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不落の盾姫と沈黙の騎士

第2話 第2話

第2話

第2話

ゴブリンたちが諦めたのは、体感で三十分後だった。

正確にはわからない。途中からダメージログを眺めるのにも飽きて、座ったまま森の景色を楽しんでいたから。木漏れ日が地面に不規則な模様を落としていて、風が吹くたびに光の形が変わる。鳥の声がどこか遠くから聞こえて、VRの環境音がやけにリアルで、一瞬ここがゲームの中だということを忘れかけた。気がつくと三匹のゴブリンは疲れ果てたように短剣を下ろし、こちらを恨めしそうに睨んでから茂みに消えていった。一番小さい子ゴブリンだけが最後まで残って、棍棒でぺしぺしと私の盾を叩いていたけど、仲間に呼ばれて渋々去っていった。

「ばいばい」

手を振る。ゴブリンに手を振るプレイヤーは、たぶんこのサーバーで私だけだ。

ステータスを確認する。HP408。三十分殴られ続けて、減ったのはたったの4。被ダメージ回数は──43。へえ、そんなに殴られてたんだ。

さて。

問題は、ゴブリンが去った後の森に一人残された今、やることが何もないということだった。正確には「できること」がない。攻撃力1ではモンスターを倒せない。倒せないから経験値が入らない。経験値がないからレベルが上がらない。レベルが上がらないから新しいスキルも覚えない。

詰みだ。普通に考えれば。

「まあいいか」

立ち上がって、膝についた落ち葉を払う。倒せないなら倒さなくていい。私にはまだ足がある。歩けるなら、歩こう。

森を抜けた先に、岩場が広がっていた。

ごつごつした灰色の岩が折り重なる荒れ地。マップ名は「風化の岩棚」。レベル帯は5〜8。ここにも当然、誰もいない。効率のいい狩場は南の平原に集中していて、北西のこんな辺鄙なエリアに用があるプレイヤーは一人もいないらしい。マップを開くと、周辺のプレイヤーアイコンはゼロだった。

岩棚を登っていく。VRの重力と慣性がリアルで、足を滑らせるたびに盾を岩に押し当ててバランスを取る。登山みたいだ。現実じゃ絶対にできない。高いところが怖いから。でも今はHPゲージが見えている。数字が私を守ってくれている。

岩の上に出ると、風景が開けた。

「うわ」

北西の果てに、雪を被った連峰が見える。その手前に深い渓谷が走っていて、渓谷の底を薄い霧が流れている。風が頬をなでて、髪が揺れる。空気の匂いまで変わった気がした──土と草の匂いから、冷たい石と水の匂いへ。たぶん高レベルエリアだ。まだ行けない場所。でも見ることはできる。

スクリーンショットを撮った。SNSに上げる気はない。ただ、この景色を残しておきたかった。

がう、と背後で唸り声がした。

振り向くと、灰色の狼が二匹。レベル7。ゴブリンより格上だ。岩棚をテリトリーにしているらしく、黄色い目を細めてこちらを威嚇している。牙から涎が糸を引いている。

「あ、ごめんね。お邪魔してる?」

謝っても通じるわけもなく、一匹目が飛びかかってきた。

牙が左腕に食い込む。触覚フィードバックが圧迫感を伝える──ぎゅっと強く握られるような感覚。ダメージ「3」。おお、ゴブリンより痛い。でもHP405。全然平気。

二匹目が背後から脚に噛みついた。「2」。引き倒そうとしているのか、体が傾ぐ。VRの平衡感覚が揺れて、思わず片膝をつく。狼たちがその隙に首元を狙う。盾で顔を庇う。がつん。「1」。

狼たちは賢い。ゴブリンと違って、同じ場所を狙い続けずに攻撃位置を変えてくる。左、右、背後。交互に噛みついて、こちらの防御が薄い箇所を探している。毛並みの一本一本まで描き込まれた灰色の体が、低い姿勢で左右に揺れる。野生の狩りの動きだった。片方が正面で注意を引き、もう片方が死角から飛ぶ。連携が取れている。

でも、ない。薄い箇所なんてない。だって全部防御に振ったから。

五分ほど噛まれ続けて、狼たちも諦めたのか遠巻きに唸るだけになった。私が動き出すと距離を保ってついてくる。テリトリーから出るまで監視するつもりらしい。

「護衛付きの散歩だ」

ちょっと楽しくなってきた。

岩棚を降りて、次のエリアへ。

「霧溜まりの窪地」。レベル8〜10。地面がじめじめしていて、あちこちに半透明のスライムがぷるぷると蠢いている。

スライムが寄ってきた。体が触れた瞬間、じゅわっという音と共に足首が溶解エフェクトに包まれる。酸属性ダメージ。「2」が連続で表示される。DOT──持続ダメージだ。二秒ごとに2ずつ削れていく。

「うわっ、なにこれきもちわるい」

振り払おうとしても攻撃力が足りなくてスライムに弾かれる。仕方なくそのまま歩く。足元にスライムをくっつけたまま、じゅわじゅわ溶かされながら窪地を横断する。HP390。まだ余裕。

窪地の奥に洞穴があった。入ってみる。暗い。松明もないから視界はほぼゼロ。でも怖くない。手探りで壁を伝って進むと──

がちゃん。

足元が沈んだ。罠だ。鉄の棘が脛に食い込むエフェクト。「8」。今日一番の大ダメージ。ぎゃっ、と声が出た。痛覚フィードバックが一瞬だけ鋭い。でもすぐ収まる。HP382。

「いたた……」

罠を外して、さらに奥へ。また罠。「7」。HP375。さらに奥。三つ目の罠。「9」。HP366。この洞穴、罠だらけだ。でも何か奥にありそうな気がする。根拠はない。ただの勘。

罠を五つ踏み抜いて、洞穴の最奥にたどり着いた。

──何もなかった。

行き止まりの岩壁と、苔と、こうもりの鳴き声。宝箱もクエストマーカーもイベントフラグもない。ただの空洞。洞穴の天井から水滴が落ちて、足元の水溜まりに小さな波紋を広げていた。ぽたん、ぽたん、と規則正しいリズムが暗闇に響く。それだけが、この場所に時間が流れている証拠だった。

「あはは」

声を出して笑った。笑い声が狭い岩壁に反響して、すぐに吸い込まれるように消えた。そうだよね。こんな辺境のダンジョンもどきに何かあるわけない。でも、来てみないとわからなかったから。これでいい。

洞穴を出て、空を見上げる。ゲーム内時刻はもう夕方だった。オレンジ色の空が木々の隙間から覗いている。

メインメニューからブラウザを開く。VR内蔵のオーバーレイブラウザ。攻略掲示板を覗いてみる。オープンβ初日だから、掲示板はどのスレッドも活気に満ちていた。

「【速報】Lv15到達者が出たぞ」 「効率厨の狩場まとめ」 「魔法職強すぎ問題」

みんな先に進んでいる。最前線はもうレベル15。私はまだ1。その差は数字以上に大きい。たぶんもう二度と追いつけない。

スレッド一覧をスクロールしていく指が、止まった。

「【悲報】最弱ちゃん、まだ初期エリアにいるらしいw」

心臓が、とくん、と跳ねた。

スレッドを開く。

> 1: チュートリアルの案山子倒せなかったあの子、北西の辺境うろうろしてるってよ > 3: 経験値どうすんの? 詰みじゃん > 5: 詰みっつーかそもそもゲームになってない > 8: 草。配信してくれたら見るのに > 12: 防御全振りとかいうロマンビルド好きだけどな。尊敬はしないけど > 15: いつまで続くか賭けようぜ。俺は三日 > 18: 明日にはキャラデリしてそう

レスを一つずつ読んでいく。指先が、ほんの少しだけ冷たかった。知らない誰かに見られている。知らない誰かに笑われている。画面越しの文字なのに、視線を感じるような居心地の悪さがあった。

被ダメージカウンターは、いつの間にか312を示していた。狼と、スライムと、罠と──今日一日で受けたダメージの回数。経験値はゼロ。レベルは1。獲得したアイテムもスキルもない。

成果だけで見れば、確かに最弱だ。

でも。

私は今日、誰よりも遠くまで歩いた。誰も見ていない風景を見た。ゴブリンに囲まれて、狼に噛まれて、スライムに溶かされて、罠を五つ踏んで──それでもここにいる。HP366。まだ半分以上残ってる。

掲示板のスレッドをもう一度見る。「いつまで続くか賭けようぜ」。

ふ、と鼻から息が漏れた。

「有名になっちゃった」

苦笑しながらブラウザを閉じる。どう思われてもいい。明日もログインする。明後日も。キャラデリなんてしない。だってまだ、この世界の北側しか歩いていない。東も、南も、西も、もっと遠くも──全部、この足で踏みたい。

ログアウトボタンに指を伸ばして、ふと手を止めた。

画面の隅に、あの小さなカウンターがまだ表示されている。

「被ダメージ回数:312」

三日で消えると賭けた人がいる。でも私は知っている。この数字が増え続ける限り、私は倒れない。何回殴られたって、平気だ。

だから──明日は、もっと奥へ。

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