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解式のEランク

第3話 第3話

第3話

第3話

四月十八日、午前九時四十五分。医療棟のベッドから這い出た俺は、左腕を吊ったまま第一会議室の前に立っていた。

 廊下は静かだった。普段なら職員が行き交う時間帯だが、この階だけ人の気配が途絶えている。幹部会議の開催中は一般隊員の立ち入りが制限される。俺がここにいること自体が、本来なら場違いなのだろう。

 扉の前に椅子が一脚、置かれていた。「対象者待機用」と書かれた紙が貼ってある。折りたたみ式のパイプ椅子。冷たい金属の座面に腰を下ろすと、肋骨が軋んで息が詰まった。包帯の下の傷はまだ塞がりきっていない。医療棟の術師は退院を許可しなかったが、俺が勝手に出てきた。

 壁時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。

 扉の向こうから、くぐもった声が断続的に漏れてくる。内容までは聞き取れない。ただ、笑い声が混じることは一度もなかった。淡々とした事務処理の空気。俺の九ヶ月間と同じだ——感情を挟む余地のない、手続きの時間。

 十時ちょうど。扉が内側から開き、事務官が顔を出した。

「灰堂蓮。入室してください」

 第一会議室は、思っていたよりも広かった。

 長い楕円形のテーブルを囲む形で、八人の幹部が着席している。制服の階級章が薄暗い照明に鈍く光っていた。部屋の奥、一段高い席に座る白髪の男——鬼灯統括局長の朝霧。その隣に実戦統括部長の蔵前。情報部長、技術部長、人事部長。顔は知っているが、会話を交わしたことは一度もない人間たちだ。俺が誰なのか、書類を見るまで思い出せない人間もいるだろう。

 入口から最も遠い位置に、証言台のような独立した椅子が置かれている。そこまで歩く十数歩が、途方もなく長く感じた。

 左腕の吊り包帯が視界の端で揺れる。八つの視線が俺の上を滑っていくのが分かった。値踏みではない。確認だ。書類の内容と実物を照合する、それだけの作業。

「着席を」

 朝霧の声は想像よりも穏やかだった。老人の声だ。感情が乾いている。

 椅子に座ると、正面に書類の束が広げられているのが見えた。俺の入隊記録、訓練成績、霊力計測履歴、そして——任務後評価書。「判断力の欠如」の文字が、逆さまでも読み取れた。

「灰堂蓮、Eランク、総務部付。本日の審議事項を確認する」

 人事部長の鶴見が、書類を読み上げ始めた。四十代の女性で、眼鏡の奥の目が一切の温度を持っていない。

「四月十六日のB区画護衛補助任務において、指揮官の待機命令に違反し独断で交戦。組織規定第十七条——Eランク術師の単独戦闘行為の禁止に抵触。加えて、本人の重傷により救護リソースを圧迫し、作戦全体の遂行に支障を与えた。以上の事実に基づき、当該隊員の除籍の可否を審議する」

 事実の羅列に反論の余地はなかった。命令に背いたのは事実。規定に違反したのも事実。重傷を負ったのも事実。

 ただ、その事実の列から一つだけ欠落しているものがある。

「——弁明の機会を与えます。灰堂隊員」

 朝霧が言った。形式だ。声色がそう告げている。

 俺は口を開いた。声は掠れていた。

「あの場で動かなければ、民間人が死んでいました」

 八人の顔が、微動だにしなかった。

「異能体の触手が到達するまで四秒。増援到着まで二分。その間、封鎖線の外には非戦闘員が六名以上いました。俺が飛び出さなければ、少なくとも一人は——」

「結果論だ」

 遮ったのは実戦統括部長の蔵前だった。五十代、顎に古い傷痕がある大柄な男。声が低い。

「Eランク術師が増援到着までの二分間を稼げる保証がどこにあった。お前が無駄に飛び出して死んでいたら、救護班はお前の回収にリソースを割かれ、民間人の避難がさらに遅れていた可能性がある。結果的に助かったのは運だ。判断じゃない」

 反論が喉まで出かかって、止まった。蔵前の言葉には、実戦指揮官としての合理性があった。戦場では感情で動いた人間が味方を殺す。それは事実だ。俺が知っている事実でもある。

 だが。

「それでも、あの四秒間に動ける人間は俺しかいませんでした」

 蔵前が鼻を鳴らした。「動けたのと、動いていいのは違う」

 静寂が落ちた。壁時計の秒針が五回刻むのを数えた。

「他に弁明は」

 朝霧の声。俺は一つだけ、言うべきことを絞り出した。

「九ヶ月間、毎晩訓練を続けてきました。計測値は変わっていません。ですが——俺の中には、まだ計測されていない力がある。あの任務で異能体の触手を切断した術式は、壱型の変異です。もし精密検査の機会をいただければ——」

「霊力計測の結果は出ている」

 技術部長の小柄な男が、手元の端末を指で弾いた。「任務中のバイタルログを確認したが、霊力出力にEランクを逸脱するデータは記録されていない。計測機器の誤作動を疑って再検証もしたが、異常なし。君の申告する『未計測の力』を裏付ける客観的データは存在しない」

 存在しない。計測器に映らないものは、この組織では存在しない。

 俺は口を閉じた。これ以上何を言っても、言葉が届く場所まで落ちていかないと分かった。八人の前に座っている俺は、もう人間ではなく案件だった。処理されるのを待つ書類の束と同じだ。

「では、採決に移ります」

 鶴見が宣言し、八人が順に挙手した。

 一人目——蔵前。躊躇なく手が上がる。

 二人目。三人目。四人目。

 反対の手は一つも上がらなかった。

 五人目。六人目。七人目——俺の視界の端で、朝霧が静かに右手を挙げた。

 八対ゼロ。満場一致。

「灰堂蓮の除籍を可決。本日付で特務機関『鬼灯』の所属資格を剥奪する。支給品の返納と退去は本日一七〇〇までに完了すること」

 鶴見の声が、どこか遠い場所から聞こえた。

 それだけだった。九ヶ月が、三十分で終わった。

 会議室を出ると、廊下にあのパイプ椅子がまだ置いてあった。待機用の紙が少し剥がれかけている。その横を通り過ぎ、医療棟に戻って退院手続きを済ませ、総務部のロッカーに向かった。

 ロッカーの中身は少なかった。着替え、洗面具、入隊時に渡された規定集、倉庫で使っていた作業手袋。それと、ポケットの底で擦り切れた青いお守り。入隊式の日に買ったものだ。全部合わせても段ボール一箱に収まった。

 防護服と身分証を返納窓口に置くと、窓口の職員が伝票を差し出した。「ここにサインを」。署名欄に名前を書く。灰堂蓮。この名前がこの建物の書類に載るのは、これが最後だ。

 段ボールを右腕だけで抱え、正面玄関へ向かった。左腕はまだ吊ったままで、箱を抱える姿勢が肋骨に響く。痛みに目が滲んだのか、それ以外の理由なのか、自分でも判別がつかなかった。

 長い廊下を歩く。すれ違う職員は誰も俺を見なかった。九ヶ月間と同じだ。非常灯は消えても、誰も気づかない。

 正門が見えた。午後の陽光が門の向こうに広がっている。鬼灯の敷地と一般社会を隔てるゲート。この線を越えたら、もう戻れない。

 ゲートの手前で、人影が待っていた。

 氷室凛。第三実戦部隊の制服に身を包み、腕を組んで門柱に背を預けている。銀色がかった髪が風に揺れ、切れ長の目がこちらを捉えた。

「——聞いたよ。満場一致だって」

 氷室の声には、同情の成分が一滴も混じっていなかった。事実確認。それだけの響き。

「見送りか?」

「まさか」

 氷室が門柱から背を離し、一歩近づいた。視線が段ボール箱に落ち、それから俺の吊り包帯に移り、最後に目を見た。

「忠告しに来た。お前のためじゃない。私のためでもない。ただの事実として言う」

 一拍の間。

「最初から無駄だったんだよ、お前は」

 空気が固まった。

「毎晩訓練場に降りてたの、知ってた。壱型を何百回撃っても数値が変わらないのも知ってた。あれを見るたびに思ってたよ——才能がない人間の努力って、こんなに無意味なんだって」

 言葉が刃物のように正確だった。感情を込めていない分、余計に深く刺さる。

「B区画で飛び出したのも聞いた。命令違反。Eランクの分際で、何ができると思ったの? 結果、お前は全身の骨にヒビが入って医療棟送り。救護班二名がお前の回収に割かれた。その間に封鎖線の再構築が十五秒遅れた。知ってた?」

 知らなかった。

「十五秒。その間に異能体が膨張して、封じ込めの難易度が一段上がった。お前が『助けた』つもりの行動が、全体の作戦を狂わせたの。黒崎副隊長が怒鳴らなかったのは、お前に怒る価値すらなかったからだよ」

 段ボールの角が右腕に食い込んでいた。爪が掌に刺さっているのが分かった。反論しようとして、喉が塞がっていることに気づいた。氷室の言葉が正しいからじゃない。正しいかどうかを判断する余裕が、今の俺にはなかったからだ。

 氷室が踵を返した。三歩歩いて、肩越しに振り返る。

「入隊式の日にさ、お守り買ったの覚えてる? 私、あれもう捨てたよ。——元気でね」

 制服の背中が建物の中に消えた。

 俺は正門の前に立ち尽くしていた。段ボール一つ。左腕の吊り包帯。肋骨の鈍痛。ポケットの底の、擦り切れた青いお守り。

 氷室が捨てたものを、俺はまだ持っている。その事実が、今はただ重かった。

 拳を握った。爪が皮膚を破り、血が滲む感覚があった。

 振り返らなかった。

 一歩を踏み出す。ゲートを越える。靴底がアスファルトを踏む音が変わった。鬼灯の敷地内の、術式で強化された路面から、ただのコンクリートに。それだけの違いが、やけに鮮明だった。

 四月の風が頬を撫でた。行く宛はない。帰る場所もない。九ヶ月前にこの門をくぐった時には、少なくとも「ここで強くなる」という一本の線があった。今はそれすら断ち切られて、足元には何の道標もない。

 段ボールを抱え直し、歩き出した。鬼灯の建物が背中の向こうで遠ざかっていく。

 掌の中で、血に滲んだ指先がちりちりと熱を持っていた。計測器に映らない力。誰にも証明できなかった力。あの訓練場の壁を砕き、異能体の触手を断った——確かにそこにある、もう一つの自分。

 証明する場所を失った力が、行き場なく指先で燻っている。

 それでも足は止まらなかった。止まったら、氷室の言葉が正しくなる。最初から無駄だったと、自分でも認めてしまう。

 だから歩いた。どこへ向かうかも分からないまま、振り返らずに。

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