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七戦七勝の軍師、和平を選ぶ

第2話 第2話

第2話

第2話

嶺南の王城・翠霞宮は、かつて白壁に翡翠の瓦を載せた優美な城だったという。今、白蓮華の目に映るのは、剥がれ落ちた漆喰と、雨漏りの染みが広がる天井だった。柱の根元には黒い黴が這い、かすかに土と湿気の入り混じった匂いが漂っている。王宮というより、打ち捨てられた廟堂のようだった。

謁見の間に集まった重臣たちの顔は、城壁よりなお暗い。誰もが目を伏せ、隣の者と視線を合わせまいとしている。沈黙が重く垂れ込めるなか、衣擦れの音だけがやけに大きく響いた。

「——姫様。もはや、猶予はございませぬ」

筆頭大臣の周泰元が口火を切った。白髪を丁寧に結い上げた老臣で、父王の代から政務を支えてきた男である。しかしその声には、かつての張りはない。三度の敗戦が、この老人からも気力を削り取っていた。皺の刻まれた手が、膝の上で微かに震えている。それを隠すように、周泰元は袖口を握り締めた。

「北の穀倉地帯を失い、東の港も燕華の管理下に置かれました。残された領土で養える民は、全盛期の三割にも満たぬ。兵の糧食すら、あと四月で底をつきまする」

白蓮華は黙って聞いていた。十九の娘にしては、その沈黙には重みがあった。父王が病に倒れて八月。摂政として政務を執るようになってから、彼女は笑わなくなったと侍女たちは囁き合う。だがそれは正確ではない。笑う暇がないのだ。朝は財務の帳簿を開き、昼は民政の陳情を捌き、夜は軍備の報告を読む。眠る間も惜しんで国を繋ぎ止めている者に、笑みを浮かべる余裕などあるはずがなかった。頬はこの数月でいっそう削げ、瞳の下には薄い隈が消えない。だが、その目だけは濁っていなかった。

「左様。加えて申し上げれば」

武官の長である馮義山が続けた。五十がらみの武人で、右腕を吊っている。先の戦で矢を受けた傷が癒えていないのだ。立ち上がろうとして顔を歪め、左手で体を支えた。歴戦の武人が片腕で立つ姿は、嶺南の現状そのもののように見えた。

「正規兵は八千まで減りました。うち実戦に耐えうる者は五千を切る。燕華が本気で攻めてくれば、七日と保ちませぬ」

数字の羅列が、石のように白蓮華の前に積まれていく。どれも知っている数字だった。帳簿は誰より読み込んでいる。兵糧の残量も、兵の錬度も、民の疲弊も。だからこそ、この場に集まった重臣たちが何を言おうとしているのか、最初の一言で分かっていた。

「つまり」

周泰元が居住まいを正した。老臣の目に、苦渋の色が滲む。声が一段低くなり、長年仕えた王家への忠誠と、目の前の現実との間で引き裂かれる痛みが、その一語に凝縮されていた。

「燕華に降伏の書を送り、臣従の礼を取るべきかと。条件次第では、民の暮らしは守れましょう。嶺南の名は失われますが、民が生きていれば——」

「名を失うだけで済むと思うか」

白蓮華が初めて口を開いた。声は低く、静かだった。だがその一言で、謁見の間の空気が変わった。重臣たちの背が、無意識に伸びる。

「周大臣。梁臨がどうなったか、聞いておろう」

梁臨——つい先日、燕華に敗れた国である。降伏後、形式上は自治を認められたが、実態は燕華の総督が全権を握り、旧臣は末端の役人に格下げされた。税は倍に跳ね上がり、若者は燕華軍に徴兵される。国の名は残ったが、中身は空になった。

「臣従すれば民が守れる、と言ったな。だが臣従した先で、その民を守る力が我らに残るか」

白蓮華は立ち上がった。摂政の正装——藍染の長衣に銀糸の帯——が、薄暗い謁見の間でかすかに光を帯びる。小柄な体躯だったが、立ち上がると不思議と大きく見えた。それは威圧ではない。覚悟が、姿勢に出ているのだ。

「降伏すれば確かに戦は避けられる。だが嶺南は燕華の属州となり、民は搾取の対象になる。我らには抗う術も訴える先もなくなる。それは民を生かすことではない。——売り渡すことだ」

重臣たちは沈黙した。反論がないのではない。白蓮華の言葉が正しいと、誰もが薄々感じていたからだ。だが正しさだけでは腹は膨れぬ。正しさだけでは、四月後に尽きる兵糧は増えぬ。

馮義山が低く問うた。

「では、姫様はいかがなさるおつもりか。戦えば滅び、降れば売られる。道がございませぬ」

「道は作る」

白蓮華は謁見の間の奥に掛けられた大陸全図に目をやった。父王が健在だった頃、幼い白蓮華を膝に乗せて地理を教えてくれた、あの地図。色褪せた絹布の上に、七つの国が描かれている。

「降伏でも開戦でもない道を、私が作る。皆は持ち場を守れ。兵糧の件は明日までに対策を示す。——下がってよい」

重臣たちが去った後、謁見の間には白蓮華だけが残った。

松明の火が揺れ、大陸全図の上に影を落とす。白蓮華はその前に立ち、腕を組んだ。眉根に深い皺が刻まれている。重臣たちの前で見せた毅然とした姿は、独りになった途端に消えた。額に薄く汗が浮いている。組んだ腕の下で、心臓が嫌に速く打っていた。強がりだと、自分が一番よく分かっていた。

道は作る、と言った。だが、どうやって。

降伏は論外。だが抗戦も不可能。外交で活路を開くにしても、嶺南に差し出せる札がない。かつての交易の富はとうに失われ、軍事力は無きに等しい。同盟を持ちかけたところで、弱者の懇願としか映らぬ。

——本当に、札はないのか。

白蓮華は地図に一歩近づいた。指先が嶺南の領土をなぞる。峡谷。山脈。そして、大陸の南北を繋ぐ三本の交易路のうち、二本が嶺南の峡谷を通過している。

この地形は、軍事的には守りにくい。だが、別の角度から見ればどうか。

燕華が北方の穀倉を押さえ、西の天羅が鉱山を握り、東の剛牙が海運を支配する。各国はそれぞれの強みを持つが、それらを結ぶ道——物資が流れる血管は、嶺南の峡谷を通っている。嶺南を潰せば、道も潰れる。道が潰れれば、大陸全体の物流が滞る。

嶺南は弱い。だが嶺南がなければ、強国同士が干上がる。

白蓮華の目が、微かに光を帯びた。まだ策と呼べるものではない。種だ。だがこの種を正しく育てれば、嶺南を「滅ぼせない国」に変えられるかもしれない。滅ぼす価値がないからではなく、滅ぼしてはならないから。

指先が地図の上で止まった。嶺南の峡谷を示す細い墨線の上に。父がかつて教えてくれた言葉が、不意に蘇った。——国は、大きさで保つのではない。なくてはならぬ場所に在ることで保つのだ。あの頃は意味が分からなかった。今なら分かる。父は、この日が来ることを見越していたのかもしれなかった。

侍女が足音を忍ばせて入ってきたのは、白蓮華が地図の前で三刻近く動かずにいた後だった。

「姫様。北の国境から早馬が」

「何事だ」

「燕華より使者が参るとのこと。——同盟の交渉のため、と」

白蓮華の指が、地図の上で止まった。

「使者の名は」

「李燕明、と」

その名を聞いた瞬間、白蓮華の思考が一気に回転した。

李燕明。燕華が誇る軍師。七戦七勝。嶺南に三度の敗北を刻んだ張本人ではないが、その名は大陸の誰もが知っている。勝てぬ男。策で負けぬ男。武ではなく智で戦場を支配する、この時代最も危険な頭脳。

——その男が、同盟の使者として来る。

朝廷が送る使者としては、格が高すぎた。属国化の交渉ならば、文官の一人も寄越せば事足りる。わざわざ最強の軍師を遣わす理由は何か。威圧か。あるいは——嶺南の価値を、燕華の誰かが正しく測ろうとしているのか。

白蓮華は地図から手を離し、背筋を伸ばした。

先ほどまで種でしかなかった構想が、急速に形を結び始めている。嶺南の地形がもつ戦略的価値。それを理解できる人間が、向こうから来る。この大陸で最も鋭い知性が、嶺南の玉座の前に立つ。

ならば——その知性に、見せてやればいい。嶺南が「滅ぼせない国」である理由を。

「馮義山を呼べ」

白蓮華の声は、もう震えていなかった。

「それから、父上の書庫にある交易路の記録を全て運ばせよ。過去二十年分だ。——眠る暇はなくなるが、構わぬな」

侍女は驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げて駆け去った。その足音が廊下の闇に消えるのを聞きながら、白蓮華は小さく息を吐いた。指先がまだ冷たい。だが頭の芯には、久しく忘れていた熱が灯り始めていた。

白蓮華は再び地図に向き直った。燕華から嶺南まで、馬で七日。その七日の間に、この国の未来を賭ける一手を組み上げなければならない。

松明の火が、地図の上の嶺南を照らしている。小さな国だ。だがその小ささの中に、大陸を動かす血脈が通っている。

「李燕明——」

白蓮華は、まだ見ぬ相手の名を呟いた。

「あなたが本当に天才ならば、私の言葉の意味が分かるはずだ」

夜風が窓から吹き込み、松明の炎を揺らした。白蓮華の影が、大陸全図の上に長く伸びた。亡国の姫の影が、大陸を覆うように。

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