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最弱詩人の原初詠唱

第2話 第2話

第2話

第2話

──弾いた。

最初の一音が空間を貫いた瞬間、世界が震えた。

比喩じゃない。VRの触覚フィードバックが全身を叩き、壁面の金色の音符が波紋のように連鎖して光り始めた。床が、天井が、空気そのものが共振している。リュートの弦から指先に伝わる振動が、いつもと全く違う。普段の【小夜曲】や【不協和音】を弾くときの、あの「ゲームが処理している」感覚的な薄膜がない。弦と指の間に何もない。音が、直接骨に響いている。

二音目。三音目。譜面を目で追いながら指を動かす。見たことのないコード進行のはずなのに、指が勝手に次の音を探り当てる。三年間の筋肉記憶──いや、それだけじゃない。この譜面自体が、吟遊詩人の基本スキルの原型のような構造をしている。【小夜曲】の旋律を分解して、もっと深い場所にある骨格だけを取り出したような。

壁面の楽譜が、演奏に合わせて一小節ずつ消えていく。消えた箇所から光の粒子が剥離して、宙に漂う。粒子は螺旋を描きながらリュートに吸い込まれ、弦が一本ずつ金色に染まっていった。

異常だった。どう見てもゲームの通常仕様じゃない。だが、指は止まらなかった。止めたくなかった。

中盤に差しかかる。譜面の複雑さが跳ね上がった。単音から和音へ、和音から不協和音と協和音が交互に押し寄せる奔流へ。指が追いつかない──と思った瞬間、体が勝手に動いた。右手が弦を掻き鳴らし、左手がフレットを滑る。三年間のソロ戦闘で叩き込まれた回避の反射神経が、そのまま演奏の精度に変換されている。攻撃を避けるように、音を捌く。

壁面の楽譜が残り三分の一になった頃、空間の空気が変質した。

金色だった光が、蒼白に変わる。温度が下がったわけじゃない。だが肌が総毛立つような、深海に沈んでいくような圧迫感が全身を包んだ。譜面の最終セクション。音符の形が、ここだけ他と違う。既存のゲーム内楽譜では見たことがない記号が混じっている。

読めない。

指が止まりかけた。だが──聴こえた。壁面から。音符の形をした溝から。微かな、微かな旋律が。まだ演奏されていない最終セクションの音が、壁自体から滲み出している。ガイドメロディ。この譜面が、俺に「こう弾け」と教えている。

目を閉じた。視覚を捨てて、聴覚だけに集中する。壁が囁く旋律を追いかけて、指を動かす。

最後の一音。

全弦を同時に弾き下ろした。金属的な残響が円形の空間に反響し、壁面の楽譜が最後の一小節まで消え切った。光の粒子がリュートを包み込み、弦が六本すべて金色に輝いている。

そして、静寂。

数秒間、何も起こらなかった。呼吸の音だけが耳の中で反響する。演奏の高揚が急速に冷めていく。もしかして、ただのイベント演出で──。

システム音が鳴った。聞いたことのない音色。通常のスキル習得音は軽いファンファーレだが、これは低く、長く、腹の底に響く持続音だった。

視界の中央にウィンドウが展開される。

『隠しスキルを取得しました』

『【原初の詠唱(プライマル・コード)】』

『スキル説明:???』

『スキル効果:???』

『スキルランク:???』

『消費MP:???』

『クールタイム:???』

全部疑問符。何一つ読めない。攻略三年で、こんなスキルウィンドウは一度も見たことがない。通常、スキル取得時には効果の概要が必ず表示される。それがゲームの基本仕様だ。

だがウィンドウの最下部に、一行だけ読める文字があった。

『取得条件(一部表示):ソロ累計戦闘時間 ── 4,217時間』

四千二百十七時間。三年間、パーティを組まず、一人で敵と向き合い続けた時間の総計。

それが、条件だった。

スキルウィンドウを凝視する。疑問符の羅列は変わらない。だが「一部表示」という但し書きが引っかかる。表示されていない取得条件が他にもあるのか。あるいは、使い込むことで情報が開示されるタイプか。どちらにしろ、ここで考え込んでいても仕方ない。

スキル欄を開く。最下段に【原初の詠唱(プライマル・コード)】が追加されている。アイコンは金色の音符。他のスキルアイコンが灰色や青なのに対して、明らかに異質だ。

「……使ってみるか」

呟いて、リュートを構えた。スキルを選択する。通常のスキルなら、ここで自動的に演奏モーションが入る。だが原初の詠唱を選択した瞬間、起きたのは全く別のことだった。

世界が、変わった。

視界はそのままだ。円形の空間も、消えた壁面の楽譜も、金色に光るリュートの弦も変わらない。だが、見えないはずのものが見えている。

空気中に、無数の糸が浮かんでいた。

半透明の、光の糸。それが空間全体を網の目のように走り、微かに振動している。糸の振動にはリズムがあった。不規則に見えて、よく見ると一定の周期で脈打っている。まるで──旋律だ。空間そのものが、音楽を奏でている。

ログウィンドウを確認する。スキル発動の記録は──なかった。MPも減っていない。発動したのか、していないのか。それすら判然としない。

だが、糸は見えている。

足音がした。ダンジョンの常駐モンスター──【灰骸の衛士】が最深部に湧いた。通常は四層までしか出現しないはずだが、演奏が呼び寄せたのか。レベル87。いつもの相手だ。

衛士がこちらに気づき、錆びた剣を構えて突進してくる。反射的に回避姿勢を取った──その瞬間。

衛士の体から、糸が伸びていた。

赤い糸が一本、右肩から斜め下に走っている。その糸が、ぴん、と弾かれるように震えた。直後、衛士の右腕が動く。斬り下ろし。糸の動きが、攻撃モーションの0.5秒ほど前に起きていた。

予知。

いや、これは──行動パターンの可視化だ。衛士の次の動きが、旋律として見えている。二年間戦い続けて体に叩き込んだ「動きの癖」の記憶を、スキルが視覚情報に変換している。

もう一本、今度は左足から青い糸が震える。横薙ぎ。読めた。体を沈めて回避し、すれ違いざまにリュートの弦を弾く。【不協和音】──ダメージ、52。いつもと同じ。スキル自体に攻撃力の補正はないらしい。

だが回避の精度が、段違いだった。衛士の連撃を、糸を読みながら紙一重で捌き続ける。被弾ゼロ。これまで体感と反射で避けていた攻撃が、はっきりとした視覚情報として予告されている。

三分かかっていた一体の処理が、二分を切った。与ダメージは変わらない。だが被弾しない分、回復アイテムを使う必要がない。立ち止まる時間がゼロになる。地味に見えて、ソロプレイヤーにとってはこの差が戦闘効率を根本から変える。

衛士を倒し終えて、スキル欄を再確認した。【原初の詠唱】の説明は相変わらず疑問符だらけだ。だが、スキルウィンドウの右端に、先ほどはなかった極小のアイコンが追加されている。展開すると短いテキストが表示された。

『効果示唆:このスキルの真価は──────で発揮される』

ダッシュの部分は黒く塗りつぶされている。だが文字数から推測すると、四文字か五文字。「パーティ」か「仲間と共に」か。バフ系スキルの示唆だとすれば、吟遊詩人の本来の役割──支援職としての機能が、このスキルにも内包されている可能性がある。

だが今は確かめようがない。仲間がいない。フレンドリストはゼロだ。

スキルウィンドウを閉じた。壁面の楽譜が消えた円形の空間は、今はただの石壁に戻っている。さっきまでの金色の光も、演奏の残響も、もう何も残っていない。夢でも見ていたかのように静まり返った最深部で、手の中のリュートだけが、まだかすかに金色を帯びていた。

脳裏にさっきの取得条件が浮かぶ。四千二百十七時間。途方もない数字だが、積み上げたのは俺自身だ。他の誰でもない。

ログアウトせずに、もう一度リュートを構えた。

見えている。空気中を走る半透明の糸が、ダンジョンの壁面に沿って奥へ──五層のさらに先へ向かって伸びている。糸の先は闇に消えていて、その行方は見えない。だが糸は確かに、どこかへ繋がっている。

まるで「来い」と言われているようだった。

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