第2話
第2話
剣の冷たさが、喉の皮膚を僅かに押した。
鉄の匂いがした。血ではない。研ぎ油と錆びの混じった、戦場の残り香だ。
レンは動かなかった。動けなかったのではない。動く意味がなかった。三日間の飢渇で枯れ果てた身体には、剣を払う力も、逃げる足も残っていない。唇は割れ、舌は乾いた砂のように口蓋に貼りついていた。だが仮に残っていたとしても、レンは動かなかっただろう。この男の目には、殺意よりも深いものが宿っていた。
憎悪。それも、個人に向けたものではない。もっと大きな何かに対する、長い年月をかけて醸成された怒り。国家という機構そのものに対する、静かに煮詰められた毒のような感情だった。
「聞こえなかったか?」カイルが剣を僅かに押し込んだ。刃先が皮膚を浅く裂き、生温かいものが一筋、鎖骨に向かって流れた。「なぜアルシェスの軍師が、こんなところで死にかけている」
「追放された」
レンは短く答えた。声が掠れて、自分の言葉とは思えなかった。喉が焼けるように痛んだ。
焚き火の周囲で、男たちの気配が変わった。嘲りでも同情でもない、品定めの沈黙だった。火に照らされた顔が、ぼんやりと浮かんでいる。どの顔にも、安穏とは程遠い歳月が刻まれていた。
「追放」カイルが繰り返した。剣は引かない。「軍師様が何をしでかした。横領か。女か。それとも、負け戦の責任を押し付けられたか」
「勝ち戦の手柄を奪われた」
カイルの目が微かに揺れた。ほんの一瞬だったが、レンはそれを見逃さなかった。この男は、その言葉の意味を理解できる人間だ。身をもって知っている人間の目だった。
だが剣は下りなかった。
「証拠は」
「ない」レンは正直に答えた。「あるのは追放令の書状だけだ。そこに理由は『能力不足』と書いてある」
カイルは片手を差し出した。レンは外套の内側から、折り畳まれた羊皮紙を抜いて渡した。指先の感覚はほとんどなく、紙の端が手から滑り落ちかけた。カイルは焚き火に近づき、封蝋の紋章を確認した。枢密院の正式な印璽。偽造できるものではない。
「ケルダ要塞の防衛戦」傍らにいた男が声を上げた。年嵩の、片目に眼帯をした男だった。「三週間前のあれか。四千で二万を退けたという」
「ああ」レンは頷いた。「あの策を立てたのは俺だ。だが手柄はグレイヴス将軍のものになった」
カイルの剣が、ようやく下りた。
だが、鞘には収めなかった。
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廃村は、かつてヴェルダ王国の国境集落だったものの残骸だった。
石壁の家屋が七つ。そのうちまともに屋根が残っているのは三つだけで、残りは崩れかけた壁だけが月光の下に白く浮かんでいる。井戸は辛うじて水を汲める。畑は荒れ果て、雑草が膝の高さまで伸びていた。
アルシェスの度重なる威圧と、国境の匪賊の襲撃。住民はとうに逃げ散り、残ったのは誰にも属さない空白の土地だけだった。
「十四人」カイルが干し肉をレンに投げてよこした。「それが今のうちの全兵力だ。元アルシェス兵が六人、元ヴェルダ兵が三人、どこの軍にもいたことのない流れ者が五人」
レンは干し肉を噛んだ。顎が痛むほど硬かったが、胃に落ちた瞬間、身体が熱を取り戻すのがわかった。内臓が目を覚ますように蠕動し、手の先にまで鈍い温もりが広がっていく。水を渡されて、三口で半分を飲み干した。冷たい水が喉を通るとき、三日ぶりに自分が生きている人間だと実感した。
「アルシェス第七遊撃隊は、国境警備の精鋭だったはずだ」レンは記憶を辿った。「三年前に解散命令が出た。理由は——」
「予算削減」カイルが吐き捨てた。「と表向きは言っていたな。本当の理由は、隊長が宮廷派閥の対立に巻き込まれたからだ。俺たちは指揮官ごと切り捨てられた。解散令が出たのは、冬営の最中だった。補給が絶たれ、糧食も防寒具もなくなった」
カイルは焚き火に枝を放り込んだ。火の粉が舞い上がり、夜空に散った。
「隊長は部下を逃がすために投降した。だが『反逆者の部下』の烙印を押された俺たちを、どの街も受け入れなかった。三十二人いた仲間は、今では六人だ」
レンは黙って聞いていた。似た話を、王都の書類の山の中で幾つも読んだことがあった。予算の数字、人員の配置表、解散の決裁書——それらの裏に、こうした血の通った物語があったのだと、今さらのように思い知った。あの整然とした数列の一つ一つに、凍えた夜と空腹の朝と、帰る場所を失った男たちの足跡が重なっていた。
片目の男が口を開いた。ヨルグと名乗った。元ヴェルダ正規軍の歩兵。
「俺はヴェルダ軍にいた。だが三年前、アルシェスの圧力でヴェルダが軍縮をやった。兵の三割が放逐された。家族を養う術をなくした者たちが匪賊に堕ちていくのを、王城の連中は窓から眺めていた」
もう一人、若い男が焚き火の端から声を出した。まだ二十歳にもなっていないように見えた。
「俺はどこの兵でもない。ただ、村をアルシェスの行軍に踏み潰されて、行くところがなくなっただけだ」
静寂が降りた。焚き火が爆ぜる音だけが、崩れた石壁の間に反響した。
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レンはゆっくりと身を起こし、毛布を畳んだ。体力は戻っていない。だが頭は回り始めていた。
周囲を見渡す。十四人の男たち。その座り方、武器の置き場所、火の番の交代。軍師の目は、否応なしに戦力を計算する。
練度は低い。元正規兵は型を保っているが、連携の訓練を長く怠っている。武器の手入れも不十分だ。刃こぼれした剣、弦の緩んだ弓。補給線を持たない集団の常だった。カイルの剣だけが、異様なほど研ぎ澄まされていた。あの刃の手入れに、この男がどれほどの執念を注いでいるのかが透けて見えた。
「見てるな」
カイルが焚き火の向こうから言った。寝ていたと思ったが、目を開けていた。
「何を数えている、軍師殿」
「癖だ」レンは視線を逸らさなかった。「剣を向けられても治らない」
カイルは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれなかった。
「一つ聞く」カイルが身を起こした。「お前がケルダの策を立てた軍師だとして——なぜヴェルダに来た。南へ逃げれば、アルシェス領内で身を隠すこともできただろう」
レンは少し考えた。正直に答えるべきか。だが、嘘をつく余力も、嘘をつく意味もなかった。
「グレイヴスの手が届かない場所に行きたかった。南では、いずれ見つかる」
「それだけか」
レンは黙った。それだけではなかった。だが、まだ形にならない感情を言葉にする段階ではなかった。胸の底に沈んだ何かが、焚き火の熱に触れて微かに動いた気がしたが、掴むには早すぎた。
カイルはしばらくレンの目を見つめ、それから剣を鞘に収めた。今夜初めてのことだった。金属が革に滑り込む乾いた音が、妙に大きく聞こえた。
「殺す理由がない」カイルは淡々と言った。「アルシェスに捨てられた軍師を殺しても、俺たちの腹は膨れない。だが信用もしていない。逃げるなら止めない。残るなら、水汲みと薪割りくらいはやってもらう」
「残る」レンは即答した。
「早いな」
「行くあてがない」
カイルは再び鼻を鳴らした。今度は確かに、口の端が持ち上がっていた。
「朝になったら井戸に行け。桶は小屋の裏だ」
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夜明け前に、レンは目を覚ました。
身体のあちこちが痛んだが、飢えの鋭さは干し肉が鈍らせてくれていた。毛布から這い出し、崩れかけた壁に手をついて立ち上がる。石壁の冷たさが掌を刺した。指先はまだ痺れている。
東の空が、薄く白み始めていた。国境の荒野は、夜の黒から灰色に変わりつつある。冷えた空気が肺の奥まで沁みた。草の匂いと、遠くの土の匂い。その向こうに、アルシェスの大地が横たわっているはずだった。だが、ここからは見えない。低い丘陵が視界を遮り、かつてレンが属した国は地平線の彼方に沈んでいた。
ふと、足音が聞こえた。カイルが小屋の角に背を預け、東の空を見ていた。眠っていないのだろう。目の下に深い隈があった。
「軍師殿」カイルは東を見たまま言った。「一つ言い忘れていた」
レンは待った。
「お前の紋章——あれは軍師団でも上位の者しか持たない。つまりお前は、ただの末席軍師じゃない」
レンは答えなかった。
カイルが振り向いた。その目は、昨夜の焚き火の前よりもずっと冷たかった。
「アルシェスに捨てられた哀れな男、で通すつもりなら、それでもいい。だが——」
カイルは腰の剣の柄に手を置いた。
「お前が何者で、本当は何をしに来たのか。いずれ全て話してもらう。それまでは、水汲みと薪割りだ」
東の空が、赤く燃え始めていた。レンの影が、長くヴェルダの大地に伸びた。