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万象図鑑の最底辺ハンター

第3話 第3話

第3話

第3話

甲殻魔獣が床を蹴った。

三メートルの巨体が嘘のような速度で滑り出し、琥珀色の光の中を黒い影が走る。灰原は本能的に横へ跳んだ。直後、さっきまで立っていた場所を鎌状の顎肢が薙ぎ払い、岩盤が抉れて破片が頬をかすめた。

「こっちへ!」

サクラの声に従い、灰原は広間の柱の陰に転がり込んだ。サクラもすでに柱の反対側に身を寄せている。甲殻魔獣は突進の勢いのまま壁に激突し、甲殻と石壁がぶつかる轟音が広間を震わせた。数秒の間。方向転換にもたついている。

「逃走経路は」

「ない。この広間は袋小路に近い構造です。通路は——あの魔獣の背後に一本だけ」

サクラの声は震えていたが、情報は正確だった。灰原は柱の影から顔を出し、甲殻魔獣との距離を測った。約十五メートル。六本の脚が岩盤を掻き、体の向きを変え始めている。

「戦うしかない、ってことか」

「無茶です。Bランク相当の甲殻は、Dランクの攻撃術師でも正面からは——」

「分かってる」

灰原はナイフを握り直した。刃渡り十五センチの安物。スライムの核を砕くための道具だ。目の前の怪物の装甲は、見ただけで分かる。この刃では表面に傷ひとつつかない。

甲殻魔獣が向き直った。六つの赤い複眼がこちらを捉え、口元の顎肢がかちかちと鳴る。二撃目が来る。灰原の脳裏に妹の顔が浮かんだ。ベッドの上で笑うヒナ。「辛かったら、辞めてもいいんだよ」——辞めるどころか、ここで死んだらあの子はどうなる。

甲殻魔獣が突進の姿勢を取った。六本の脚が同時に岩盤を蹴ろうとしている。

——死にたくない。

その感情が脳を灼いた瞬間、灰原の視界が変わった。

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最初は、目の錯覚だと思った。

視界の右端に、半透明のウィンドウが浮かんでいた。薄い青緑色の光で縁取られた矩形の表示領域。そこに文字が流れ始めている。灰原が知らない文字——ではなく、日本語だった。ただし表示速度が尋常ではなく、情報が滝のように流れ落ちていく。

『対象捕捉——種別:甲殻魔獣〈アーマーシェル〉 危険度:B 全長:3.2m 重量推定:1,400kg——解析開始』

灰原は目を見開いた。ウィンドウは瞬きしても消えない。頭を振っても、視線を動かしても、視界の端に張りついたまま情報を吐き出し続けている。

甲殻魔獣が突進してきた。灰原は柱の反対側に飛び退いた。巨体が柱に激突し、石柱にひびが走る。その衝撃の最中にも、ウィンドウは止まらなかった。

『甲殻硬度分析中——背甲:侵徹不可 側甲:侵徹不可 顎肢基部:侵徹不可——』

全部駄目じゃないか。灰原は歯を食いしばりながら次の柱へ走った。甲殻魔獣の顎肢が背後の空気を裂く音が聞こえる。

「灰原さん、持って!」

サクラの手が光った。緑色の燐光が灰原の体を包み、鈍かった足が一瞬軽くなる。身体強化——回復術師の補助魔法だ。ただし効果は微弱で、Eランクの身体能力を多少底上げする程度にすぎない。

だが、その数秒で灰原は柱の影に滑り込めた。甲殻魔獣の突進が空を切り、苛立ったように顎肢を打ち鳴らす。

ウィンドウの表示が変化していた。

『——腹甲解析中 甲殻構成:ite化石灰層(89%�ite化率)——部分例外検出』

灰原の目が、その一行に吸い寄せられた。

『腹甲・第三関節 内側0.5cm——未ite化部位 硬度:E相当 推定侵徹可能』

息が止まった。

腹甲の第三関節。内側〇・五センチ。灰原はウィンドウの情報を読みながら、甲殻魔獣の腹部を見た。六本の脚の付け根付近、暗褐色の甲殻が重なり合う関節部。その隙間に——確かに、色の違う箇所がある。周囲の甲殻より僅かに薄い、灰白色の点。通常の角度からは脚に隠れて見えない位置だ。

「サクラさん」

灰原の声に、サクラが柱の陰から顔を出した。

「腹に弱点がある。脚の付け根、第三関節の内側。そこだけ殻が薄い」

「えっ——どうしてそれを」

「説明は後で。あそこにナイフが届けば、たぶん通る。でも俺一人じゃあの腹の下に潜り込めない」

サクラの目が揺れた。恐怖と、何かを量る光が交互に走る。だが数秒後、彼女は頷いた。

「私が引きつけます。『翠盾』で正面から注意を引くので、その間に——」

「いや、逆だ」

灰原はかぶりを振った。

「俺が囮になる。あいつが俺を追って体を傾けたとき、腹の関節が開く。そのタイミングで、俺がナイフを入れる。だからサクラさんは、俺が突っ込む瞬間にもう一度さっきの身体強化をかけてほしい」

無茶な作戦だった。Eランクの人間が囮を兼ねて懐に飛び込む。失敗すれば即死だ。だがウィンドウの情報が正しければ、あの一点だけはこの安物のナイフでも届く。

サクラが唇を引き結び、両手に緑の光を灯した。

「合図をください」

灰原は柱の影から飛び出した。

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甲殻魔獣の複眼が灰原を追った。灰原はまっすぐ走らず、弧を描くようにして魔獣の側面に回り込む。六本の脚が方向転換し、巨体が灰原に向き直った。

ウィンドウが刻々と情報を更新していく。甲殻魔獣の重心移動、脚の運び方、次の攻撃が来るタイミング。そのすべてが半透明の文字で視界に重なっている。情報量は膨大だったが、灰原は不思議と混乱しなかった。五年間、毎日同じ魔物を観察し続けてきた目が、この情報の読み方を知っていた。

顎肢が振り下ろされた。灰原は半歩だけ横にずれた。ウィンドウが示した攻撃範囲の、ぎりぎり外側。顎肢の先端が足元の岩盤を砕き、破片が脛を打つ。痛い。だが致命傷ではない。

甲殻魔獣が苛立ちに身をよじった。その動作で、六本の脚のうち右前脚と右中脚が一瞬開いた。腹甲の第三関節が——見えた。灰白色の未硬化部位。爪の先ほどの大きさしかない。

「今!」

灰原が叫んだ。

サクラの魔法が背中を押した。緑色の光が筋肉に染み込み、一瞬だけ——ほんの一、二秒だけ、体がまともに動いた。灰原は地面を蹴り、甲殻魔獣の懐に飛び込んだ。

腹甲が頭上に迫る。暗褐色の殻が視界を覆い、獣の熱と鉄錆の匂いが鼻を突く。脚の一本が灰原を払おうと振られたが、ウィンドウが表示した軌道の内側に体を捩じ込んだ。

第三関節。内側〇・五センチ。

灰原はナイフを逆手に持ち替え、突き上げた。刃先が灰白色の点に触れた瞬間、予想もしなかった手応えが返ってきた。硬い甲殻ではない。ナイフが抵抗なく沈んでいく感触。刃渡り十五センチの安物が、柄の根元まで魔獣の体内に吸い込まれた。

甲殻魔獣が絶叫した。六つの複眼が一斉に明滅し、六本の脚が痙攣するように踏み鳴らされる。灰原は柄を掴んだまま引き抜こうとしたが、その前に魔獣の体が大きく傾いた。灰原は弾き飛ばされ、岩盤の上を転がった。

背中と肩を強かに打ちつけ、息が詰まる。視界の隅でサクラが駆け寄ってくるのが見えた。回復の緑光が灰原の体に注がれる。だが灰原の目は、甲殻魔獣を見ていた。

三メートルの巨体が、揺れていた。六本の脚が一本ずつ力を失い、膝から折れるように沈んでいく。甲殻の継ぎ目から噴き出していた蒸気が勢いを失い、複眼の赤い光が明滅を繰り返したのち——消えた。

轟音を立てて、甲殻魔獣が倒れた。広間の岩盤が揺れ、琥珀色の発光鉱石が何粒か天井から落ちてきた。

灰原は仰向けのまま、天井を見上げていた。全身が痛かった。右手の皮が破れて血が滲んでいる。ナイフを握りしめすぎたのだ。呼吸が荒く、心臓がまだ暴れている。

隣にサクラがしゃがみ込み、灰原の右手に回復術をかけていた。緑色の光が傷口を塞いでいく。

「……倒した、んですか」

サクラの声が震えていた。

灰原は体を起こし、甲殻魔獣の残骸を見た。巨体はすでに魔力分解を始めており、甲殻の隙間から淡い光が漏れ出している。やがて体が崩れ、後に残ったのは暗褐色の大きな魔石と、数枚の甲殻片だった。

Bランク相当の魔獣素材。これだけで灰原の月収を超える価値がある。

だが灰原の目は、素材ではなく別のものに向いていた。

視界の右端で、あの半透明のウィンドウがまだ点灯している。甲殻魔獣の戦闘データが消え、代わりに小さな文字列が一行だけ表示されていた。

『解析率:12%』

十二パーセント。あれだけの情報を引き出して、まだ十二パーセント。灰原はその数字を見つめたまま、動けなかった。

「灰原さん、その……さっき言っていた弱点のこと」

サクラが灰原の横に座り、こちらを見ている。

「どうして分かったんですか。甲殻魔獣の未硬化部位なんて、Bランクハンターの報告書にも載っていない情報です」

灰原は答えられなかった。自分でも分からない。視界に浮かぶこのウィンドウが何なのか。なぜ突然現れたのか。そしてこの「解析率」という数字が、何を意味しているのか。

ウィンドウの隅で、「12%」の表示がゆっくりと点滅していた。まるで、先を促すように。

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