第1話
第1話
七度目の勝鬨が、灰色の空に吸い込まれていった。
李燕明は馬を降り、まだ煙のくすぶる平原を歩いた。足元の土は黒く焼け、革靴の底が踏むたびに乾いた音を立てる。つい半刻前まで三万の兵がぶつかり合っていた野が、今は死んだように静まりかえっている。風が吹くと、焦げた草と鉄錆の臭いが鼻腔を刺した。遠くで烏が一羽、低く鳴いた。戦の終わりを嗅ぎつけたのだろう。黒い翼が焼け野の上をゆっくりと旋回し、やがて地に降りた。
「——将軍、前線の残敵掃討、完了いたしました」
伝令の兵が駆け寄り、片膝をつく。若い兵だった。額に泥と血がこびりつき、息が荒い。声は張っているが、膝が微かに震えているのが李燕明には見えた。初陣か、あるいは二度目か。いずれにせよ、この兵にとっての戦は終わっていない。体が覚えた恐怖は、夜になってから本当の形で戻ってくる。李燕明は頷いただけで、視線を前方に据えたまま歩き続けた。二十三にしてこの大陸に並ぶ者なしと謳われた軍師。燕華が誇る最強の頭脳。敵国の将はその名を聞くだけで陣を退き、兵は戦う前から目を伏せる。それほどの男が今、勝利の戦場を踏みしめながら、何ひとつ晴れぬ顔をしていた。
折れた軍旗が地面に突き刺さっている。敵国・梁臨の紋だった。赤地に銀の鷹——かつては猛々しく風を孕んでいたであろうその旗は、半ば焼け焦げ、鷹の翼は灰に変わっていた。李燕明はその旗を一瞥し、通り過ぎた。旗の根元には、抱え合うようにして倒れた二つの体があった。兵と、おそらく従者だろう。どちらも若い。兵の手は従者の肩を掴んだまま硬直し、従者の顔は兵の胸に押し当てられている。逃げようとしたのか、庇おうとしたのか。もう誰にも分からない。李燕明は足を止めず、ただ拳を一度だけ握り、開いた。
占領した城塞の壁に登ったのは、日が傾き始めた頃だった。
城壁の上からは、南へ続く街道が一望できた。そこに、蟻の列のような影が続いている。難民だった。荷車を引く老人、子を背負った女、杖にすがる傷兵。燕華が勝ち、梁臨が負けた。だがあの列の中に、勝者の民と敗者の民の区別はない。戦が来れば、誰もが等しく追われる。
「見事な勝利でございましたな」
背後から声がかかった。副官の趙凱である。大柄な体を城壁の縁にもたせかけ、いつもの人懐こい笑みを浮かべている。李燕明とは幼馴染であり、七つの戦すべてを共に駆けた男だった。
「見事、か」
李燕明は呟くように返した。
「敵の左翼を川沿いに誘い込み、渡河の半ばで叩く。鮮やかでしたよ。梁臨の連中は最後まで何が起きたか分からなかったでしょう」
趙凱の言葉に嘘はない。事実、李燕明の策は完璧だった。敵将の性格、地形、風向き、補給線の長さ——あらゆる変数を計算し尽くした上での布陣だった。梁臨軍二万は半日で瓦解し、燕華の損害は三百に満たない。教本に載せるべき戦だと、後方の参謀たちは口を揃えるだろう。
だが李燕明の目は、城壁の下の難民の列を追っていた。夕陽が列を赤く染めている。まるで血の帯のようだと思い、李燕明は自分の比喩の残酷さに小さく顔を歪めた。
「趙凱」
「はい」
「俺が勝つほど、大陸は壊れていく」
風が二人の間を吹き抜けた。乾いた風だった。土埃と、微かに血の気配を含んだ風。趙凱は一瞬だけ目を見開き、それから短く笑った。
「らしくないですな。軍師殿が感傷とは」
「感傷じゃない」
李燕明は城壁の石に手を置いた。日に焼けた石の熱が、掌に伝わる。指先で石の表面をなぞると、刀傷のような亀裂があった。この城壁もまた、幾度かの戦を経てきたのだろう。
「一つ勝てば、敵は恨みを抱く。恨みは次の戦を呼ぶ。次の戦に勝てば、さらに深い恨みが残る。七度勝って、俺が得たものは何だ。七度分の焦土と、次の戦場の座標だけだ」
趙凱は笑みを消した。付き合いの長い副官には、李燕明が冗談を言っているのではないと分かる。
「……だとしても、我らは軍人です。朝廷が戦えと言えば戦う。それが務めでしょう」
「ああ、分かっている」
李燕明は視線を難民の列から引き剥がし、空を見上げた。茜色に染まりかけた空の端に、一羽の鳶が輪を描いている。あの鳶には国境も戦線もない。ただ風に乗り、獲物を探し、巣に帰る。人の世だけが、勝ち負けという終わりのない輪の中で回り続けている。
「分かっている。だが——」
言いかけた言葉を、李燕明は飲み込んだ。この先を口にすれば、それは軍師としての自分を否定することになる。勝つために生まれ、勝つために学び、勝つことで国に仕えてきた。その「勝つ」という行為そのものに疑いを持つことは、自分の存在の土台を崩すことだ。
だから黙った。黙って、崩れた城壁の石を見つめた。
趙凱もまた、それ以上は問わなかった。二人の間に、戦場の余燼の臭いだけが漂った。
翌朝、占領城塞の執務室で戦後処理の書簡を捌いていた李燕明のもとに、燕華の都・鳳京から早馬が届いた。
朱漆の筒に封じられた密書。宰相・陳黒淵の印が押されている。封蝋を割ると、松脂に似た鋭い香りが立ち上った。李燕明は封を切り、巻紙を広げた。目が文面を追う速度が、途中で一度止まった。
「……嶺南」
その名を口にした時、李燕明の眉がわずかに動いた。
嶺南——大陸の南端に位置する小国。かつては交易で栄えたが、この三年で燕華に三度敗れ、国土の半分を失った。残された領土は峡谷と山地ばかりの痩せた土地。もはや軍事的脅威ではなく、いつ併呑してもおかしくない存在だと、朝廷の誰もが考えている。
密書の内容は明快だった。嶺南との政略同盟——名目上は対等な盟約だが、実態は属国化である。嶺南の姫を燕華に迎え、形式上の同盟を結ぶことで、戦わずして嶺南を手中に収める。その使者として、李燕明に赴くよう命じている。
李燕明は密書を読み終え、巻紙を卓上に戻した。指先に墨の匂いがかすかに残った。宰相の筆跡は端正で、一画の乱れもない。戦場を知らぬ者の、整い切った文字だった。
「軍師殿、何が書いてあるんです」
趙凱が執務机の向かいから首を伸ばした。李燕明は密書を巻き直し、卓の上に置いた。
「嶺南に行く」
「嶺南? あの死にかけの小国ですか。何をしに」
「同盟の使者だそうだ」
趙凱は怪訝な顔をした。眉を寄せ、太い腕を組み、首を傾げる。分かりやすい男だと、李燕明は思った。この男の表情には裏がない。それが戦場では何度も李燕明を救ってきた。策を巡らせすぎて自分の思考の迷路に嵌まりかけた時、趙凱の率直な一言が出口を示す。
「同盟? 今さら嶺南と同盟を結ぶ意味がありますか。放っておいても三年と保たない国でしょうに」
「だからこそだ。放っておけば他国に拾われる。その前に繋いでおけ、という宰相殿のご深慮だろう」
李燕明の声は平坦だった。だがその目は、密書の上に留まっている。
嶺南の姫。名は白蓮華。齢十九にして摂政を務め、崩壊寸前の国政を一手に担っているという。三度の大敗を喫しながら、なお降伏を選ばない姫。朝廷の文官たちは「愚かな意地」と嗤うが、李燕明は別の感想を持った。
三度負けて、なお立っている。それは意地だけでできることではない。
「趙凱。嶺南の地形図を持ってこい」
「は? 同盟の使者に地形図が要りますか」
「要る」
李燕明は立ち上がり、窓の外に目をやった。南の空は晴れている。雲ひとつない蒼穹が、昨日の灰色の戦場とはまるで別の世界のように広がっていた。嶺南まで馬で七日。その道中で、考えをまとめる時間は十分にある。
何を考えるのか——それは、李燕明自身にもまだ明確ではなかった。ただ、昨夜城壁の上で飲み込んだ言葉の続きが、胸の奥で微かに脈を打っている。
「三日もあれば済む仕事です。さっさと片づけて戻りましょう」
趙凱がそう言って地形図の束を抱えてきた。李燕明は受け取り、机に広げた。嶺南の峡谷、山脈、河川。痩せた土地の中に、細い血管のように交易路が走っている。
「三日で済むかどうかは——」
李燕明は地図の一点に指を置いた。嶺南の王城。そこに、降伏を選ばない姫がいる。
「行ってみなければ分からん」
南風が窓から吹き込み、地図の端をめくった。焦土の臭いはもう消えていたが、李燕明の胸の底には、まだ昨夜の煙がくすぶっている。