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契約迷宮のヴォイドウルフ

第3話 第3話

第3話

第3話

情報の奔流が、少しずつ収まり始めていた。

 レンは石の床に額をつけたまま、荒い呼吸を繰り返した。脳裏に流れ込んだ迷宮の構造図は、最初こそ濁流のように制御不能だったが、呼吸を整えるたびに像が澄んでいく。泥水が沈殿して透明になるように、情報が層を成して整理されていく。

 最初に理解したのは、この部屋の構造だった。

 円形の広間。直径二十歩。壁の厚さは腕三本分。だがその壁の向こう側に、さらに空間がある。目を閉じていても——いや、目を閉じているからこそ、それは鮮明に視えた。壁の内部を走る亀裂、その亀裂に沿って流れる微かな気流、気流の先にある別の通路。まるで迷宮そのものが骨格標本になったかのように、石と空洞の区別が色分けされて脳裏に浮かぶ。

 レンはゆっくりと上体を起こした。左手の甲で契約紋が脈打っている。その拍動に合わせるように、視える範囲が呼吸のように伸縮した。広がるときは第12層の全体像が朧げに浮かび、縮むときはこの部屋の壁の組成まで手に取るように判る。

 「これは……」

 『迷宮視だ』

 ヴォイドウルフの声が頭の中に響いた。鎖に繋がれたまま伏せた獣は、金色の瞳でレンを見上げている。

 『この迷宮は生きている。壁も床も天井も、ただの石ではない。迷宮そのものが一個の生命体で、その体内に通路や部屋が刻まれている。契約でお前は迷宮の脈動と繋がった。心臓の鼓動を聞くように、迷宮の構造を感じ取れる。壁の裏の空洞、罠の配置、魔物の位置——すべてだ』

 すべて。その言葉の重さを、レンの体が先に理解していた。目を閉じる。意識を広げる。第12層の通路が網目のように浮かび上がり、その中を蠢く魔物の気配が赤い点となって灯る。七体。いや、八体。さっきレンを追い詰めた獣型の魔物は裂け目の前で立ち往生しており、その奥の通路には別の群れが巡回している。

 そしてもうひとつ。罠だ。通路の床に仕込まれた圧力板、天井に吊るされた落石機構、壁の中に隠された毒針——五年間、レンが微かな気配を頼りに半日がかりで探っていたそれらが、今は地図上の印のようにはっきりと視えていた。探知魔道具の三秒がレンの存在を不要にしたが、迷宮視の前では探知魔道具すら児戯に等しい。

 だが、その知覚の代償もまた明らかだった。意識を広げるたびに、こめかみの奥で鈍い痛みが脈打つ。視える範囲を第12層全体にまで拡げたとき、一瞬だけ視界が白く飛んだ。左手の契約紋が熱を持ち、腕の血管に沿って痺れが走る。

 『欲張るな。今のお前では、同時に把握できるのは二層分が限界だ。それ以上は脳が焼ける』

 レンは意識を縮めた。痛みが引く。呼吸が整う。使い方を誤れば壊れる力だ。だが使い方さえ間違えなければ——この迷宮の中で、レンは誰よりも多くを知ることができる。

 「第12層の全体が見えた。罠も、魔物も。だがそれだけじゃない。この下に、まだ階層がある」

 レンは目を開けた。ヴォイドウルフの金色の瞳を真っ直ぐに見る。

 「どこまで続いている」

 獣は答えなかった。数秒の沈黙。鎖が微かに鳴る。

 『お前に質問を返す。冒険者ギルドの公式記録では、この迷宮の最深層はいくつだ』

 「第18層。到達者は過去に四名。いずれもSランクパーティの精鋭で、全員が撤退を選んでいる」

 『十八か。人間というのは、つくづく表面しか見ていない』

 ヴォイドウルフの声に嘲りはなかった。ただ事実を述べる、乾いた響き。

 『この迷宮は五十層ある』

 五十。その数字が脳裏に落ちた瞬間、迷宮視が反応した。意識の深い場所で、第13層以降の気配がざわめく。朧げだが確かに、階層が下へ下へと連なっている感覚があった。人間が「最深」と呼んだ第18層のさらに下に、三十二の未踏層が眠っている。

 「誰も知らないのか。五十層のことは」

 『知る者はいた。かつてな。俺をここに封じた連中は知っていた。だがそれも遥か昔の話だ。今の人間には、もう伝わっていないのだろう。あるいは意図的に消されたか』

 レンは左手を見下ろした。黒い紋様が手の甲から肘まで広がり、脈拍に合わせて微かに明滅している。迷宮の鼓動と自分の鼓動が同期している奇妙な感覚。命の半分を差し出した対価が、この力だ。

 「第50層には何がある」

 『さあな。俺は封じられてからこの部屋を出ていない。だが迷宮の記憶が俺には流れてくる。深層には——古い時代の遺物が眠っている。この迷宮を造った者たちが残したものだ。その中に「命の果実」と呼ばれるものがあるという噂を、壁の記憶の中で幾度か拾った』

 命の果実。その名前を、レンは聞き流さなかった。命の半分を失った今、残された時間は限られている。もしその果実が文字通りの意味を持つなら——

 『期待するのは勝手だが、第50層に辿り着ける保証はない。そもそも今のお前は、この部屋から出ることすら危うい。外に魔物が何体いるか、もう視えているだろう』

 八体。レンの意識が自動的にその位置を確認する。裂け目の前に三体、外周の通路に五体。このまま裂け目から出れば、武器を持たないレンは一分と保たない。

 だが——迷宮視は魔物の位置だけを映しているのではなかった。

 レンは目を閉じ、意識を集中させた。こめかみの痛みを無視して、第12層の構造を丁寧に読み解いていく。通路、部屋、行き止まり。その合間に、迷宮視が特異な輝きを放つ箇所がいくつかあった。壁の中に隠された空間。通常の通路からは絶対に見つけられない、隠し通路だ。

 ひとつは、この封印の間の奥壁から斜め上方に伸びていた。幅は狭いが人ひとりなら通れる。それが第12層の外縁を迂回するように走り、中継拠点の裏側を通って——第11層への上昇通路に繋がっている。

 魔物はいない。罠は二箇所。どちらも位置が視えている以上、避けるのは容易だ。

 レンは目を開けた。

 「帰れる」

 呟いた声は、自分でも驚くほど確かだった。隠し通路を辿れば、魔物と一切遭遇せずに上層へ抜けられる。さらに上の階層にも同様の隠し通路があるなら、地上まで——

 迷宮視を上の階層に向けて意識を伸ばす。第11層。第10層。構造が流れ込み、こめかみに圧がかかる。だが各層にひとつ、あるいはふたつ、通常の地図には載らない隠し通路が存在していた。それらを繋げば、人知れず地上に到達するルートが完成する。

 『行くのか』

 ヴォイドウルフの声が、少しだけ軽くなった気がした。

 「ああ。まずは地上に戻る。ここで朽ちる気はない」

 『殊勝なことだ。だが覚えておけ、契約者。その紋様を誰にも見せるな。人間の法では、俺との契約は死罪だ。見つかれば——お前だけでなく、俺も困る。窓が塞がれるのは二度とごめんだ』

 レンは袖を引き下げ、左手の紋様を覆った。封印の間を振り返る。青紫の光の中で、漆黒の獣が伏せている。鎖が重たげに垂れ、金色の瞳だけがレンを見送っていた。

 「また来る」

 それは約束ではなく、予感だった。第50層、命の果実、そしてこの獣との契約——すべてが繋がっている気がした。

 『ああ。来い。退屈で死にそうだったところだ』

 レンは壁に手をかけた。迷宮視が示す通り、奥壁の一角に指をかけると、石がわずかに沈み、人ひとり分の裂け目が音もなく開いた。乾いた空気が頬を撫でる。

 隠し通路に身を滑り込ませる。狭い。だが進める。壁の向こうで魔物がうろつく気配を感じながら、レンは一歩ずつ上を目指した。迷宮視が照らす安全な道を辿り、罠を避け、分岐を選ぶ。五年間ただ荷物を運んでいた足が、今は自分の意志で地面を踏んでいた。

 第11層への境界を越えたとき、ふと気づいた。

 迷宮視の端に、もうひとつの反応がある。第12層よりさらに下——第13層の深部に、微かだが規則的な熱源があった。魔物とは違う。罠でもない。何かが、あそこにいる。あるいは、何かがあそこで動いている。

 レンは足を止めなかった。今はまず、生きて地上に戻ること。だが迷宮視が捉えたあの反応を、体が忘れることはなかった。

 上を目指す足取りの中に、下への引力が混じっていた。

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