第2話
第2話「第七倉庫街の灰色」
明後日の夜は、すぐに来た。
第七倉庫街は、東京湾岸の埋立地に張りついた灰色の塊だった。海風が潮と錆の匂いを運んでくる。街灯は三本に一本しか点いておらず、等間隔に並ぶ倉庫群の影が地面に黒い縞模様を描いていた。午前一時。人の気配はない——少なくとも、表向きは。
赤坂から送られてきた詳細は、素っ気ないものだった。第七倉庫街の一角にある地下施設。裏カジノ。そこに低級妖魔が巣食い、客と売上に被害が出ている。「偵察して、祓えるなら祓え」。偵察任務だったはずが、いつの間にか駆除にすり替わっている。報酬は三倍のまま——そこだけは変わっていなかった。
倉庫と倉庫の隙間を縫うように歩く。足元のアスファルトが割れて、雑草が顔を出していた。胸ポケットから紙鴉を取り出し、霊力を流す。和紙の翼がぱたぱたと羽ばたき、夜空に舞い上がった。
「先に見てきてくれ」
紙鴉は闇に溶けるように飛んでいった。俺の視界の端に、紙鴉が見ている映像がぼんやりと重なる。完全な共有視覚じゃない。輪郭と、色の濃淡と、かすかな霊力の気配が伝わる程度だ。それでも、目視よりはましだった。
三分後、紙鴉から反応が返ってきた。倉庫の裏手にある搬入口。その床にコンクリートで塞がれたはずの階段があり、蓋が外されている。地下から微かに光が漏れ、低級妖魔特有の濁った霊力がにじみ出していた。三体——いや、四体。紙鴉の感知能力では正確な数は掴みきれない。
階段を降りた。
地下は想像と違っていた。倉庫の無機質な外観からは想像できない、毒々しい空間が広がっている。壁に貼られた赤い布。天井から吊るされたシャンデリアの安っぽい光。ルーレット台が三つ、ブラックジャックのテーブルが二つ。そして奥にバカラ台。どれも今は無人だった。テーブルの上にチップが散乱し、椅子が倒れている。慌てて逃げた痕跡だ。
空気が重い。湿度ではない。霊力の澱みだ。低級妖魔が棲みついた空間特有の、肌に纏わりつくような不快感。息を吸うだけで肺の奥がざらつく。
紙鴉を呼び戻し、掌の上で待機させた。ここからは俺自身の目で見る。
最初の一体は、ルーレット台の下にいた。
黒い靄のような塊。形を持たない低級妖魔——「影溜まり」と術書には記されていた。人間の負の感情を餌にする寄生型。カジノに巣食うのは理にかなっている。賭けに負けた人間の悔恨、怒り、絶望——ここには餌が溢れていたはずだ。
紙鴉を飛ばした。影溜まりに向かって突っ込ませ、霊力を載せた嘴で核を食い破る。低級妖魔の祓いとしては最も原始的なやり方だ。紙鴉が影溜まりに触れた瞬間、靄が膨張して紙鴉を呑み込もうとする。
「——っ」
霊力を強く押し込んだ。指先が痺れる。紙鴉の嘴が核を噛み砕き、影溜まりが悲鳴のような音を立てて霧散した。
一体目。残りは三体以上。霊力の残量を考える。普段の祓いなら一体で限界に近い。今日は——三倍の報酬に見合う仕事をしなければならない。
二体目はバカラ台の裏。三体目はバーカウンターの影。同じ影溜まりだが、三体目は最初の二体より一回り大きかった。紙鴉を突撃させるたびに霊力が削られていく。指先の痺れが手首まで這い上がり、視界の端が暗くなる。
三体目を祓い終えたとき、膝が笑っていた。額の汗が顎から滴り落ち、カーペットに染みを作る。呼吸が荒い。霊力はほぼ空だ。紙鴉がよろよろと飛んで俺の肩に戻ってくる。翼の先端がほつれて、和紙が毛羽立っていた。
「もう一体——」
四体目は、奥の倉庫区画に繋がるドアの向こうにいた。ドアを開けた瞬間、冷気が顔を叩いた。影溜まりではない。形を持っている。犬ほどの大きさの、四足の黒い獣——「喰影」。影溜まりが十分な餌を得て変異した上位個体。低級の中では上限に近い。
逃げるべきだった。霊力は底を突いている。紙鴉もぼろぼろだ。
でも、ここで逃げれば報酬はゼロだ。ゼロどころか、任務失敗の罰が待っている。
紙鴉を正面から突っ込ませた。囮だ。喰影が紙鴉に気を取られた隙に、俺は懐から予備の和紙を取り出し、最後の霊力を振り絞って簡易結界を展開した。術書に載っていた技法の、劣化コピーもいいところだ。結界と呼ぶのもおこがましい、霊力の薄い膜。でも低級妖魔の動きを一瞬だけ止める程度の効果はある。
喰影が膜に触れて怯んだ。その一瞬に紙鴉が核を狙う。翼がちぎれながらも嘴を突き立て、核に亀裂を入れた。喰影が暴れる。紙鴉が弾き飛ばされ、壁に叩きつけられて床に落ちた。和紙がばらばらにほどけかける。
「まだだ——」
声を絞り出した。指先から霊力の最後の一滴を押し出す。感覚がない。自分の手なのか分からない。紙鴉がもう一度だけ舞い上がり、亀裂の入った核に二度目の打撃を加えた。
喰影が砕けた。黒い破片が塵になり、空気に溶けて消える。
俺はその場に膝をつき、手をついた。冷たいコンクリートの感触が掌に伝わる。四体。全部祓った。生きている。それだけを確認して、しばらく動けなかった。
紙鴉を——ばらばらになりかけた和紙を、震える手で拾い集めた。破れた翼を重ねて胸ポケットに入れる。霊力を流す余力はもうない。
倉庫街を出ると、東の空がうっすらと白み始めていた。海風が汗で冷えた体に容赦なく吹きつける。歯の根が噛み合わなかった。
指定された合流地点は、倉庫街の外れにあるコインパーキングだった。黒いワンボックスカーが一台停まっている。後部座席の窓が開き、中から封筒が差し出された。
受け取って中を確認する。指が震えていて、紙幣を数えるのに時間がかかった。
——足りない。
約束の半分だ。
「あの、報酬が——」
「喰影が混じってたのはお前の報告にはなかっただろ」
車の中から声がした。運転席にいたのは赤坂ではなく、若い男だ。俺と同い年か、少し上くらい。整った顔立ちに、人を小馬鹿にしたような薄い笑みを浮かべている。
「事前の情報になかった個体が出た場合、追加報酬の対象になるって聞いて——」
「誰から聞いた? お前に待遇の説明なんかした覚えはねえけど」
灰島——たしかそんな名前だった。組織の構成員で、俺と違って正規の教育を受けている。陰陽術は使えないが、組織内での立場は俺より遥かに上だ。
灰島がバックミラー越しに俺を見た。その目は、さっきの事務所にいたスーツの男たちと同じだった。「こいつは脅威ではない」。もっと正確に言えば——「こいつは人間として数えなくていい」。
「四体全部祓いました。客への被害も止めました」
「だから何? お前の仕事だろ。犬が飼い主のために芸をして、追加のおやつを要求するか?」
声が出なかった。反論の言葉はある。でもそれを口にした瞬間、この半額すらなくなる。俺にはここしかない。ここにしかいられない。それを一番分かっているのは、俺自身だ。
「……ありがとうございます」
封筒を鞄にしまい、頭を下げた。灰島が鼻で笑う音が聞こえた。ワンボックスカーのエンジンがかかり、排気ガスの匂いを残して走り去った。
コインパーキングに一人残された。手の中の封筒は薄い。これが「使い捨て」の値段だ。最初から、三倍の報酬を払うつもりなんかなかったのかもしれない。
倉庫に戻る道は、来たときより長く感じた。
夜が明けた倉庫の中、段ボールの寝床に横になって天井を見ていた。体は限界だったが、眠れない。胸ポケットの中で、ぼろぼろの紙鴉が微かに温もりを返している。こいつの修復には数日かかる。その間、俺は丸腰だ。
倉庫の隅に置かれた古い小型テレビを点けた。映りの悪いブラウン管に、朝のニュースが流れている。音量は絞ってある。近所迷惑——倉庫に近所はないが、組織に見つかると面倒だ。
画面の中でキャスターが何かを喋っていた。聞き流すつもりだった。天気予報か、政治のニュースか、どうでもいい。俺の世界には関係のない話だ。
——画面が切り替わった。
『速報です。今朝未明、東京湾岸地区で原因不明の大気異常が観測されました。気象庁は現在、原因の調査を——』
映像には、湾岸のどこかの上空に浮かぶ、紫がかった雲のようなものが映っていた。雲じゃない。俺にはそれが何か、すぐに分かった。
霊力の凝集体。あれほどの規模のものは見たことがない。テレビ越しでさえ、画面から滲み出すような圧を感じる。普通の人間には見えないはずの波長が、可視光領域にまで漏れ出している。それはつまり——あの場所の霊力濃度が、常識の範囲を逸脱しているということだ。
段ボールの上で、体を起こしていた。いつ起き上がったのか、自分でも分からない。
画面に映る座標テロップ。東京湾岸、臨海副都心エリア。さっき俺が任務をこなした場所から、そう遠くない。
紙鴉がポケットの中でかすかに震えた。霊力切れのはずなのに。まるで、画面の向こうにある何かに反応するように。
「——なんだよ、あれ」
呟いた声が、倉庫の天井に吸い込まれて消えた。胸の奥で、理由の分からない鼓動が速くなっていた。恐怖とは少し違う。もっと原始的な何か——呼ばれている、と感じた。
テレビの映像が乱れ、砂嵐が走った。一瞬だけ画面が戻り、紫の雲が渦を巻いている映像が映る。その中心に、黒い裂け目のようなものが——。
映像が途絶えた。
倉庫の蛍光灯がじじ、と瞬いた。俺は画面の消えたテレビを見つめたまま、動けなかった。