第1話
第1話
三十二年間、俺の視界には「ノイズ」が走っていた。
最初に気づいたのは幼稒園の頃だ。母に手を引かれて歩いた商店街で、すれ違うおばさんの輪郭がブレた。テレビの砂嵐みたいに、ほんの一瞬だけ人の形が乱れる。怖くて母の手を強く握ったら、「どうしたの」と不思議そうな顔をされた。母には見えていなかった。
眼科に連れて行かれた。異常なし。小学校の視力検査でも引っかからない。中学で再び受診しても、結果は同じだった。
——気のせいだ。
そう結論づけるのに、そう長くはかからなかった。実際、ノイズが見えるのはごく稀で、日常生活に支障はない。見えたところで何が起きるわけでもない。俺は「たまに視界がバグる体質」として三十二年間を過ごしてきた。それだけの話だ。
金曜日の夜十一時。俺は丸の内線のホームに立っていた。
経理課の月次締めが片付かず、結局フロアに最後まで残ったのは俺だった。課長の坂口は九時に「あとは頼む」と帰り、隣の席の園田は八時半に申し訳なさそうに「お先です」と消えた。別にいい。独り身の三十二歳に急いで帰る理由はない。
ホームのベンチに腰を下ろし、鞄から缶コーヒーを出した。自販機で買った微糖。ぬるい。プルタブを起こしたときの軽い金属音が、がらんとしたホームに小さく反響した。空調の風が首筋に当たって、汗ばんだシャツが冷えていく。金曜深夜のホームは人がまばらで、遠くから線路の軋む音だけが響いていた。蛍光灯の白い光がタイルの床に反射して、妙に現実味のない空間を作っている。
俺は缶を傾けながら、向かいのホームをぼんやり眺めた。
スーツの男が一人、立っていた。
年齢は四十前後。紺のスーツに黒い鞄。この時間帯なら珍しくもない、どこにでもいるサラリーマンだ。ただ——少しだけ、違和感があった。
男の立ち方が妙に静かだった。深夜のホームで疲れた人間がする、スマホを眺めるでもなく、壁に寄りかかるでもない。線路の手前にまっすぐ立って、微動だにしない。呼吸しているのかすら怪しいほどの静止。人間というよりも、精巧なマネキンがスーツを着てそこに置かれているような、そういう不自然さだった。
まあ、人それぞれだ。俺は視線を缶に戻した。
——そのとき、ノイズが走った。
缶を持つ手が止まる。視界の端で、向かいの男の輪郭がブレていた。
いつものやつだ。すぐ消える。そう思って缶コーヒーを飲み干そうとした。だが今回は様子が違った。ブレが消えない。それどころか、激しさを増している。男の体の輪郭が、まるでテレビの受信障害のように歪み、ちらつき、人の形を保てなくなりかけている。
こんなのは初めてだった。
俺は缶を握ったまま、向かいのホームを凝視した。心臓が嫌な速さで打ち始める。こめかみの奥で血流の音がする。三十二年間で一番酷いノイズだ。普段は一瞬で消える砂嵐が、もう十秒以上続いている。男の顔が、肩が、手が——全部がブレて、別のものが透けて見えそうになる。ノイズの隙間から覗くそれは、人の形をしていなかった。少なくとも、俺の知っている人の形ではなかった。
やめろ。見るな。いつものやつだ。気のせいだ。
自分に言い聞かせた。三十二年間そうしてきたように。俺は視線を逸らそうとして——。
逸らせなかった。
男が、こちらを見ていた。
正確に言えば、ノイズの向こう側から、何かが俺を見ていた。輪郭がぐずぐずに崩れた男の顔の中で、眼だけがやけに鮮明だった。黒い。瞳孔と虹彩の区別がつかないほど黒い眼が、線路を挟んだ向かいのホームから、まっすぐ俺を捉えていた。
見えている、と思った。
正確にはもっと生々しい感覚だ。「こいつは、俺に見られていることに気づいている」——そういう確信が、胃の底から這い上がってきた。背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走り、喉の奥が締まる。呼吸が浅くなる。逃げろ、と本能が叫んでいるのに、体がベンチに縫い止められたように動かない。
三十二年間、ノイズの相手がこちらを認識したことは一度もなかった。ブレるのは一方的な視覚の異常であって、相手には何の変化もない。そういうものだと思っていた。
だが今、向かいの男は——ノイズに包まれた何かは——間違いなく俺を見て、俺が見ていることを知っている。
空気が変わった。ホームの蛍光灯がちらつく。気温が二度下がったように肌が粟立つ。缶コーヒーのアルミが、握りすぎた手の中でぺこりと凹んだ。線路の向こうから、低い周波数の振動のようなものが伝わってくる。音というよりも圧力。鼓膜の奥を押されるような不快感が、じわじわと頭蓋に染みていく。
男が、笑った。
ノイズでぐちゃぐちゃに歪んだ顔の中に、それでもはっきりわかる弧を描いて、口元が持ち上がった。人間の笑い方じゃなかった。頬の筋肉が通常の可動域を超えて引きつれ、歯が——歯が多すぎた。普通の人間にはない位置まで口角が裂けて、奥のほうに黒い何かがちらついていた。
足が動かなかった。叫び声も出なかった。舌が口蓋に貼りついて、息を吸うことすらうまくいかない。全身の毛穴が一斉に閉じるような感覚。俺はベンチに座ったまま、握りつぶされかけた缶コーヒーから指の間をつたってコーヒーが垂れているのを、他人事のように感じていた。
地鳴りのような音がして、向かいのホームに電車が滑り込んできた。車体が男の姿を遮る。ドアが開き、閉まり、電車が走り去る。
向かいのホームには、もう誰もいなかった。
缶コーヒーがアルミごと握りつぶされていた。微糖のコーヒーが指の間から垂れて、ホームのタイルに小さな水溜まりを作っていた。
俺は長いこと、そこから動けなかった。何本か電車が通り過ぎたはずだが、数えていなかった。ホームの時計の針が進んでいることだけが、時間がまだ流れている証拠だった。
三十年以上やり過ごしてきた「気のせい」が、初めて俺を見返した夜だった。
——帰りのコンビニで弁当を買う手が、まだ震えていた。
レジの店員が「温めますか」と聞いた。俺は「お願いします」と答えた。声が掠れていた。店員は気にした様子もなく弁当を電子レンジに入れ、俺は財布から小銭を数えた。正常な手続き。日常の手順。指先がまだ微かに震えている。コーヒーの染みがワイシャツの袖に茶色い線を描いていたけど、そんなことはどうでもよかった。電子レンジの低い唸りが店内に響いて、蛍光灯の光が棚のペットボトルに白く反射している。あまりにも普通の光景が、逆に現実離れして見えた。
マンションの部屋に戻り、明かりをつけた。六畳のワンルーム。脱いだスーツをハンガーに掛け、弁当をテーブルに置く。テレビをつけた。深夜のニュースが流れる。録画リストには週末に見ようと溜め込んだバラエティが並んでいる。
いつもの部屋。いつもの夜。
弁当の蓋を開けて、割り箸を割った。生姜焼き弁当。四百八十円。いつもの味がするはずだ。
箸が止まった。
あの笑顔が、まぶたの裏に焼きついている。
人の顔の皮を被った何かが、ノイズの向こう側から俺を見て笑った。歯が多すぎる口。どこまでも黒い眼。三十二年間、ずっと一方通行だと思っていた視界の異常が、今夜初めて双方向になった。
——俺は、何を見ていたんだ。
三十二年間。
ずっと。
テレビではキャスターが来週の天気を読み上げている。俺は冷めかけた生姜焼きを口に運んだ。味がしなかった。噛んでいるという感触だけが顎に伝わって、食べ物を処理しているという実感がない。それでも箸は動かした。食べなければ明日がつらい。三十二年間、そういうふうに生きてきた。目の前のことを片づける。余計なことは考えない。
スマホの画面を開く。無意識に検索窓に打ち込んだ文字列は「人の輪郭 ブレて見える 原因」。出てくるのは眼科のQ&Aサイトと、飛蚊症の解説記事と、オカルト系のまとめサイトだけだった。三十二年前にも、たぶん同じようなことを検索したことがある。結果は変わらない。
俺は検索履歴を消して、スマホを伏せた。
月曜になれば、また経理課のデスクに座る。坂口課長に売上の集計を提出し、園田の質問に答え、松田の空席を横目に数字を追う。いつもの日常。
でも。
あいつは俺を見た。俺を見て、笑った。
それは「気のせい」では片づけられない。三十二年かけて積み上げた「気のせい」の壁に、今夜、最初の亀裂が入った。
問題は——その亀裂の向こうに何があるのか、俺にはまだ何もわからないということだった。