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最弱詩人の原初詠唱

第1話 第1話

第1話

第1話

──死んだ。

画面が白く染まる。見慣れた【戦闘不能】のウィンドウが視界の中央に浮かび上がり、その向こうで三人のプレイヤーが笑っている声が聞こえた。

「おい見ろよ、まだ革装備じゃん。吟遊詩人って3年やってもこれ?」

「詩人で前線来んなよ、迷惑だから」

「つーか詩人でレベル98って逆にすげえな。その根性を他の職業に使えよ」

覇王連合のギルドタグを光らせた重装騎士が、俺の落としたリュートを蹴り飛ばした。石畳の上を滑っていくリュートが、短い不協和音を立てる。三年間の相棒が転がされる音を、動けない体で聞いている。大型アップデート当日の王都メインストリート。新コンテンツに沸くプレイヤーの人波の中で、最弱職の吟遊詩人が路上に転がされている。珍しくもない光景だ。三年間で何度見たか、もう数えてもいない。

視界の端で通行人たちがちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らす。誰も止めない。関わるだけ損だと知っているからだ。一人だけ、初心者らしい魔法使いの少女が足を止めかけたが、連れのプレイヤーに腕を引かれて行ってしまった。

リスポーンカウントが始まる。10、9、8──。

PKしてきたのは覇王連合の末端メンバー三人。レベル差は20以上。装備の総合値に至っては比較するのも馬鹿らしい。吟遊詩人の攻撃スキルなんて、まともなプレイヤーの通常攻撃以下だ。勝てるわけがない。勝てるわけがないと、みんなそう思っている。

悔しくないのか、と昔は自分に問いかけていた。今はもう問いかけない。悔しさは三年分の底に沈んで、今は凪いだ水面だけが残っている。

3、2、1──リスポーン。

王都の復活地点に立つ。体が再構成される浮遊感にも、もう慣れた。全身に走る微細なノイズ──VRが神経信号を再接続する際の独特の痺れが、指先から頭頂部へ駆け上がっていく。ステータスを確認する。レベル98。職業:吟遊詩人。ギルド:なし。フレンド:0。

三年間の集大成が、この四行に収まっている。

VRMMO『エターナル・フロンティア』の全職業の中で、吟遊詩人は公式にも非公式にも最弱と断じられている。攻撃スキルの倍率は戦士の三分の一。防御力は紙。唯一の取り柄であるバフスキルも、パーティに入れてもらえなければ意味がない。PT募集掲示板で「詩人お断り」のタグがデフォルトになったのは、サービス開始から半年後のことだった。

それでも俺──カイトは、吟遊詩人を辞めなかった。

全職業ソロクリア。それが俺の縛りプレイだ。攻略サイトのコメント欄では「効率厨の真逆」「ただの自己満足」「迷惑プレイヤー」と書かれている。否定はしない。効率だけを考えるなら、この職業を選ぶ理由はゼロだ。

だが、そういう話じゃない。

王都の大通りを歩く。アップデート記念のファンファーレが頭上に鳴り響き、新エリア解放を告げるシステムアナウンスが流れている。周囲のプレイヤーは新ダンジョンの情報交換に忙しい。パーティを組み、ギルドメンバーを集め、最速攻略を競い合う。その喧騒が遠い。

「ソロ詩人とか、まだいたんだ」

すれ違いざまに聞こえた声を無視して、俺は王都の南門に向かった。転移門を起動し、行き先を選択する。候補リストの一番下──誰も選ばない辺境エリア。

【灰燼の廃墟群】。推奨レベル85。報酬効率は最悪。レアドロップもない。攻略サイトには「行く価値なし」と一行だけ書かれている。だからこそ、ここには誰もいない。俺だけの狩場だ。

転移の光が収まると、灰色の世界が広がった。崩れかけた石柱が並び、風化した壁面にかつての文明の痕跡がかすかに残っている。空はどんより曇り、遠くで瓦礫が崩れる音がする。VR特有の空気感──埃っぽく、冷たい。鼻腔の奥がざらつく感覚まで再現されている。静寂の中に、風が石柱の隙間を抜ける低い唸りだけが響いていた。

リュートを構えた。落とされたやつは回収済みだ。弦に触れると、微かな振動が指先に伝わる。この感触が好きだった。ゲームの中で唯一、自分が自分でいられる瞬間。

最初の敵影──【灰骸の衛士】。レベル87の中型アンデッド。風化した鎧の隙間から蒼白い光が漏れ、虚ろな眼窩がこちらを捉えている。正面から殴り合えば苦戦する相手だが、三年間こいつらと向き合ってきた。踏み込みの角度、振り下ろしのタイミング、攻撃後の硬直フレーム。すべて体に染みついている。

弦を弾く。デバフスキル【不協和音】。攻撃力低下、持続8秒。効果は微々たるものだが、積み重ねれば意味がある。衛士の大振りを横に避け、錆びた剣が空を切る風圧が頬をかすめる。体勢を立て直す一瞬の隙に、詠唱スキル【小夜曲】で追撃。ダメージは──47。戦士なら一撃で300は出る場面だ。

「……まあ、いつも通りだな」

それでも倒す。一体に3分かかっても、倒す。回避して、デバフを重ねて、小さなダメージを刻み続ける。華麗さの欠片もない、泥臭い消耗戦。ソロ吟遊詩人の戦い方は、根気そのものだ。

二体、三体と片づけながら、廃墟の奥へ進んだ。このダンジョンは五層構造で、最深部まで到達したプレイヤーの記録は公式にはゼロだ。報酬が割に合わないから誰も来ない。俺は二年かけて四層まで踏破している。今日は五層──最深部を目指す。

四層と五層の境界、崩れた大階段を降りる。足元の瓦礫を踏むたびに、乾いた音が反響した。階段の両側には朽ちた石像が並んでいたが、その顔はすべて削り取られている。かつて何を象っていたのか、もう誰にもわからない。空気が変わる。四層までのどんよりした灰色ではなく、どこか透明な、冷たい緊張感。肌の表面が粟立つような気配が、階段を一段降りるごとに強くなっていく。

五層に足を踏み入れた瞬間、見えた。

広大な円形の空間。天井は闇に消え、壁面には無数の溝が刻まれている。足音が反響して、何重にも重なって返ってくる。だが俺の目を引いたのは、中央に浮かぶ光だった。

ゲーム内オブジェクトのロード表示。見慣れたインジケーターだが、場所がおかしい。ダンジョンの最深部で、しかもプレイヤーが到達した記録がない場所で、何かが読み込まれている。

ローディングバーがゆっくりと進む。30%……50%……。通常のオブジェクトなら一瞬で完了するはずだ。これはデータ量が桁違いに大きいことを意味する。

70%……90%──。

完了。

光が弾けた。壁面の溝が一斉に輝き、円形の空間全体が淡い金色に染まる。溝だと思っていたものは溝じゃない。何かの記号──いや、音符だ。壁一面に、巨大な楽譜が刻まれている。

金色の光が空間を満たし、埃っぽかった空気が一変した。澄んだ、甘い残響のような香りが鼻腔を抜ける。音は鳴っていないのに、耳の奥が震えている。光そのものが、音楽の記憶を持っているかのようだった。

俺は息を呑んだ。三年間このゲームをやってきて、こんなオブジェクトは見たことがない。攻略サイトにも、掲示板にも、配信者の動画にも、一度も。

壁面の楽譜に近づく。触れようとした指先が震えた。VRの触覚フィードバックではない。自分自身の感覚として、心臓が跳ねている。三年間、最弱と嗤われ続けた職業で、誰も来ない場所を歩き続けた。その果てに、これがある。偶然なのか、必然なのか、今の俺にはわからない。ただ、目の前の光景が視界を滲ませていた。

システムウィンドウが出現した。

『古代譜面を発見しました。このオブジェクトは【吟遊詩人】のみ操作可能です』

──吟遊詩人のみ。

誰も来ない最深部。誰も選ばない最弱職。その二つが重なる場所にだけ、これは姿を現す。

壁面の金色の音符が、かすかに脈動していた。まるで演奏されるのを待っているように。

リュートを構え直した。弦に指を添える。楽譜の最初の小節を読み取る。見たことのないコード進行。だが──不思議と、指が動き方を知っている。三年間弾き続けた弦の記憶が、この譜面と共鳴している。

まだ弾いていない。最初の一音を出せば、何かが変わる。それだけは確信があった。

俺は弦に力を込めた。

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