデスクで資料をめくっている。向かいの山下はPC画面に集中している。誰も俺たちを見ていない。普通の名刺交換。普通のビジネス上の会話。八神はそう見えるように完璧に振る舞っていた。手首を掴んでいることすら、傍目には名刺を受け渡す自然な接触に見えているだろう。

 「金曜日の夜。丸の内線のホーム」

 血の気が引いた。

 何で知っている。あの場に八神はいなかった。ホームには俺と、向かい側のあの男しかいなかった。

 「あの男の正体を知りたければ——」

 八神が手首を離した。名刺交換が終わったかのように、自然に一歩下がる。手首に残った冷たさが、じわりと消えていくのが分かった。指の跡がまだ皮膚の上にあるような錯覚がある。

 「裏面に番号があります。今週中に」

 それだけ言って、八神凛は踵を返した。来たときと同じ、無駄のない足取りでフロアを出ていく。総務の川島が入口で軽く会釈していたが、八神は会釈を返しただけで振り向かなかった。

 全部で三分もなかった。

 俺はデスクに残された名刺を見下ろした。「KTコンサルティング 八神凛」。裏面をひっくり返す。白い余白に、ボールペンで走り書きされた携帯電話の番号が一つ。数字の下に、一言だけ添えてあった。

 『視える人は、視られている』

 指先が震えた。名刺を持つ手が定まらず、角が微かに揺れている。

 金曜の夜の記憶が蘇る。ノイズに包まれた男。こちらを見て笑った、歯が多すぎる口。あの男は俺を認識していた。俺が「視えている」ことを知った上で、笑っていた。

 八神の言葉が、その記憶に正確に重なる。

 ——視える人は、視られている。

 つまり、あれは終わっていない。金曜の夜に引き出しに放り込んだ「気のせい」は、月曜の昼過ぎに引き出しを蹴破って戻ってきた。しかも、まったく別の方向から。

 俺は名刺を手帳に挟み、減価償却のデータに目を戻した。数字は相変わらず正確で、借方と貸方は一円の狂いもなく一致していた。でも今は、その正確さが薄い膜のように頼りなく感じられた。数字が正しいことと、世界が正しいことは、もしかしたら別の話なのかもしれない。

 退社時刻まで、俺は何度も手帳を開きかけた。あの走り書きの番号を確かめるように。あるいは、夢ではなかったことを確認するように。

 園田が「お疲れ様です」と言って先に帰っていった。俺は曖昧に手を振り返した。松田の空席が視界の端にある。デスクの上に置かれたままの卓上カレンダーが、先週の日付のまま止まっていた。

 手帳を開いた。名刺の裏面の、走り書きの数字。

 電話をかけるかどうかは、まだ決められなかった。でも、もう捨てることもできないと、わかっていた。

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