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万象図鑑の最底辺ハンター

第2話 第2話

第2話

第2話

第3層への階段は、第1層とは明らかに空気が違った。

発光鉱石の青白い光は変わらないが、その密度が薄い。通路の幅も狭くなり、天井が低く圧迫感がある。壁面の石材には細かなひび割れが走り、そこから染み出す水滴が足元に小さな水溜まりを作っていた。灰原は安物のナイフを右手に握り、左手でヘッドライトの角度を調整した。

第2層までは問題なかった。顔見知りのスライムやコボルドを避けながら、最短ルートで降りてきた。第1層を五年間歩き続けた灰原にとって、第2層はその延長線上にある。地図が頭に入っている。だが第3層は違う。二年前に「鉄槌の牙」と来たときは、常に隊列の後方にいた。自分の足で道を選んだことがない。

第3層の入口は、幅三メートルほどのアーチ状の門だった。門の両脇に刻まれた紋様は風化して判読できない。灰原は一歩踏み入れ、立ち止まった。

匂いが変わった。苔の湿り気に混じって、獣の体臭のような重い匂いが微かに漂っている。第1層にはない匂いだ。灰原の背筋に冷たいものが走った。

「……行くしかない」

三万八千円。ヒナの治療費。それだけを頭の中で繰り返し、灰原は暗い通路に足を踏み入れた。

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最初の遭遇は、入口から二百メートルほど進んだ地点だった。

通路の曲がり角の向こうから、ぴちゃり、ぴちゃりと粘液質の音が聞こえてくる。灰原は壁に背をつけ、慎重に角を覗いた。スライムだ。だが第1層の個体より二回りほど大きく、体色が緑ではなく暗い紫をしている。第3層の亜種——酸性スライム。触れると皮膚を溶かす粘液を持つが、核の位置は通常種と同じだ。

灰原はナイフを構え、一気に踏み込んだ。核の位置を見極め、刺突する。手応えは通常種より硬い。だが二撃目で核が砕け、スライムが崩壊した。酸性の粘液が床に広がり、石材がじゅう、と音を立てて僅かに溶ける。灰原は素早く後退し、粘液が乾くのを待ってから魔石を回収した。

「やれる」

小さく呟いた。五年間、同じ動作を繰り返してきた。相手が少し大きくなっただけで、本質は変わらない。

その後も灰原は慎重に第3層を進んだ。酸性スライムを四体、小型の牙狼を二体。牙狼は第1層には出現しない魔獣だったが、動きのパターンは事前にギルドの資料で確認していた。正面から来る突進を横に躱し、着地の隙に首元を斬る。教科書通りの対処法だが、教科書通りにやれるだけの経験は五年間で積んでいた。

問題は体力だった。第1層のスライムと違い、第3層の魔物は一体あたりの処理に時間がかかる。六体を倒した時点で、灰原の呼吸は荒くなり、ナイフを持つ右手に鈍い疲労感が溜まっていた。

依頼書に記された掃討エリアは、第3層の東側区画だ。地図によれば、あと三つ通路を抜ければ到着する。灰原は壁にもたれて水を一口飲み、呼吸を整えてから再び歩き始めた。

東側区画の入口に差しかかったとき、灰原は足を止めた。

床が揺れている。

最初は自分の疲労のせいかと思った。だが壁に手を当てると、石材が微かに振動しているのが分かった。細かく、断続的に。まるで地下深くで何かが動いているような——

足元の石畳にひびが走った。

灰原が反応するより早く、床が崩れた。石材が砕け、粉塵が舞い上がり、足場が一瞬にして消失した。灰原の体は重力に引かれ、暗闇の中に落ちていった。

叫び声は出なかった。出す余裕がなかった。視界を埋め尽くす瓦礫と粉塵の中で、灰原にできたのはナイフを手放さないことだけだった。体が壁面に叩きつけられ、弾かれ、再び落下する。何層分落ちているのか分からない。発光鉱石の青い光が、断続的に視界を横切っては消えた。三回、四回、五回——。

一つ上の層から、別の悲鳴が聞こえた。灰原だけではない。他にも巻き込まれた人間がいる。

落下の途中で、何かが灰原の腕を掴んだ。細い指。人間の手だ。灰原が目を開けると、粉塵の向こうに白いローブの人影が見えた。長い黒髪が重力に逆らって舞い上がっている。その人物——若い女性が、落下しながら片手で灰原の腕を握り、もう片方の手で空中に紋様を描いていた。

「——『翠盾』!」

女性の声が粉塵を切り裂いた。淡い緑色の光が二人を包み込み、半透明の膜が体の周囲に形成された。防護術。灰原はその名前を知っていた。回復術師が使う基礎防御魔法だ。

衝撃が来た。地面に叩きつけられる一瞬前に、緑色の膜が体を包んで衝撃を吸収した。それでも内臓が揺さぶられるような激しい衝撃が全身を貫き、灰原の意識が一瞬白く飛んだ。

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「——聞こえますか。聞こえますか」

声が遠くから近づいてくる。灰原は目を開けた。背中の下に硬い岩盤の感触がある。視界がぼやけ、粉塵がまだ空中に漂っていた。体のあちこちが痛むが、骨が折れている感覚はない。

「よかった、意識がある」

灰原の顔を覗き込んでいたのは、さきほどの女性だった。白いローブに回復術師の紋章。年齢は灰原と同じくらいか、少し若いか。黒髪が頬にかかり、額に薄く汗が滲んでいる。その目が灰原を見つめていた。安堵と、緊張が入り混じった目だ。

「あなた、怪我は——」

「大丈夫、だと思う」

灰原は上体を起こした。全身が軋むように痛むが、動ける。ナイフはまだ右手に握っていた。

「あの防護術で助かった。ありがとう」

「お礼は後で。今は状況を確認しないと」

女性は立ち上がり、周囲を見回した。灰原もそれに倣い、自分たちが落ちた場所を観察した。

広い空間だった。天井が見えないほど高く、発光鉱石の光が遠くでぼんやりと揺れている。だがその光の色が違った。第1層から第3層までの青白い光ではなく、深い琥珀色をしている。壁面の石材も明らかに異質だった。黒みがかった岩肌に、銀色の鉱脈が蜘蛛の巣のように走っている。空気は冷たく乾燥しており、微かに鉄錆の匂いがした。

「ここ、何層ですか」

灰原の問いに、女性が壁面の標識を指差した。ダンジョン管理局が各層に設置している階層表示板。灰原はその数字を読み、言葉を失った。

「12」

第12層。灰原がいたのは第3層だ。九層分、一気に落ちたことになる。第12層はCランクハンターの活動領域で、Bランク相当の魔物が出現する階層だ。Eランクの灰原にとっては、本来足を踏み入れることすら許可されていない深さだった。

「私は千歳サクラ。Dランクの回復術師です」

女性が名乗った。灰原も名前を返した。

「灰原ユウ。Eランク」

サクラの表情が一瞬強張った。それはそうだろう。Eランクハンターが第12層にいるなど、冗談にもならない。

「崩落の規模が大きすぎる。戻るルートは——」

サクラが天井を見上げた。二人が落ちてきた穴は、高さ十数メートルの位置に暗い口を開けている。登攀用の装備はない。仮にあったとしても、崩落した層を逆に登るのは自殺行為だ。

「管理局の救助が来るまで、ここで待つしかない。ただ——」

サクラが言葉を切った。灰原もそれに気づいていた。

足元から、振動が伝わってくる。先ほどの崩落とは違う、規則的な振動。何かが近づいてきている。重い。とても重い何かが、この広間に向かって歩いてきている。

通路の奥から音が聞こえた。硬いものが岩盤を叩く音。甲殻がぶつかり合う、がちがちという乾いた音。そして低い、唸るような呼吸音。

琥珀色の光の中に、影が浮かび上がった。

灰原の知識にある魔物ではなかった。全長三メートル超。全身が暗褐色の甲殻に覆われ、六本の脚が岩盤を踏みしめている。頭部には三対の複眼が赤く光り、口元からは二本の鎌状の顎肢が突き出していた。甲殻の継ぎ目から、薄く蒸気のようなものが漏れ出している。

サクラが息を呑んだ。

「甲殻魔獣……Bランク相当。この階層の主種です」

灰原の手の中で、ナイフが震えていた。それが自分の手の震えだと気づくのに、数秒かかった。Bランク相当。Dランクパーティが万全の準備を整えて、ようやく戦える相手。Eランクのナイフ一本で斬れる装甲ではない。

甲殻魔獣の複眼が、灰原とサクラを捉えた。低い唸りが広間に反響し、六本の脚が岩盤を蹴って加速の姿勢に入った。

逃げ場はなかった。

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