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不落の盾姫と沈黙の騎士

第3話 第3話

第3話

第3話

十四日目。

ログインするたびに、世界が少しずつ広がっていく。

オープンβ開始から二週間。最前線のプレイヤーたちはレベル30を超え、第一エリアボスの攻略に血眼になっているらしい。掲示板は攻略情報と愚痴と考察で溢れかえっている。私はその全部を読み飛ばして、今日も北西の辺境からさらに奥へ足を踏み入れた。

レベルは──まだ1。

経験値はゼロのまま。スキルも初期装備も変わっていない。変わったのは被ダメージ回数だけだ。画面の隅の小さなカウンターが、今日ログインした時点で9,412を示していた。毎日六百から八百ずつ増えていく数字。私はもうその数字をほとんど見ていなかった。ただ歩いて、殴られて、噛まれて、焼かれて──それでも歩く。それだけが日課になっていた。

今日の目的地は「灰嵐の岩棚」。レベル帯12〜15。初期エリアの北端に位置する、崖と岩壁だらけの高地だ。普通のプレイヤーはレベルを上げてからパーティで来る場所。私は一人で、レベル1のまま、木の盾一枚で登っていく。

岩壁にへばりつくようにして崖を越えると、風景が一変した。

荒涼とした灰色の台地。風が唸る。空気がぴりぴりと冷たくて、遠くの空に雷雲が見える。地面に点在する巨岩の影に、大型モンスターのシルエットが見え隠れしている。風に混じって、低く湿った唸り声が断続的に聞こえる。獣のものとも地鳴りともつかない、腹の底を揺さぶるような音だった。

トロール。レベル14。

三メートル近い巨体。こん棒というより丸太を片手で振り回す、初期エリア最強クラスの雑魚モンスター。攻略掲示板では「ソロで挑むな」が定説になっている。

一匹が、私に気づいた。

地鳴りのような足音が近づいてくる。岩が割れそうなほど重い一歩、また一歩。巨大な影が覆いかぶさるように迫って、小さな目がこちらを見下ろす。醜い顔が嗤うように歪む。口の端から涎が糸を引いて垂れ、酸っぱい獣臭がVRの嗅覚モジュール越しにも伝わってきた。

丸太が振りかぶられた。

空気が唸った。VRの触覚が風圧を伝えてくる。あ、これは今までと違う。今までのゴブリンや狼やスライムとは格が違う。本能的にわかった。

──でも、逃げない。

木の盾を両手で構えた。正面から。

轟音。

視界が白く弾けた。衝撃がVRの触覚フィードバックの限界を超えて、一瞬だけ本当に痛みに似た何かが腕を貫いた。体が数メートル吹き飛ばされて、地面を転がる。砂利が顔に当たる感触。空が回る。

ダメージ──「14」。

今までで最大の一撃。HPが一気に削れて──でも、まだ半分以上残っていた。何百回、何千回と殴られ続けた今のHP最大値は変わらない。レベルが上がっていないから。でも防御力257のおかげで、レベル14の一撃をもらっても致命傷にはならない。

起き上がる。膝をつき、盾を支えにして立つ。

「……うん、大丈夫」

トロールが首を傾げた。倒れないのが不思議だったのかもしれない。もう一度丸太を振りかぶる。今度は横薙ぎ。

盾を構え直す。衝撃。「12」。吹き飛ばされる。起き上がる。

三度目。叩きつけ。「15」。地面にめり込む。這い上がる。

四度目。大振りの一撃。「13」。盾がみしりと嫌な音を鳴らす。でも折れない。この木の盾、初期装備のくせにやたら頑丈だ。

トロールの攻撃を受け止めるたびに、体の奥で何かが積み重なっていく感覚があった。痛みじゃない。重さでもない。もっと静かなもの。一回、一回、衝撃を受け止めるたびに足元が少しだけ確かになっていくような──。

五度目の一撃を受け止めた瞬間だった。

画面全体が金色に光った。

聞いたことのないファンファーレが鳴り響く。チュートリアル完了とも違う。レベルアップとも違う。もっと重厚で、厳かで──神殿の鐘みたいな音。

画面中央に、大きな文字が浮かび上がった。

『隠し実績解除──「不屈の盾」』 『被ダメージ一万回を達成』

一万回。

え、と声が漏れた。カウンターを見る。「被ダメージ回数:10,003」。いつの間に。というか、そんな実績があったのか。攻略サイトにも掲示板にも、そんな情報は一行も載っていなかった。当然だ。普通のプレイヤーは被ダメージ一万回に到達する前にレベルが上がって防御手段が洗練されていく。被弾し続けるしかない私だからこそ、こんな馬鹿みたいな数字に届いた。

指先が震えていた。嬉しいのか、呆れているのか、自分でもよくわからない。ただ、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。一万回。私が歩いてきた十四日間が、確かにここに刻まれている。

実績ウィンドウを閉じようとした瞬間──足元が揺れた。

地震。岩棚全体が振動している。トロールが怯えたように後ずさる。巨体がバランスを崩して尻もちをついた。普段は何物も恐れないはずのモンスターが、明らかに怯えている。

足元の岩に、亀裂が走った。

亀裂は私を中心に放射状に広がっていく。地面が陥没していく感覚。VRの平衡覚がぐらりと傾いて──。

落ちた。

暗転。浮遊感。それから衝撃。

「っ……!」

背中から瓦礫の上に落下して、砂埃が舞い上がる。ダメージ「5」。落下ダメージ。防御力で軽減されている。ごほ、と咳き込みながら目を開くと──。

地下だ。

天井に穴が開いていて、灰色の空が小さな円形に覗いている。そこから差し込む光だけが、この空間を照らしている。周囲は石造りの壁。自然の洞窟じゃない。誰かが作った通路。マップを開いてみる。

──表示なし。

マップに存在しない空間。未踏査エリアのグレーアウトですらない。マップデータそのものが認識していない場所。座標表示がバグったみたいに「???」を点滅させている。

通路は一本道だった。奥に向かって、ゆるやかに下っている。壁に等間隔に並ぶ燭台には青白い炎が灯っていて──待って、松明の炎なのに影が揺れていない。炎が完全に静止している。ゲームのライティングとして明らかにおかしい。バグなのか、演出なのか判断がつかない。

空気が違った。上の世界にあった「ゲームの空気感」とは質が異なる。VRの触覚が伝える温度は低いのに、圧迫感は熱い。息苦しいほどの密度で、何かがこの空間に満ちている。

一歩、踏み出す。

石畳が乾いた音を立てる。もう一歩。もう一歩。木の盾を胸の前に構えたまま、通路を進む。怖いかと訊かれたら──うん、少しだけ怖い。でも足は止まらない。だって死なないから。

通路を五分ほど歩いたあたりで、音が聞こえ始めた。

金属音。

かちゃり、と微かに。等間隔で、規則正しく。鎧の軋む音に似ている。鎖帷子が擦れるような、あるいは甲冑の関節が動くような。

通路の先に、広い空間が見える。礼拝堂──と呼ぶのがふさわしい場所だった。高い天井にアーチ状の梁が走り、壁面には擦り切れた紋章が薄く残っている。正面の祭壇には何も載っていない。ただ石の台座があるだけ。

そして、その祭壇の前に。

誰かが跪いていた。

全身を鎧に包んだ人影。大きい。二メートル近い長身を折りたたむようにして、片膝をつき、剣の柄に両手を添えて頭を垂れている。鎧は銀色だったのだろう。今は長い時間を経たように鈍く黒ずんで、苔や埃が関節の隙間に溜まっている。でも剣だけが──膝の前に突き立てられた両手剣だけが、青白い光を宿して燭台の静止した炎よりも強く、静かに脈動していた。

NPCだ。頭上に名前はまだ表示されていない。ステータスバーもない。ただ、かちゃりと鎧が鳴る。息をするように。祈るように。

私はその場に立ち尽くして、鎧の騎士を見つめた。

この人は、ずっとここにいたんだ。マップにも載らない場所で、誰にも見つけられないまま。跪いて、祈って、待ち続けて。

──誰を?

金属音が止んだ。

鎧の奥で、何かが動いた気配。兜の隙間から覗く暗がりの中に、光が灯ったように見えた。こちらを、見ている。

木の盾を握り直す。怖くない。怖くないけど──心臓がどくどくと鳴っている。VRのはずなのに、指先の感覚がやけに鮮明だった。盾の木目の凹凸まで手のひらに伝わってくる。この盾を、一万回守ってくれたこの盾を、今も握っている。それだけで、大丈夫だと思えた。

一歩、近づいた。

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