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契約迷宮のヴォイドウルフ

第2話 第2話

第2話

第2話

通路は人ひとりがようやく通れるほどの幅しかなかった。両の肩が石壁を擦り、剥き出しの腕に冷たい岩肌が触れるたびに鳥肌が立つ。暗闇は完全だった。松明はとうに消え、頼れる光源は何もない。レンは壁に片手をつきながら、もう片方の手で前方を探るようにして進んだ。

 足元の感触が変わった。荒い岩の表面が、あるところから急に滑らかになる。人の手で——いや、人ではない何かの手で磨かれたような、不自然な平坦さだった。空気も変質していた。苔と鉄錆の匂いが消え、代わりにもっと乾いた、古い石と埃の匂いが鼻腔を満たす。何百年、あるいは何千年も外気に触れていない空間の匂い。

 通路が緩やかに下っている。一歩進むごとに気温が下がり、吐く息が白くなっているのが見えないだけで、唇の前に湿った冷気がわだかまるのがわかった。鎖の音は断続的に聞こえていた。金属が金属を擦る、低く重い軋み。何かが動いている。何かが、息をしている。

 通路が途切れた。

 手が虚空を掴んだ瞬間、レンは足を止めた。壁が左右に広がり、天井が高くなった気配がある。広い空間に出たのだ。暗闇の中で距離感が狂い、自分がどれほどの大きさの部屋にいるのか見当がつかない。ただ、反響が変わった。自分の呼吸音が遠い壁に跳ね返って戻ってくるまでに、わずかな間がある。かなり広い。

 そのとき、光が灯った。

 床に刻まれた紋様が、薄い青紫の光を放ち始めた。通路の入口から放射状に広がる幾何学模様が、脈打つように明滅する。心臓の鼓動に似たリズムで、ゆっくりと、しかし確実に光量を増していく。照らし出された空間は、レンの想像よりもはるかに大きかった。

 円形の広間だった。直径は二十歩ほど。壁面には文字とも図形ともつかない刻印が隙間なく彫り込まれ、天井はドーム状に湾曲している。迷宮の他の層にある粗削りの石室とはまるで違う。設計された空間だった。明確な意図を持って、何者かが造り上げた部屋。

 そして、その中央に——それはいた。

 漆黒の獣。体高はレンの胸ほどもある巨大な狼の姿をしていた。だが、毛並みという言葉では足りない。その体表は光を吸い込む闇そのもので、青紫の照明の中にあってなお、輪郭だけが辛うじて見える影の塊だった。四肢に巻きついた鎖は、壁面の四箇所から伸びている。鎖の一本一本に紋様が刻まれ、獣が身じろぎするたびにその紋様が鈍く光った。封じている。この鎖が、この獣を繋ぎ止めている。

 獣が頭を上げた。

 目があった。瞳は金色だった。闇を凝縮したような体躯の中で、その二つの金の光だけが異質な鮮烈さを持っていた。爬虫類のように縦に裂けた瞳孔が、レンの姿を映す。知性がある——その直感は、視線が交わった瞬間に確信に変わった。この目は、獣の目ではない。

 鎖が鳴った。獣がゆっくりと立ち上がる。四本の鎖が張り詰め、紋様が強く輝く。封印が軋んでいる。

 レンは動けなかった。恐怖ではなかった。正確には恐怖もあったが、それ以上に圧倒されていた。この獣から発せられる気配は、迷宮で遭遇したどんな魔物とも違っていた。殺意がない。敵意もない。あるのはただ、途方もない時間を経た存在の重みだけだった。

 『——遅かったな』

 声ではなかった。空気の振動を伴わない、頭の中に直接響く言葉。低く、乾いた、疲弊した声。何百年も同じ姿勢で鎖に繋がれていた者の、擦り切れた声。

 「……喋れるのか」

 レンの声は掠れていた。自分でも驚くほど平坦な反応だったが、もう驚く余力が残っていなかった。追放され、装備を奪われ、魔物に追われ、見知らぬ隠し部屋に辿り着いた。これ以上何が起きても、今日という日の異常さの総量は大して変わらない。

 『喋れる。考えることもできる。だがこの鎖がある限り、それ以外のことは何もできん』

 獣の金色の目が細められた。笑っているのか、嘲っているのか。

 『お前、死にかけだな。匂いでわかる。血と、恐怖と、諦めの匂いだ。だが——』

 鎖が軋む。獣が一歩、前に出た。封印の紋様が激しく明滅する。

 『諦めきれていない匂いもする。ほんの僅かだが』

 レンは答えなかった。答える言葉を持っていなかった。諦めたと思っていた。壁の裂け目に身を投じたのは、生きるためではなく、ただ魔物に食われるよりましだと思ったからだ。それを「諦めきれていない」と呼ぶのなら、この獣の嗅覚は正確だった。

 『名乗る気はないか。まあいい。俺はヴォイドウルフ。この迷宮に封じられた禁忌種だ。お前たち人間の分類では——存在してはならないもの、だったか』

 禁忌種。その言葉に、レンの背筋が強張った。冒険者ギルドの座学で習った知識が蘇る。禁忌種とは、迷宮の深層で極稀に発生する規格外の魔物。遭遇した場合は戦闘を避け、即座にギルドに報告すること。討伐ではなく封印が推奨される。なぜなら禁忌種は——人間と契約を結ぶ知性を持つから。

 そして、禁忌種との契約は、王国法で死刑に相当する。

 『わかっているようだな。なら話が早い』

 ヴォイドウルフの金色の瞳が、真っ直ぐにレンを射抜いた。

 『契約しろ。命の半分を寄越せ』

 その言葉は、取引の提案というよりも、長い長い待ち時間の末にようやく訪れた客への、ぶっきらぼうな挨拶のように聞こえた。

 「命の、半分」

 『そうだ。お前の残りの寿命のちょうど半分を俺に渡せ。代わりに、俺の力の一端をお前に貸す。この鎖は切れんが、契約者を通じてなら外の世界に干渉できる。お前は力を得る。俺は檻の外を覗く窓を得る。対等な取引だ』

 対等、とレンは心の中で繰り返した。命の半分を差し出すことが対等だという獣の価値観は、人間のそれとはかけ離れている。だが——今のレンに、命の市場価値がどれほどあるというのか。

 Eランクの冒険者。パーティを追われた荷物持ち。装備もなく、武器もなく、帰還手段もない。第12層の暗闇で、数時間後には魔物の餌になるか、運が良くても通りがかりのパーティに拾われて物乞いのように地上に戻るか。そのどちらかしか、レンの未来にはなかった。

 命の半分。二十歳のレンに残された寿命が仮にあと六十年だとして、三十年を差し出す。短くなる。確実に短くなる。だがゼロよりはましだ。

 「断ったら、どうなる」

 『何も。お前は好きにここを出て、好きに死ね。俺はまた次の誰かを待つ。百年でも二百年でも。待つことには慣れている』

 その声に、嘘の気配はなかった。脅しもない。本当にただ待つのだろう。この暗い部屋で、鎖に繋がれたまま、何百年でも。その孤独の深さを想像したとき、レンの胸に奇妙な親近感が芽生えた。五年間パーティの末席で透明人間のように扱われてきた自分と、この獣の孤独を並べるのは烏滸がましいとわかっていたが——それでも。

 レンは立ち上がった。膝はまだ震えていたが、もう座り込んでいる理由がなかった。

 「契約する」

 声は静かだった。覚悟を決めた人間の声というよりも、ずっと前から決まっていたことをようやく口にした、そういう静けさだった。

 ヴォイドウルフの金色の瞳が、一瞬だけ見開かれた。すぐに元の細い形に戻ったが、そこにあったのは確かに——驚きだった。

 『迷わんのか』

 「迷う余裕がない。それだけだ」

 『……そうか』

 獣が低く唸った。笑い声にも、嘆息にも聞こえた。

 『左手を出せ。掌を上に』

 レンは従った。差し出した左手の掌の上に、ヴォイドウルフの鼻先が触れた。氷のように冷たい。骨まで凍るような感覚が指先から腕を駆け上がり、肩を越え、心臓に達した瞬間——痛みが来た。

 叫び声は出なかった。出す暇がなかった。体の内側を灼熱の針が走り回るような激痛が、一瞬で全身を貫いた。左手の甲に黒い紋様が浮かび上がる。渦を巻く幾何学模様が皮膚の下から滲み出すように現れ、手首から肘へ、肘から肩へと広がっていく。紋様が刻まれるたびに、命が削られていく感覚があった。砂時計の砂が一気に半分落ちるような、取り返しのつかない喪失感。

 そして——視えた。

 目を閉じているはずなのに、視えた。この部屋の全体像。壁の厚さ、天井の高さ、床下に走る空洞。通路の先に潜む魔物の位置。その向こうに広がる第12層の全構造。さらにその下に沈む第13層、第14層——深く、深く、どこまでも深く。迷宮の全貌が、洪水のようにレンの脳裏に流れ込んできた。

 膝が折れた。石の床に倒れ込み、額を冷たい地面に押しつけたまま、レンは荒い呼吸を繰り返した。視界の奥で、迷宮の構造がゆっくりと像を結んでいく。混沌とした情報の奔流が、少しずつ、地図のような秩序を帯び始めていた。

 『契約は成った。お前はもう、ただの人間ではない』

 ヴォイドウルフの声が、以前より近くに聞こえた。鎖の音は変わらないのに、その存在がレンの内側に根を下ろしたような感覚がある。

 レンは顔を上げた。左手の甲で黒い紋様が脈打っている。その紋様越しに見る世界は、もう先ほどまでとは違っていた。暗闇が——暗闘ではなくなっていた。壁の向こう側が透けて見える。石の奥に走る亀裂、空洞、水脈。そして、遥か下方に広がる未踏の階層の気配。

 迷宮が、呼吸している。その鼓動が、契約紋を通じてレンの掌に伝わっていた。

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