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解式のEランク

第2話 第2話

第2話

第2話

午前五時四十分。支給された防護服に袖を通しながら、指先の感覚を確かめた。

 昨夜の残滓は消えていた。あの異質な霊力の流れ——骨の髄から滲み出すような、身体が勝手に術式を書き換えたあの感覚。何度掌を握っても、いつも通りの頼りない霊力がじわりと滲むだけだ。夢だったのかと疑いたくなるが、訓練場の壁に走った亀裂は現実だった。

 第二会議室に入ると、すでに六人の術師が揃っていた。全員が実戦装備。結界札を腰に下げ、霊装の手甲を嵌めている。その中に見知った顔はない。当然だ。俺は正規の実戦要員ではない。部屋の隅に立つと、誰も俺を見なかった。非常灯と同じ扱い。慣れている。

 ブリーフィングが始まった。指揮官は第二実戦部隊の副隊長、黒崎という三十代の男だった。短く刈り上げた髪、鋭い目つき。壁面モニターに地図が投影される。

「B区画、旧工業地帯。昨夜二十三時に霊力反応を観測。ランクはC、ただし複数体の可能性あり。本部の要人が近隣施設を視察中のため、護衛強化が命じられた。各員の配置は——」

 黒崎の視線が一瞬だけ俺の上を滑った。

「灰堂。お前は後方、第三封鎖線の監視だ。異常があれば無線で報告。それ以外は何もするな」

「了解です」

「繰り返す。何も、するな」

 念押しの響きに、周囲の術師が小さく笑った。Eランクの雑用係に言い聞かせるには十分な圧だった。

 現場に到着したのは〇七三〇。B区画の旧工業地帯は、錆びた鉄骨と崩れかけたコンクリートが並ぶ廃墟群だった。朝靄が地面を這い、視界は二十メートルほど。空気が重い。湿気だけではない——霊力の残滓が大気に溶けて、呼吸のたびに舌の奥に金属の味が広がる。

 第三封鎖線は現場から三百メートル後方。道路を横断する形で結界杭が打たれ、一般車両の進入を遮断している。俺の持ち場はその中央だった。すぐ横の歩道には、通勤途中らしいスーツ姿の男女や、犬の散歩をしている老人がいる。封鎖線の外側——つまり民間人の領域と、術師の領域の境界。

 無線からは断続的に状況が入ってくる。

『先遣班、接敵。Cランク異能体一体を確認。交戦開始』 『結界展開。対象を封じ込め中——問題ない、予定通りだ』

 順調だった。Cランク一体なら、六人編成の部隊で十分に対処できる。俺はここで立っているだけでいい。何もせず、何も起こさず、任務完了の報告を待つ。それが俺の役割だ。

 だから、異変に最初に気づいたのが俺だったのは、皮肉としか言いようがない。

 足元の地面が、微かに脈打った。

 コンクリートの継ぎ目から、黒い靄が滲み出している。霊力感知が警鐘を鳴らした——これはCランクの残滓じゃない。もっと深い、もっと濁った、底の見えない霊圧。身体の芯が総毛立つ。

「黒崎副隊長、第三封鎖線に異常反応。地中から未確認の霊力——」

 言い終わる前に、アスファルトが隆起した。

 封鎖線から五メートル横、歩道の真下から。犬を連れた老人のすぐ足元で地面が爆ぜ、黒い塊が噴出した。形を持たない——いや、形を「選んでいない」もの。泥と影を練り合わせたような異能体が、朝の通りに這い出てきた。

 Cランクじゃない。

 異能体が膨張する。体積が倍になり、三倍になり、四肢のようなものが地面を掴む。黒い体表から触手状の突起が伸び、近くの街灯を巻き取って圧し折った。金属がひしゃげる音が朝の空気を切り裂く。

 老人が腰を抜かした。犬が狂ったように吠えている。通勤途中のスーツ姿の人々が悲鳴を上げて逃げ惑う——が、異能体の触手が扇状に展開し、退路を塞いでいく。

 無線が割れた。

『第三封鎖線、応答しろ! 何が起きた!』 「B級以上の異能体が封鎖線外側に出現! 民間人が——」 『動くな灰堂! 増援を回す、二分待て!』

 二分。

 異能体の触手が、腰を抜かした老人に向かって伸びた。あと三メートル。速度から逆算して、到達まで四秒。増援が来るまで、百二十秒。

 計算するまでもなかった。

 身体が動いていた。

 考える前に、足が地面を蹴っていた。Eランクの脚力で全力疾走し、老人と異能体の間に割り込む。右手に壱型を構える——出力が足りないのは分かっている。分かっていて、それでも構えた。

「離れてください!」

 老人の腕を掴み、背後に庇う。犬のリードを引きずったまま、二人分の体重を支えて後退する。だが異能体の触手は止まらない。三本が同時に振り下ろされ、壱型の光弾では一本を逸らすのが精一杯だった。

 残り二本が、胸と左腕を直撃した。

 衝撃。視界が白く弾ける。防護服の表面が焼け焦げる匂い。肋骨が軋む音が体内で反響し、左腕の感覚が消えた。吹き飛ばされながら、それでも老人を庇う姿勢は崩さなかった。背中からアスファルトに叩きつけられ、後頭部を打つ。

 意識が明滅する中、指先に——あの感覚が戻った。

 昨夜と同じだ。骨の髄から滲む霊力。身体が勝手に経路を組み替え、壊れた壱型の構えが別の何かに変容していく。右手を異能体に向けた。掌から放たれたのは光弾ではなく、螺旋状に収束する白い光線だった。

 異能体の触手を二本まとめて切断した。

 黒い体液が飛散し、異能体が苦悶の咆哮を上げる。だがそれ以上は続かなかった。制御を失った霊力が腕の中で暴発し、右腕の皮膚が内側から裂けた。鮮血が防護服を染め、激痛が脳を灼く。

 増援が到着したのは、その直後だった。黒崎副隊長率いる三名が結界を展開し、異能体を押し戻していくのを、俺は仰向けのまま見ていた。青い空に結界の光が交差する。綺麗だ、と場違いなことを思った。

 老人の無事を確認する前に、意識が落ちた。

 ——白い天井。消毒液の匂い。心電図の電子音が一定のリズムを刻んでいる。

 目を開けると、鬼灯の医療棟だった。窓の外は夕暮れの色をしている。任務から半日近く経っているらしい。左腕は肩から固定され、胸には厚い包帯が巻かれている。右腕には点滴のチューブ。深呼吸をしようとして、肋骨の痛みに顔を歪めた。

 ベッドの脇に、封筒が置かれていた。

 鬼灯の公式封筒。右手で不器用に開くと、中から一枚の書類が出てきた。任務後評価書——通常は部隊長から口頭で伝えられるものを、わざわざ書面で寄越している。

 目が文面を追う。

『灰堂蓮(Eランク・総務部付)——護衛補助任務における行動評価。指揮官の明確な待機命令に反し、独断で封鎖線を越え交戦。結果として民間人一名の安全は確保されたものの、本人が重傷を負い後続の救護リソースを圧迫。Eランク術師の単独交戦は組織規定に明確に違反する——』

 その先の文字が、網膜に焼きついた。

『総合評価:判断力の欠如。当該隊員の組織適性について、再審議を勧告する』

 判断力の欠如。

 民間人を庇って重傷を負った結果が、この四文字だった。感謝でも、ましてや称賛でもない。組織が俺に貼ったのは、新しいラベルだった。Eランクの次は——「不適格」。

 評価書の下に、もう一枚。薄い紙に赤い印が押されている。

『除籍審議召集通知。対象:灰堂蓮。日時:四月十八日一〇〇〇、第一会議室。幹部会議において、当該隊員の除籍の可否を審議する。対象者の出席は任意——』

 任意。つまり、来ても来なくても結果は変わらないという意味だ。

 書類を握る右手が震えた。痛みのせいじゃない。腹の底から這い上がってくる、熱い塊。怒り——いや、もっと手前の感情。もっと原始的な、理不尽に対する拒絶反応。

 あの老人は助かったのか。犬は無事か。俺が飛び出さなければ、二分間のあいだに触手が届いていた。それでも「判断力の欠如」か。命令に従って見殺しにすれば、正しい評価がもらえたのか。

 点滴のチューブを見つめた。透明な液体が一滴ずつ落ちている。

 右手を開く。掌には、あの異質な霊力の痕跡が微かに残っていた。計測器が捉えない力。訓練場の壁を砕き、異能体の触手を切断した力。

 鬼灯はこの力を知らない。知る前に、俺を切り捨てようとしている。

 除籍審議、四月十八日。あと二日。天井の染みを数えながら、俺は拳を握り直した。来なくていいと言われた場所に、行かない理由はなかった。何もしないまま捨てられるのだけは——絶対に、嫌だった。

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