第3話
第3話「テレビが映らぬ三日」
テレビが映らなくなってから、三日が経った。
あの朝見た映像は夢ではなかった。ネットニュースが断片的に伝えるところによれば、東京湾岸の臨海副都心エリアに「原因不明の大気異常」が発生し、半径二キロの立入禁止区域が設定されたという。政府の発表は「高層大気の局所的な電磁波異常」。嘘だ。あれは霊力の凝集体であり、その規模は俺の知る常識をはるかに超えている。
紙鴉の修復は終わっていなかった。和紙のほつれを繋ぎ直し、霊力を少しずつ通して形を整える。まだ翼の先端が毛羽立っている。完全な状態には程遠いが、飛べはする。
倉庫の段ボールの上で修復作業を続けていると、スマートフォンが鳴った。赤坂だ。
「今から来い。全員招集だ」
全員。蛇紋会で「全員招集」がかかるのは年に一度あるかないかだ。最後にかかったのは、関東の別組織と縄張りが衝突したときだった。胃の底が冷えた。
新宿三丁目の事務所に着くと、見慣れない光景が広がっていた。普段は赤坂と数人しかいないフロアに、二十人近い人間が詰め込まれている。タバコの煙と体臭と緊張が混ざり合って、空気が粘ついていた。末端の構成員から幹部まで。俺は入口近くの壁に背をつけて立った。誰も俺に席を譲らない。そもそも席が足りていない。
奥のデスクに、蛇紋会の頭目——蛇島が座っていた。六十代、白髪を撫でつけた痩躯の男。俺が直接顔を見るのは三度目だ。普段は表に出てこない。この男が出てくるということは、事態がそれだけ深刻だということだった。
「湾岸の件だ」
蛇島の声は低く、よく通った。部屋が静まる。
「三日前に出現した霊力異常——政府は公表していないが、あれは『虚洞』だ」
虚洞。術書で読んだことがある。現世と幽世の境界が裂け、妖魔が際限なく湧き出す災害級の事象。ただし、記録上は百年以上確認されていないはずだった。
「規模は拡大中。政府の連中が封鎖しているが、内部調査には手を出せずにいるらしい。監視衛星のデータでは虚洞の直径は六十メートル。出現した妖魔の数は推定で百を超える」
室内がざわめいた。百体。俺が命がけで四体祓って半死半生になったのに、百。次元が違いすぎて恐怖すら湧かない。
「我々にとっては好機だ」
蛇島が続けた。
「虚洞の内部には高純度の霊力結晶が生成される。その価値は——この場にいる全員の生涯賃金を合わせても届かん。政府が本格的に動く前に、内部の偵察を行い、結晶の位置と量を把握する」
金か、と思った。結局はそうだ。未曾有の災害が起きても、この組織が見るのは金の匂いだけだ。
「偵察要員だが——」
赤坂が蛇島の隣で口を開いた。その視線がまっすぐ俺を射抜く。部屋にいる全員の目が、赤坂の視線を追って俺に集まった。
「黒崎。お前だ」
予想はしていた。していたから、膝が震えなかっただけだ。
「紙鴉の偵察能力は虚洞の内部探索に適している。小回りが利く。使い勝手がいい」
使い勝手がいい。道具の評価と同じ言い方だった。
「待ってくれ」
声を上げたのは、意外にも灰島だった。壁際に腕を組んで立っていた灰島が、顔をしかめて赤坂を見る。
「こいつ一人で行かせるのか。虚洞だぞ。低級妖魔が百体以上いる中に、紙鴉一体しか持ってない出来損ないを突っ込ませてどうする。偵察にすらならねえ。行ったきり連絡が途絶えて終わりだ」
一瞬、灰島が俺を庇っているのかと思った。違う。灰島の声には心配の響きは一片もなかった。「無駄な投資」を嫌がっている。それだけだ。
赤坂が口の端を上げた。
「だから丁度いいんだよ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「虚洞の内部がどうなっているか、誰も知らない。最初に送り込むのは本命じゃなく捨て駒だ。中の構造、妖魔の配置、霊力の流れ——生きて戻ってくれば儲けもん。戻ってこなけりゃ、それはそれで情報になる。『この程度の術者では生還できない』っていうな」
灰島が黙った。反論ではなく、納得して黙ったのだ。合理的な判断だと認めた沈黙。周囲の構成員たちも同様だった。異を唱える者は一人もいない。
赤坂が俺に向き直った。
「お前が死んでも、誰も困らない」
知っていた。ずっと知っていた。でも、こうして言葉にされると——声にされると、胸の奥で何かが軋む音がした。
蛇島が小さく頷いた。それで決定だった。会議は十分で終わり、構成員たちは三々五々散っていった。俺の横を通り過ぎる誰もが、目を合わせなかった。すれ違いざまに灰島が低く言った。
「せいぜい、いいデータを残して死ねよ」
事務所を出て、倉庫に戻った。
決行は明日の深夜。政府の監視が手薄になる午前二時から四時の間に、虚洞の外縁部から侵入する。通信機器を持たされる。生きている間は十分おきに状況を報告しろ、と言われた。「生きている間は」という条件付きで。
段ボールの上に座り、修復途中の紙鴉を掌に載せた。霊力を流すと、よたよたと立ち上がり、首を傾げるような仕草をした。翼のほつれが痛々しい。万全にはほど遠い。俺も、こいつも。
「明日、湾岸に行く」
紙鴉に向かって言った。返事がないのは分かっている。
「虚洞ってやつの中に入る。たぶん——たぶん相当やばい。帰ってこれないかもしれない」
声に出すと、急に現実味が増した。明日の今頃、俺はもうここにいないかもしれない。この段ボールの寝床にも、この薄暗い倉庫にも。コンビニの廃棄弁当を食べることも、非常階段で夜風に当たることもない。
それが怖いのかと自分に問う。怖くないと言えば嘘になる。でも、怖さの質が違う。死ぬこと自体より、死んでも何も変わらないことが怖い。俺が消えても世界は一ミリも動かない。倉庫の蛍光灯はじじと瞬き続け、コンビニの少年たちは笑い続け、赤坂は次の捨て駒を探すだけだ。
紙鴉が掌の上で、俺の親指にすり寄るように頭を押しつけた。
「……帰ってこれなかったら、ごめんな」
声が掠れた。こいつが消えるのだけは——霊力の供給が途絶えて、ただの紙切れに戻るのだけは、申し訳ないと思った。俺のために飛んでくれた。ぼろぼろになっても、まだ俺のそばにいてくれている。
紙鴉が小さく鳴いた。鳴いた、というのは正確ではない。和紙が震える微かな音。でも俺には鳴き声に聞こえた。「行くな」と言っているのか、「一緒に行く」と言っているのか。分からない。分からないけれど、このかすかな振動だけが、今の俺を繋ぎ止めていた。
翌日の深夜、俺は湾岸に立っていた。
臨海副都心の一角。立入禁止のバリケードは、赤坂が手配した裏ルートで迂回した。政府の監視カメラが届かない死角を縫って、埋立地の先端にたどり着く。
虚洞は、そこにあった。
テレビの映像では分からなかった。実物は——次元が違った。夜空に穿たれた黒い穴。直径六十メートルどころではない。拡大している。七十メートルはあるかもしれない。穴の縁は紫色の光を帯びて脈動し、その奥には光も音も吸い込まれて消えていく暗闇が広がっている。
風が吹いていた。虚洞に向かって、すべてが吸い寄せられるような風。髪が顔に張りつき、シャツが体に押しつけられる。空気中の霊力濃度が異常だ。肌がぴりぴりと痺れる。呼吸するだけで肺の奥が焼けるように熱い。
通信機のイヤピースから、赤坂の声が入った。
『着いたか。見えるか』
「見えてます。虚洞の直径は七十メートル以上。まだ拡大中です。霊力濃度は——計測不能。俺の感知能力じゃ上限が振り切れてます」
『突入しろ。まず外縁部の構造を報告。十分おきだ。忘れるなよ』
通信が途切れた。突入しろ。簡単に言う。
胸ポケットから紙鴉を出した。掌の上の小さな相棒は、まだ翼がほつれている。万全じゃない。でも、こいつは飛ぶ構えを見せた。行く気だ。
「——行くぞ」
紙鴉が羽ばたき、俺の肩に止まった。
虚洞の縁に立つ。足元のコンクリートに亀裂が走り、紫色の光が漏れている。一歩踏み出せば、もう戻れないかもしれない。
背後を振り返った。東京の街並みが、海の向こうに光っている。ビルの窓明かり。首都高を走る車のヘッドライト。眠らない街の、俺を知らない光。
あの光の中に、俺の居場所はない。ここにもない。たぶん、どこにもない。
だったら——前に進むしかない。
俺は虚洞に足を踏み入れた。世界が反転した。光が消え、音が消え、重力の方向が分からなくなる。紙鴉が肩にしがみつく小さな感触だけが、唯一の現実だった。
闇の底で、何かが蠢いている。一つや二つではない。無数の気配が、俺を取り囲むように広がっていく。低級妖魔の濁った霊力——その中に、一つだけ桁違いの圧が混じっていた。
紙鴉が震えた。俺も震えた。
虚洞の奥から、巨大な何かがこちらを見ている。