第3話
第3話
──糸が、導いている。
五層の奥へ伸びる半透明の光の糸を追って、崩れた回廊を進んだ。壁面の楽譜が消えた円形の空間を背に、リュートを構えたまま闇の中へ踏み込む。【原初の詠唱】を起動してから、世界の見え方が決定的に変わっている。空気中を走る無数の糸。それぞれが微かに振動し、固有のリズムを刻んでいる。壁の振動、天井から落ちる砂粒の軌道、遠くで蠢くモンスターの気配──すべてが旋律として知覚できる。
情報量が多すぎて、最初は眩暈がした。だがVRの脳波同期が補正をかけているのか、数分で視覚が馴染んだ。糸の色と太さに法則があることに気づく。環境音に対応する糸は白く細い。生物──モンスターから伸びる糸は色が濃く、太い。
五層の奥には、四層までとは明らかに格の違うモンスターがいた。
回廊の曲がり角を覗き込んだ瞬間、視界を赤い糸の束が埋め尽くした。
【灰燼の守護者】。レベル102。俺より4レベル上。しかもネームドモンスター──体力も攻撃力も通常の三倍はある。全長は三メートル近い巨躯に、四本の腕が風化した武器をそれぞれ握っている。こいつが五層の番人か。
四層までの衛士とは比較にならない。普通なら即撤退だ。レベル差、装備差、そして何より吟遊詩人の貧弱な火力。正面からやり合えば、三十秒と持たない。
だが──糸が見える。
守護者の四本の腕から、それぞれ異なる色の糸が伸びていた。赤、橙、黄、白。四本が独立したリズムで脈動している。四つの旋律が重なり合って、一つの楽曲を形成している。複雑だが、聴き取れないほどじゃない。
「……四声部の合奏か」
呟いた瞬間、守護者がこちらを検知した。四つの眼窩が同時に赤く灯る。地鳴りのような咆哮。石壁が震え、足元の瓦礫が跳ねた。
突進してくる。四本腕の同時攻撃──ではなかった。赤い糸が最初に震え、右上腕が大剣を振り下ろす。0.3秒後に橙の糸が動き、左上腕の戦斧が横薙ぎ。さらに0.2秒後、黄色の糸──左下腕の槍が突き出される。
旋律通りだ。
大剣を右に回避。戦斧を屈んでかわす。槍は──間に合わない距離。だが糸が教えてくれている。槍の軌道は俺の頭部。しゃがんだ姿勢のままなら当たらない。頭上を穂先が通過する風圧で髪が揺れた。
四本目。白い糸が震える。残る右下腕の短剣が、しゃがんだ俺の首元を狙って薙ぐ──。
地面を転がった。短剣が空を切る金属音が鼓膜を叩く。背中に石壁がぶつかり、一瞬息が詰まる。だが被弾はしていない。HP満タン。四本腕の連続攻撃を、全弾回避した。
「──嘘だろ」
自分で声が出た。レベル102のネームドモンスターの猛攻を、レベル98のソロ吟遊詩人が被弾ゼロでかわした。三年やってきて、こんな体験は一度もない。
守護者が二巡目の攻撃に移る。旋律が変わった。さっきとは違う順序──橙、赤、白、黄。テンポも速い。だが糸は嘘をつかない。橙の戦斧を跳んでかわし、赤の大剣を半歩のスウェーで見切り、白の短剣をリュートの腹で受け流し──。
黄色の糸が、突然消えた。
消えたのは一瞬だった。だがその一瞬、左下腕の槍の軌道が読めなくなった。反射的に後ろに跳ぶ。槍が胸の前を通過する。革鎧の表面を穂先がかすめ、ダメージログが走った。
被ダメージ:289。
HPの四割が一撃で消し飛んだ。レベル102のネームドの攻撃力はこれだ。かすっただけでこの威力。直撃なら即死もあり得る。
冷や汗が背中を伝う。VRだから実際に汗をかいているわけじゃないが、脳が本能的に危険を感知して、感覚がリアルに近づいている。
糸が消えた理由を考える。守護者の攻撃パターンが途中で変化した──フェイント。三巡ごとに一本の腕がランダムでパターンを破る仕様か。旋律にイレギュラーが混じるタイプ。音楽で言えば即興のブレイク。
「なるほどな。そう来るか」
口角が上がっていることに気づいた。怖いはずだ。一撃でHP四割を削る相手と、攻撃力47の吟遊詩人が一対一で戦っている。だが──面白い。旋律を読み、回避し、ブレイクに対応する。これはもう戦闘じゃない。セッションだ。
リュートを弾きながら戦った。【不協和音】で攻撃力を削り、【小夜曲】で微々たるダメージを刻む。回避しながら弦を弾く。弦を弾きながら回避する。二つの動作が一つに融合していく感覚があった。演奏が戦闘を導き、戦闘が演奏を研ぎ澄ます。
守護者のHPを二割削るのに、十二分かかった。途方もない消耗戦。だがこの十二分間、被弾はあの一撃だけだ。ブレイクのパターンも三巡に一回、四つの腕のうちランダムで一本という法則が見えてきた。法則さえ掴めば、ブレイクが来る巡を予測して安全マージンを取れる。
回復アイテムでHPを戻し、再び削りにかかる。二割。三割。四割──。
守護者のHPが半分を切った瞬間、旋律が激変した。四本の糸が絡み合い、一つの太い赤黒い束になる。四声部の合奏が、ユニゾンに変わった。
全腕同時攻撃。
四本の武器が同時に、異なる角度から叩き込まれる。上下左右、全方位。回避空間がない。
──いや。ある。
糸の束をよく見ろ。四本が完全に同期しているなら、攻撃の到達タイミングも完全に同じだ。つまり四方向から来るが、「当たる瞬間」は一つ。その一点をずらせばいい。
守護者の懐に飛び込んだ。四本の腕が頭上で交差する。大剣と戦斧と槍と短剣が、俺がいた場所を同時に叩き潰す轟音が背後で炸裂した。懐に入れば腕のリーチが機能しない。
至近距離で弦を弾く。ダメージ、52。小さい。だが守護者が態勢を立て直すまでの二秒間に三回弾けた。この距離なら体力もいずれ削り切れる。
三十四分後、守護者が膝をついた。断末魔が五層全体に反響し、巨体が光の粒子に分解されて消える。ドロップアイテムのウィンドウが開いたが、中身は確認しなかった。
床に座り込んだ。MP残量12%。回復アイテム残数ゼロ。文字通りのギリギリだった。
だが戦闘ログを見返しながら、別のことを考えていた。
【原初の詠唱】の糸──あの可視化は敵の旋律だけに反応するのか。もし味方にも作用するなら。仲間の動きにも糸が見えるなら。それを演奏で同期させたら──。
バフ。いや、バフという既存の概念より、もっと根本的な何か。旋律を共有すること自体が、パーティの連携を別次元に引き上げる可能性がある。
確かめたい。だが今の俺にはそれを試す相手がいない。
スキルウィンドウを開く。さっき黒塗りだった示唆テキストの文字数を数え直した。やはり四文字か五文字。「仲間と共に」。そうだとしたら、このスキルは本来ソロで使うものじゃない。
攻略サイトに投稿する、という選択肢が一瞬だけ頭をよぎった。この発見を公開すれば、吟遊詩人の評価が変わるかもしれない。最弱職という汚名を、少しは──。
やめた。
理由は単純だ。この情報が覇王連合に渡る。あいつらはサーバー最大手のギルドで、情報収集力も桁違いだ。公開した瞬間、解析されて対策を立てられる。今日PKされたばかりだ。力を見せる前に潰される未来が、簡単に想像できた。
それに──まだ何もわかっていない。疑問符だらけのスキル説明。黒塗りの示唆テキスト。五層のさらに奥へ伸びる糸。わかっていないことが多すぎる段階で手札を晒すのは、三年間ソロで生き延びてきた人間がやることじゃない。
スキルウィンドウを閉じて、立ち上がった。
守護者を倒した広間の奥、崩れた壁の隙間から空気が流れ込んでいる。その気流に乗って、半透明の糸が揺れていた。糸の先は壁の向こう──五層のさらに奥だ。まだ道は続いている。
だが今日はここまでだ。MPも回復アイテムもない状態で先に進むのは自殺行為でしかない。
帰還アイテムを使う。転移の光が体を包む直前、守護者がいた広間を振り返った。
見えた。
壁の隙間から漏れる光の向こうに、無数の糸が複雑に絡み合う巨大な構造体がちらついていた。一瞬だけ。だがその情報量は、守護者の四声部とは比較にならない。百の旋律が同時に鳴っているような──いや、これはモンスターの旋律じゃない。もっと大きな何かだ。
転移の光が視界を奪った。王都の復活地点に立つ。喧騒が耳に戻る。VRヘッドセットの中で、さっき見た光景がまだ網膜に焼きついていた。
あの壁の向こうに、何がある。