第1話
第1話「非常階段の紙片」
夜の歌舞伎町は、人間の欲望を煮詰めたような匂いがする。焼き鳥の煙、排水溝から立ち上る饐えた湿気、どこかの店から漏れる安い香水——それらが混ざり合って、歌舞伎町特有の空気を作っている。
俺——黒崎蓮は、雑居ビルの非常階段に背中を預けたまま、掌の上の紙片を見つめていた。薄汚れた和紙を折っただけの、親指ほどの鴉。俺が霊力を流すと、そいつはかすかに羽ばたいて、俺の肩に止まった。
「……終わったぞ」
紙鴉に向かって呟く。馬鹿みたいだと思う。こいつに意思があるのかも分からない。ただ、他に話す相手がいない。
三階の窓から漏れる蛍光灯の光が、非常階段の手すりを青白く照らしていた。さっきまで俺がいた部屋には、低級の憑き物に取り憑かれた男が転がっている。意識はある。命に別状もない。憑き物は紙鴉に喰わせて祓った。それだけの仕事だ。
四月の夜風が首筋を撫でた。汗ばんだシャツが冷えて、肌に張りつく。祓いのあとはいつもこうだ。霊力を絞り出した反動で体温が下がり、指先から順に痺れていく。手すりを握る指が小さく震えていた。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面には「赤坂」の二文字。
出ないという選択肢はない。
「終わりました」
『遅い。二時間って言っただろうが』
赤坂の声は、いつも苛立っている。裏組織——俺たちは「蛇紋会」と呼んでいる——の若頭補佐。陰陽師を「道具」として管理する担当だ。もっとも、管理対象は今のところ俺一人しかいない。
『報酬はいつも通りだ。倉庫に飯を置いてある』
「……はい」
通話が切れた。報酬、という言葉に、毎回小さな棘が刺さる。コンビニの廃棄弁当と、倉庫の隅に敷かれた段ボールの寝床。それが俺の「いつも通り」だった。
紙鴉が肩の上でかすかに震えた。霊力が切れかけている。こいつを維持するだけで、俺の霊力はほとんど空になる。陰陽師としては最底辺だ。式神が紙片の鴉一体。しかも戦闘能力は皆無に等しい。偵察と、せいぜい低級の憑き物を喰わせる程度。
「出来損ない」と呼ばれる理由は、自分が一番よく知っている。
倉庫に戻ると、約束通りコンビニ袋が置かれていた。中身は消費期限が二日過ぎた幕の内弁当と、潰れたおにぎりが一つ。贅沢は言わない。食えるだけましだ。
段ボールの上に座り、冷たい飯を口に運ぶ。倉庫の天井は高く、蛍光灯は三本のうち一本しか点いていない。薄暗い空間に、俺の咀嚼音だけが響く。米は乾いて芯が残り、おかずの煮物は冷え切って脂が白く固まっていた。それでも腹は減っている。味を気にする余裕は、とっくに捨てた。
紙鴉を掌に戻し、霊力の供給を止めた。和紙がぺたりと萎れて、ただの紙切れに戻る。
「……いつか、さ」
誰に言うでもなく、声が漏れた。
「いつか俺たちも、まともに暮らせるのかな」
返事はない。当たり前だ。紙切れに言葉は通じない。
倉庫の隅で水道管が低く唸っていた。どこかの階で誰かが蛇口をひねったのだろう。その音が止むと、また静寂が戻る。コンクリートの壁に染みついた油と埃の匂いが鼻の奥にこびりついて離れない。段ボールの寝床に横になると、天井の蛍光灯がじじ、と微かに瞬いた。虫の羽音に似たその振動が、広い倉庫の中で妙に大きく聞こえる。目を閉じても、まぶたの裏に蛍光灯の残像がちらついて眠れなかった。
戸籍がない。学校にも行ったことがない。物心ついたときから蛇紋会の施設にいて、十歳で霊力の片鱗が見えてから陰陽術の真似事を仕込まれた。師匠と呼べる人間はいなかった。組織が持っていた古い術書を読み、独学で紙鴉を作った。それだけが俺の武器であり、俺がここに置いてもらえる唯一の理由だった。
十六年間、誰にも名前を呼ばれたことがない。「おい」「出来損ない」「使えねえな」。それが俺に向けられる言葉のすべてだった。
強くなりたいとは思わない。組織を潰したいとも思わない。ただ——誰かに「ここにいていい」と言ってほしかった。それだけだ。たったそれだけのことが、十六年間、一度も叶わない。
翌朝、赤坂から直接呼び出しがかかった。
蛇紋会の事務所は、新宿三丁目の雑居ビルの四階にある。表向きは不動産仲介業。入口のガラスドアに貼られた「株式会社アカサカ総業」のステッカーが、蛍光灯の光を鈍く反射していた。
事務所に入ると、革張りのソファに赤坂が座っていた。四十代半ば、痩せた体に仕立てのいいスーツ。左手の薬指に、蛇を模した銀の指輪が光っている。その隣に、見知らぬスーツの男が二人。二人とも赤坂より体格がよく、目だけが冷たく光っていた。俺を一瞥して、すぐに興味を失ったように視線を外す。その仕草が「こいつは脅威ではない」と無言で告げていた。
「座れ」
赤坂が顎でパイプ椅子を示す。俺は黙って座った。パイプ椅子の座面は冷たく、錆びた脚が軋んだ。紙鴉は胸ポケットに入れたまま、わずかに霊力を流しておく。何かあったときの保険だ——気休めにもならないが。
「新しい案件だ。明後日の夜」
赤坂がテーブルの上にタブレットを置いた。画面には地図が表示されている。東京湾岸のどこか。埋立地の工業エリアだった。
「場所は湾岸の第七倉庫街。中身は——まあ、行けば分かる」
「……詳細は」
「お前に詳細が要るか?」
赤坂の目が細くなった。笑っているのではない。値踏みしている目だ。俺が逆らわないことを確認する、飼い主の目。
隣のスーツの男が微かに口元を歪めた。嘲りとも取れる笑みだった。俺は視線をテーブルに落とした。拳を膝の上で握りしめる。爪が掌に食い込む感触だけが、今この瞬間に俺が生きている証拠のような気がした。
「行って、見て、戻ってくる。それだけだ。偵察任務。お前の紙鴉が得意なやつだろ」
偵察。その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。戦闘ではない。紙鴉を飛ばして周囲を探り、情報を持ち帰る。それなら俺でもできる。
「報酬は」
「いつもの三倍」
思わず赤坂の顔を見た。三倍。コンビニの廃棄弁当三食が九食になるのか、それとも——いや、金額の問題じゃない。
「三倍」という数字が引っかかった。
偵察任務で、報酬がいつもの三倍。それは普通じゃない。俺の仕事の相場を、俺自身が一番知っている。低級の憑き物祓いで残飯一食分。中級案件で弁当二つ。それが「出来損ないの陰陽師」の値段だ。
三倍ということは、それだけの危険があるということだ。あるいは——戻ってこない可能性が織り込まれている。
胃の奥がきゅっと縮んだ。それでも表情には出さない。ここで怯えた顔を見せれば、赤坂は嗤う。隣のスーツの男たちも嗤う。そして「やっぱり使えない」の一言で、俺の居場所ごと消される。
「何か、言いたいことは」
赤坂が聞いた。形だけの確認だ。俺が断れないことを知っている。
「……いえ。やります」
「よし。詳細は前日に送る。下がれ」
事務所を出て、非常階段を降りながら、胸ポケットの紙鴉に触れた。かすかな霊力の残滓が、指先に温もりのようなものを返す。
俺がいなくなっても、誰も困らない。赤坂はそう思っている。組織の全員がそう思っている。たぶん、それは正しい。
でも——こいつだけは、困るかもしれない。霊力の供給が途絶えれば、紙鴉はただの紙切れに戻る。それだけのことだ。それだけのことなのに、やけに胸が痛んだ。
「……大丈夫。ちゃんと帰ってくるから」
紙鴉が、ポケットの中でかすかに震えた。
夜の新宿に出ると、ネオンの光が目を刺した。赤、青、紫——色とりどりの電飾が濡れたアスファルトに反射して、足元に偽物の星空を作っている。行き交う人々は誰も俺を見ない。存在しない人間を認識する目は、この街にはない。
倉庫に戻る道すがら、コンビニの窓越しに、同い年くらいの少年たちが笑い合っているのが見えた。制服を着ている。学校帰りなのだろう。足が止まる。
ガラス一枚の向こうに、俺が知らない世界がある。
一人がもう一人の肩を叩いて何か言い、全員が声を上げて笑った。その音はガラス越しにくぐもって聞こえた。何がそんなに面白いのか分からない。分からないこと自体が、俺と彼らの距離だった。
手を伸ばせば届く距離に、触れられない日常がある。彼らが当たり前に持っているもの——名前を呼んでくれる誰か、帰る場所、明日の予定を笑って話せる相手。そのどれひとつとして、俺は手にしたことがない。ガラスに映った自分の顔が、薄く透けて少年たちの笑顔と重なった。まるで幽霊みたいだ、と思った。
紙鴉に霊力を送った。ポケットの中で、小さな羽ばたきが返ってくる。
「いつもより多い」報酬。その言葉の裏にあるものを、考えないようにした。考えても、答えは変わらない。俺に選択肢はない。
——まだ、ない。