第3話
第3話
燕華の都・鳳京は、戦を知らぬ街だった。
李燕明が馬を降りたのは、都の南門をくぐって半刻ほど経った頃である。石畳の大路には商人の荷車が行き交い、茶楼の二階からは琵琶の音色が流れてくる。路傍の露店では色とりどりの反物が風に揺れ、焼き饅頭の湯気が午後の陽光に白く立ち上っていた。甘い油の匂いが鼻をくすぐり、子どもの笑い声がどこかの路地から弾けた。七日前に踏んだ焦土とは別の世界だった。戦場で死んだ兵の血が、この街の繁栄を養っている。だが石畳を歩く誰もが、そのことを知らぬ顔をしていた。知っていても、目を逸らしているのかもしれなかった。
宮城の正門で馬を預け、回廊を抜ける。朱塗りの柱が整然と並び、磨かれた石の床に李燕明の靴音だけが響いた。文官たちがすれ違いざまに道を空ける。目は伏せているが、背中に視線が張りつく感触があった。七戦七勝の軍師が都に戻った——その噂は、馬の足より速く宮城に届いていたのだろう。
宰相府は宮城の奥、帝の居所に最も近い一画にある。門の前に立つ衛兵が李燕明の顔を認め、無言で道を開けた。通されたのは、応接の間ではなく、宰相の私室だった。密談の場を選んだということだ。
陳黒淵は、書卓の向こうに座っていた。
六十を過ぎた痩躯。白髪を高く結い、鉄灰色の官服を一分の隙もなく着こなしている。顔には深い皺が刻まれているが、その目だけが異様に若い。光を吸い込むような黒い瞳が、入室した李燕明を一瞥し、すぐに手元の書簡に戻った。待たせることで格の差を示す——宮廷の作法だ。李燕明は無言で立ったまま、室内を観察した。壁には大陸全図。卓上には各国の報告書が積まれ、嶺南の文字が記された綴じ紐が最も手前に置かれていた。室内には沈香の煙がかすかに漂い、窓の外から中庭の水音が低く聞こえていた。静けさそのものが圧だった。
「掛けよ、李燕明」
陳黒淵が書簡から顔を上げた。声は穏やかだが、穏やかさそのものが刃のような男だった。怒鳴る宰相は御しやすい。微笑む宰相こそ危うい。李燕明は黙って椅子に腰を下ろした。
「梁臨の件、見事であった。七度目の勝利、帝もお喜びだ」
「恐れ入ります」
「さて。密書は読んだな」
前置きは一言で終わった。陳黒淵は卓上の嶺南の綴じを取り上げ、李燕明の前に置いた。
「嶺南との同盟——と称しておるが、中身は聞いておろう」
「属国化の下準備、と理解しております」
李燕明が率直に言うと、陳黒淵の口元がかすかに動いた。笑みとも嘲りともつかぬ動きだった。
「下準備ではない。仕上げだ」
陳黒淵は立ち上がり、壁の大陸全図の前に歩いた。痩せた指が嶺南の位置を指す。大陸の南端、峡谷と山に囲まれた小さな領土。指先で潰せそうなほど、地図の上では矮小だった。
「嶺南の姫——白蓮華という娘が摂政をしておるそうだ。父王は病で伏せ、重臣どもは降伏を主張しておるが、この娘だけが抗っておるらしい。面白いことだ」
「面白い、と仰いますか」
「ああ。抗う力もなく抗うのは、蛮勇と言うのだ。だが蛮勇には使い道がある」
陳黒淵の指が地図の上を滑り、嶺南から燕華へと線を引いた。
「この娘を鳳京に迎え入れる。名目は同盟の証としての滞在。実態は——分かるな」
「人質、ですか」
「品のない言い方をする。客将だ。嶺南の摂政が燕華に身を置くとなれば、嶺南は実質的に燕華の庇護下に入る。姫が鳳京にいる限り、嶺南は燕華に逆らえぬ。兵を一人も動かさず、血を一滴も流さず、南方を手に入れられる。——美しい策であろう」
陳黒淵は振り返り、李燕明を見た。黒い瞳に、松明の光が二つの点となって映っている。
「お前にはその使者を務めてもらう。嶺南に赴き、白蓮華を説き、鳳京へ連れ帰れ。同盟の条件は既に書面にまとめてある。姫が署名すれば、それで終わる」
李燕明は差し出された書面を受け取った。目が条文を追う。嶺南は燕華に対し軍事・外交の最終決定権を委譲する。嶺南の摂政は鳳京に常駐し、燕華の承認なくして帰国できない。嶺南の交易収入の六割を燕華に上納する。嶺南軍は燕華の指揮下に編入される。
同盟という名の、国の明け渡しだった。
李燕明は書面から目を上げた。表情は変えなかった。だが胸の奥で、城壁の上で飲み込んだ言葉がまた脈を打った。俺が勝つほど、大陸は壊れていく。——この条文は、自分の七度の勝利が作った秩序の延長線上にある。強者が弱者を呑む。それ以外の道を、この朝廷は知らない。
「宰相殿。一つ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
「白蓮華が拒んだ場合は」
陳黒淵は椅子に戻り、茶碗を手に取った。湯気が立ち昇る碗の縁に唇をつけ、一口含み、飲み下してから答えた。その間、沈黙が重く垂れた。沈香の香りと茶の湯気が混じり合い、室内の空気がわずかに揺れた。
「拒む余地があると思うか。嶺南の兵は八千、まともに戦える者は半分。糧食は四月で尽きる。我が燕華が本気で攻めれば、十日で落ちる。——その現実を、お前が教えてやればよい。天才軍師に十日で落ちると言われて、なお抗える者はおるまい」
李燕明は黙った。陳黒淵の計算は正しい。軍事的に見れば、嶺南に選択肢はない。署名するか、滅びるか。そのどちらかだ。だがその計算の正しさが、李燕明の胸を灼いた。梁臨の焦土で感じたものと同じ熱だった。勝つことへの倦怠。正しい計算がもたらす、正しい地獄。
「承知いたしました。嶺南へ向かいます」
李燕明は立ち上がり、一礼した。それ以上の言葉は発しなかった。発すれば、飲み込むべき言葉まで溢れ出しそうだった。陳黒淵は茶碗を置き、李燕明の背に声を投げた。
「李燕明。お前は戦場では天才だが、政の場では若い。一つ忠告しておく。——情けは国を滅ぼす。嶺南の姫がどれほど気高く見えようと、弱き国の摂政は弱き国の摂政に過ぎぬ。それを忘れるな」
李燕明は足を止めなかった。宰相府の扉を開け、回廊に出た。磨かれた石の床に、夕陽が朱い帯を引いている。その光の中を歩きながら、李燕明は懐に収めた条文の重みを感じていた。紙の重さではない。あの条文に署名させることが意味するものの重さだった。
宿舎に戻ると、趙凱が荷を整えていた。出立の支度は早い。付き合いの長い副官は、李燕明が宰相府から戻る頃には準備を終えている。馬二頭、護衛の兵六名。使者としては質素な陣容だが、相手が嶺南ならば十分だった。
「首尾はいかがでしたか」
趙凱が手を止めずに問う。李燕明は鞍に手を置き、答えた。
「条文を渡して署名させろ、と」
「まあ、そうなりますな。嶺南は詰んでいる。三日で終わる仕事ですよ」
趙凱は荷紐を結びながら、さして興味もなさそうに言った。事実を述べているだけだ。嶺南の国力、兵力、糧食——すべての数字が、趙凱の見立てを裏づけている。軍人として冷静な判断であり、そこに悪意はない。
李燕明は答えなかった。
鞍の革紐を確かめ、荷の結びを点検し、馬の脚を見た。一連の動作を黙々とこなしながら、懐の条文に意識が向いていた。あの紙切れ一枚が、一つの国の命運を決める。署名すれば嶺南は死に、拒めば戦が来る。どちらを選んでも、焦土が広がる。
——三度負けて、なお立っている。それは意地だけでできることではない。
城塞の執務室で密書を読んだ時に抱いた感想が、また浮かんだ。白蓮華という名。降伏を選ばない姫。この条文を突きつけられた時、あの姫は何を言うだろうか。怒るだろうか。泣くだろうか。それとも、あの三度の敗北を経てなお折れなかった目で、こちらを真っ直ぐに見返すだろうか。
李燕明は馬に跨がり、南を向いた。鳳京の街並みの向こうに、夕暮れの空が広がっている。嶺南まで七日。その道中に、自分が何を考え、何を決めるのか——まだ分からない。ただ、三日で終わる仕事だという趙凱の言葉が、妙に耳に残った。
終わらせるのは簡単だ。だが簡単に終わらせていいのかと問う声が、胸の底で燻っている。それが何の声なのか、李燕明にはまだ名前をつけられなかった。
馬蹄が石畳を叩き、南門へ向かう。振り返れば宮城の甍が夕陽に赤く燃えている。あの城の奥で、宰相は次の茶を淹れているだろう。弱き国を呑み込む算段を、茶を啜りながら。
李燕明は前だけを見た。南の空は暮れかかり、最初の星が一つ、低い位置に光り始めていた。嶺南の方角だった。