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盤上の軍師 ―虎牙関攻防戦―

第1話 第1話

第1話

第1話

砂埃の舞う演武場で、烈士は三度目の背中から落ちた。

乾いた土が口に入る。肺から空気が押し出され、しばらく息が戻らなかった。地面の熱が背中を焼き、衝撃で噛んだ舌の端に鉄の味がにじむ。頭上に広がる白い空が揺れている。じりじりと焼ける陽射しが目を灼き、砂の粒が唇の裂け目に染みた。視界の端で、木剣を構えたままの訓練兵——名も覚えていない新兵——が気まずそうに立ち尽くしていた。その新兵の額にはまだ汗の一筋すら浮かんでいない。三度倒した相手が将軍の息子だという居心地の悪さだけが、若い顔に貼りついている。

「もういいだろう、やめてやれ」

教練官の声が飛ぶ。憐れみではない。時間の無駄だという判断だ。

周囲から笑い声は起きなかった。もうそういう段階ではなかった。将軍・雷虎の息子が新兵にすら勝てないという事実は、嘲笑の種から単なる砦の日常へと変わって久しい。烈士は砂を払いながら立ち上がり、黙って演武場を出た。誰も引き留めなかった。背中に貼りつく汗まみれの稽古着が重く、打たれた右の肋がじくじくと痛んだ。息を深く吸うたびに肋の奥が軋み、吐く息が浅く途切れる。痛みには慣れている。慣れることしかできないという事実にも、もう慣れていた。

虎牙関の兵站庫は、砦の最も奥まった場所にある。陽が差さず、夏でもひんやりとした石壁に囲まれた部屋だ。積み上げられた木箱の間を縫うように歩き、烈士は自分の卓についた。帳簿が三冊、昨日の続きのまま開かれている。椅子に腰を下ろすと、石の冷気が汗ばんだ体にしみた。演武場の喧騒はここまで届かない。穀物と乾いた木の匂いだけが、薄暗がりの中に漂っている。

穀物の入荷量、矢の消耗数、馬糧の残日数。烈士は筆を執り、数字の列を淡々と追い始めた。

これが烈士の務めだった。将軍の息子という肩書きは士官の位を与えたが、実戦の指揮は一度も任されていない。武芸は凡庸、体躯は兵士の平均にも届かない。前線に出す理由がなかった。烈士自身もそれを理解していた。理解していたから、帳簿を丁寧に捌いた。少なくともこの仕事だけは、誰にも文句を言われない。

「——烈士様、穀倉の第三庫、鼠にやられております。被害の見積もりを」

兵站係の老兵が報告に来る。烈士は帳簿から顔を上げず、答えた。

「第三庫は南壁寄りだな。床板の隙間が広い。被害は多く見積もって四石、実際は二石半といったところだ。先月の補修がまだ終わっていない南東の角から入っている」

老兵が目を丸くした。

「……ご覧になったのですか」

「一度通っただけだ」

見れば覚える。地形も、建物の構造も、人の配置も。一度目にした空間の情報は、烈士の頭の中に正確な図面として刻まれる。父・雷虎が戦場で発揮した猛将の器とは似ても似つかない、奇妙な才だった。老兵は感心とも困惑ともつかぬ顔で頭を下げ、去っていった。烈士はその背中を見送ることもなく、次の帳簿に手を伸ばした。この才が何かの役に立つのなら、とうにそうなっている。二十年生きてきて、それだけは確かだった。

だが、この才を才として認める者は砦にいなかった。

「さすがは将軍の息子、帳簿と鼠の番なら天下一だな」

兵站庫の入口で、若い兵士が仲間に聞こえるように言った。くすくすと笑い声が続く。烈士の筆が一瞬止まり、そしてまた動き出す。言い返す言葉を、烈士は持っていなかった。持っていたところで、木剣すら満足に振れぬ男の言葉に何の重みがあろう。墨が少し濃く落ちた。それだけが、烈士の感情の痕跡だった。

日が傾き始めた頃、烈士は帳簿を閉じて兵站庫を出た。夕暮れの砦を歩くと、兵士たちが訓練から戻ってくるのとすれ違う。汗と土の匂い。甲冑の擦れる音。彼らの目が烈士の上を素通りしていく。将軍の息子であるということは、ここでは透明であるということと同義だった。

烈士は砦の城壁に上がり、北を見た。虎牙関から北方の国境までは山脈が幾重にも連なっている。その向こうで今、父が戦っている。帝国最強と謳われた将軍・雷虎が、北方の遊牧勢力を相手に。

城壁から見える山並みの稜線が、烈士の頭の中で地形図に変わる。尾根の高さ、谷の深さ、街道の幅。一度だけ見た北方国境の地図が、夕陽に染まる山々の上に透けるように浮かぶ。

父ならばあの山脈のどこに布陣するだろう。烈士はいつもそれを考えた。答えが出ても、誰に話すわけでもない。盤上の遊戯のように、ただ頭の中で駒を動かすだけだ。

——それが、この日を最後に変わることになる。

夕餉の刻限を過ぎた頃、砦の正門が慌ただしく開いた。

蹄の音が三つ。泥にまみれた早馬が中庭に飛び込み、騎手が鞍から転がり落ちるようにして降りた。北方軍の伝令旗を背負っている。その旗が、半ばから裂けていた。

烈士は城壁の上からそれを見ていた。裂けた伝令旗。北方軍で、それが意味するものはひとつしかない。

「——北方軍、壊滅」

伝令の声が、静まり返った中庭に落ちた。

「将軍・雷虎様、討ち死に」

音が消えた。風の音すら遠のいた気がした。城壁に立つ烈士の足元から、何かが崩れていくような感覚があった。膝に力が入らない。石の手すりを掴み、かろうじて立っている。

父が、死んだ。

あの雷虎が。万の軍勢を率いて一度も敗れたことのない父が。北の大地のどこかで、還らぬ人になった。

兵士たちが中庭に集まり始める。動揺が波紋のように広がっていく中、烈士は城壁の上に立ったまま動けなかった。泣くことすらできなかった。涙が出ないのではない。ここで泣けば、将軍の息子としての最後の体面すら失われる。そんな計算が、悲嘆よりも先に働いてしまう自分が、ひどく情けなかった。城壁の石がまだ昼の熱を残していた。掌に伝わるその温もりだけが、今この瞬間が現実であることを教えていた。

やがて、砦の司令官が烈士を呼んだ。

石造りの執務室で渡されたのは、一枚の布に包まれた平たい箱だった。開けると、使い込まれた木製の地図盤が現れた。盤面には無数の傷と書き込みがある。父が幾多の戦場で広げ、その上で軍議を重ねた盤だ。

「遺品はこれだけだそうだ」と司令官は言った。その声には同情があったが、それ以上踏み込む気配はなかった。

烈士は地図盤を両手で抱えた。木の表面は滑らかで、冷たかった。父の手の熱を、もう覚えていない。幼い頃、この盤の端に指を置いて叱られたことがある。戦の道具に触るなと。あのときの父の声すら、もう正確には思い出せなかった。だが盤面に刻まれた線の一本一本が、雷虎という男の戦歴そのものだった。

兵站庫に戻り、卓の上に地図盤を置く。燭台の灯りに照らされた盤面を、烈士は食い入るように見つめた。蝋燭の炎が揺れるたびに、盤面の傷が影を変える。ある線は山脈の稜線をなぞり、ある線は河川の流路を刻んでいた。父の爪が、あるいは短刀の先が、幾つもの夜に刻み込んだ痕だった。

北方国境の地形が浮かぶ。父が最後に戦った戦場が、記憶の中の地図と重なる。

あの布陣なら、負けるはずがない。

烈士の指が盤面を這った。左翼に山を背負い、右翼を河で守る。補給路は南の街道一本。定石通りの堅陣だ。兵力で上回る北方軍が、この陣形を崩される道理がない。

ならば——何が起きた。

答えは出ない。だが問いだけが、暗い兵站庫の中で烈士の胸に残った。帳簿と鼠の番しかできない男の頭に、戦場の図が焼きついて消えなかった。蝋燭が一本燃え尽き、闇が少しだけ濃くなった。烈士はそれでも盤面から目を離さなかった。指先が盤の縁に触れるたびに、木目の凹凸が父の筆圧を伝えてくるようだった。この盤が知っている戦場の数を、烈士は生涯かけても歩くことはないだろう。それでも目は離せなかった。答えのない問いが、頭の中で何度も陣形を組み直していた。

そして翌朝、第二の急報が砦を揺るがすことになる。

南方の烽火台に、火が上がった。一つではない。東にも、西にも。三方の地平線が、同時に煙で霞んでいた。

蒼覇帝国——大陸最大の軍事国家が、動いた。

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