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不落の盾姫と沈黙の騎士

第1話 第1話

第1話

第1話

──Loss。

いや違う、ミスじゃない。これは計画通り。

キャラクリエイト完了のファンファーレが鳴り響く中、俺──じゃなくて私、白峰柚月のステータス画面はこうなっていた。

攻撃力:1。 防御力:257。 HP:412。 素早さ:3。

新作VRMMO『イージス・クロニクル』オープンβ初日。全ステータスポイントを一つ残らず防御に叩き込んだ。攻撃力は種族初期値の1から一切上げていない。振り分けの確認画面で三回「本当にこの配分でよろしいですか?」と訊かれた。三回とも「はい」を押した。

「えっ、ちょっと見てこの子のステ……」 「防御全振り? バグ?」 「いや自分で振ったんでしょ。なにそれ縛りプレイ?」

チュートリアル広場で隣にいたプレイヤーたちが、私のステータスをチラ見して笑い出す。石畳の広場には何十人ものプレイヤーがひしめいていて、頭上には巨大な時計塔、足元にはNPCが丁寧に掃き清めたような白い石畳が広がっている。オープンβ初日の熱気が、VRの空気感にまで滲んでいた。まあ、そうなるよね。

気にしない。ステータス画面を閉じて、目の前の案山子に向き直る。

チュートリアルクエスト:案山子を倒せ。

木の剣を振り下ろす。ぺち、という情けない音。藁の胴体に刃が当たった感触はあるのに、案山子は微動だにしない。ダメージ表示──「0」。

もう一回。今度は横薙ぎ。腰を入れてみる。「0」。

もう一回。上段から、渾身の力で。VRの筋力補正をかけてもなお──「0」。

案山子の藁くずが一本も落ちない。

「えっ、ゼロ? 案山子相手にゼロ出る?」 「攻撃力1だと最低保証ダメージすら通らないのか……」 「やばいやばい、最弱じゃんこの子」

広場に笑い声が広がる。周囲のプレイヤーたちは手際よく案山子を一撃で片付けていく。剣士は一太刀、魔法使いはファイアボルト一発。どの案山子も数秒で藁束に還って、次のチュートリアルへ進んでいく。その中で私だけが、同じ案山子の前で延々と木の剣を振っている。誰かが叫んだ。

「最弱ちゃんだ!」

その瞬間、空気が変わった。面白がって集まってくるプレイヤーたち。スクリーンショットを撮る音がパシャパシャ鳴る。誰かがフレンド申請を飛ばしてきた。「記念に!」というメッセージ付きで。ちょっと恥ずかしい。でも──口元が緩むのを止められない。

「ねえ最弱ちゃん、なんで防御全振りなの?」

話しかけてきたのは、赤い髪のアーチャー。革の胸当てに短弓、腰には矢筒。たぶん攻撃力ガン振り系のビルドだ。弓を引く指先が細くて長くて、いかにもダメージを追求するタイプの手つきだった。

「んー」

私は木の盾──初期装備のペラペラの板きれを胸の前に構えてみた。VRの触覚フィードバックが、木の粗い手触りを伝えてくる。節目のところが少しざらついていて、端っこはささくれていた。安物だ。でも、これが今の私の全て。

「絶対に死なない冒険がしたかったの」

赤髪のアーチャーが目を丸くする。琥珀色の瞳が、一瞬まじめな光を帯びた──ように見えたけど、すぐに呆れの色に変わった。

「……は?」 「だから、絶対に倒れない自分になりたくて。攻撃はできなくていいの。どこまでも歩いて、何に襲われても平気で、怖くない冒険。それがしたい」

数秒の沈黙。広場の喧騒が遠い。それから、アーチャーは肩をすくめた。

「ボス倒せないじゃん」 「うん、たぶんね」 「レベルも上がんないよ? 攻撃力1じゃ経験値入らないし」 「そうなんだ。じゃあずっとレベル1かあ」

私はへらっと笑った。アーチャーは呆れた顔で手を振って去っていく。その背中が人混みに溶けていく前に、小さく「変なやつ」と呟くのが聞こえた。

チュートリアルの案山子は、結局倒せなかった。でもいい。チュートリアルスキップのボタンを押して、広場の外へ出る。

初期エリア「翠風の平原」。

風が吹いた。VRの風だ。本物じゃない。でも、草原を渡る空気が頬に触れて、遠くの山並みがどこまでも続いていて、空が広くて──。髪が風になびく。現実の自分の髪はショートカットだけど、柚月の銀髪はロングだから、風のたびにさらさらと肩を撫でていく。その感触が不思議とくすぐったい。

深呼吸する。胸いっぱいに、この世界の空気を吸い込む。草の匂いがする。土の匂いがする。プログラムが生成した匂いデータだってわかってる。でも、肺が広がる感覚だけは本物だ。

綺麗だなあ。

平原の向こうに、他のプレイヤーたちが群がっている。スライムやゴブリンを狩って経験値を稼いでいるのが見える。剣が閃き、魔法が飛び交い、モンスターが光の粒子になって消えていく。歓声と効果音が重なって、遠くからでも賑やかさが伝わってくる。

私はその輪には加わらない。木の盾を左手に、誰もいない方角へ歩き出す。

北西の森。マップ端に近い、報酬もクエストもない場所。攻略効率的に行く意味がゼロのエリア。

木々が鬱蒼と茂る。日差しが遮られて薄暗い。足元は落ち葉でふかふかしていて、踏むたびに乾いた葉がかさかさと鳴る。どこからか水の流れる音がする。小鳥の声──たぶんBGMの環境音──が梢の上のほうから降ってきて、木漏れ日が苔むした地面にまだら模様を描いている。

「わあ……」

グラフィックが綺麗とかそういう話じゃない。ここには誰もいない。モンスターのリスポーンすらまばらで、効率プレイヤーは見向きもしない場所。

だから──静かだ。

ゲームの中なのに、静かで、穏やかで、怖くない。現実の自分は段差を降りるのも怖い。体育の跳び箱で手を骨折してから、ずっと。高いところ、速いもの、ぶつかりそうなもの、全部怖い。階段は手すりを掴まないと降りられないし、自転車にはもう何年も乗っていない。友達が遊園地に誘ってくれても、観覧車すら怖くて断ってしまう。そのたびに笑われて、呆れられて、だんだん誘われなくなった。

でもここなら。

「ぜんぜん怖くない」

声に出して言ってみる。声が木々に吸い込まれて、静かに消えていく。当たり前だ。ゲームなんだから。でも防御力257の私は、このゲームで一番倒れにくいキャラクターのはずだ。何に殴られても、噛まれても、焼かれても──きっと平気。

どこまでも歩ける。

どこまでも。

その言葉が胸の中で反響して、目の奥がじんと熱くなった。現実では絶対に言えない台詞だ。

森の奥へ、奥へ。踏み跡のない藪をかき分け、苔むした岩を越えて。枝が顔にかかって、蜘蛛の巣がVRの触覚で指先にまとわりつく。マップの表示が曖昧になり始める。未踏査エリア。灰色の靄がかかったマップの端。でも怖くない。だって死なないから。

と、思った矢先。

がさり、と茂みが揺れた。

一匹じゃない。左、右、後ろ。三方向から小さな影が飛び出してくる。

ゴブリン。三体。レベル5。

平原の雑魚だ。でも私はレベル1。しかも攻撃力1。倒す手段がない。

心臓が跳ねる。現実の身体の心拍数が上がっているのがわかる。ゲームだ、大丈夫、防御力257──頭ではわかっている。でも三方向から囲まれるのは、やっぱり怖い。

──来る。

先頭のゴブリンが錆びた短剣を振りかぶる。黄色い歯を剥いて、金切り声を上げながら。

私は木の盾を構えた。

がん、と衝撃。VRの触覚フィードバックが鈍い振動を腕に伝える。盾越しに、ゴブリンの短剣が滑り落ちるのが見えた。ダメージ表示──「1」。HPは411。

二匹目が横から殴りかかってくる。棍棒が肩に当たる。「1」。HP410。鈍い衝撃が肩を通り過ぎて、でもそれだけだ。痛覚フィードバックは軽い圧迫感程度にしか設定されていない。

三匹目が背後から飛びつく。歯が首筋に食い込む感触──はない。触覚フィードバックがほんの少しくすぐったいだけ。「0」。背面からの攻撃は防御補正が低いはずなのに、ゼロ。

ゴブリンたちが怯んだように後ずさる。AIの判定で「攻撃が通らない相手」と認識されたのかもしれない。三体が顔を見合わせるように首を傾げる。小さな赤い目が困惑に揺れている。でもすぐにまた襲いかかってくる。がん、がん、がつがつがつ。

木の盾に、肩に、背中に、攻撃が降り注ぐ。

「1」「0」「1」「0」「1」「0」──

HP412のゲージがほとんど動かない。

三体のゴブリンが必死に殴って、噛んで、突いて。でもダメージが通らない。まるで壁を殴っているみたいだ。ゴブリンたちの息が荒くなっていくのが見える。短剣を握る手が震えている。こっちは傷一つないのに、向こうのほうが消耗している。

ああ。

私は──笑っていた。

「痛くない」

全然痛くない。怖くない。三体に囲まれて、袋叩きにされて、それでも平気。HPの数字がほんの少しだけ揺れて、でも全然減らなくて。

これだ。これが欲しかった。

この感覚。何が来ても大丈夫だという、揺るぎない安心感。現実の私がどうしても手に入れられなかったもの。

ゴブリンたちの攻撃を浴びながら、私はその場にしゃがみ込んだ。盾を抱え込むように膝を折って、ゴブリンたちを見上げる。必死な顔で短剣を振り回す小さな緑の生き物たち。ちょっとかわいい。よく見ると一匹だけ、他の二匹より少し小さい。子どものゴブリンかもしれない。その子が一番必死に棍棒を振っていて、でも一番ダメージが入っていない。

「ごめんね、倒してあげられなくて」

ダメージログが淡々と流れていく。1、0、1、0、1──。

画面の端、誰も見ないような場所に、小さなカウンターが表示されていた。

「被ダメージ回数:7」

その数字を、私はまだ知らない。

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