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万象図鑑の最底辺ハンター

第1話 第1話

第1話

第1話

今日もまた、嗤われる朝が来た。

灰原ユウはギルド受付ホールの隅で、掲示板に貼り出された依頼票を眺めていた。朝八時。ハンターギルド東京第七支部のロビーには、すでに二十人ほどのハンターが集まり、それぞれの依頼を品定めしている。革鎧の擦れる音、武器同士がぶつかる金属音、誰かが上げた笑い声。その雑踏の中で、灰原の立つ一角だけが妙に空いていた。

半径二メートル。見えない壁のように、誰も近寄らない。

「Eランク掃討、第1層スライム駆除。報酬三千二百円」

灰原は依頼票を一枚剥がし、受付カウンターに向かった。カウンターの向こうに座る受付職員——二十代半ばの女性が、灰原のハンターカードを端末に通した瞬間、かすかに眉を動かした。

「灰原ユウさん。Eランク、登録五年目ですね」

事実を読み上げただけだ。だが声に滲む色が、灰原には分かる。困惑でも同情でもない。呆れだ。五年間Eランクのまま、一度も昇格していないハンター。端末の画面にはそう表示されているはずだった。

「依頼受注、処理しますね」

受付職員の声は丁寧だった。だがカウンター横のベンチに座っていた二人組のハンターが、聞こえよがしに口を開いた。

「おい、今日も万年Eランクが来てるぞ」

「まだやってたんだ。スライム専門の灰原さん」

笑い声。灰原は振り向かなかった。肩に食い込む安物のショルダーバッグの紐を握り直し、受付職員から依頼書を受け取る。ありがとうございます、と頭を下げて踵を返した。

ロビーを横切る十数歩の間に、視界の端で何人かがこちらを見ているのが分かった。哀れみ、嘲笑、無関心。どれも五年かけて見慣れた色だった。

ギルドの正面扉を押し開けると、四月の朝の空気が頬を打った。排気ガスと、どこかの店のコーヒーの匂い。灰原は深く息を吸い、ダンジョンゲートが設置された地下鉄駅へ向かって歩き始めた。

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東京第七ダンジョン、第1層。

地下に降りた瞬間、空気が変わる。地上の排気ガスとアスファルトの熱気が消え、代わりにひんやりとした石壁の冷気と、微かな苔の湿り気が鼻腔を満たした。天井には発光鉱石が埋め込まれ、薄青い光がぼんやりと通路を照らしている。

第1層。初心者用の最下層。ここで狩れる魔物はスライムと小型コボルドくらいで、素材の買取価格も底値だ。それでも灰原にとっては、五年間通い詰めた職場のようなものだった。

壁の染みの位置まで覚えている。三つ目の分岐を左、突き当たりを右。スライムの出現ポイントは十二箇所。効率よく巡回すれば、四時間で日当分の素材が手に入る。

最初のスライムは、通路の窪みに溜まっていた。半透明の緑色をした粘体が、ゆるゆると蠢いている。灰原は腰のホルスターから安物のナイフを抜いた。刃渡り十五センチ、ギルドの量販モデル。切れ味は悪くないが、Dランク以上の魔物には歯が立たない代物だ。

スライムの核は体の中心からやや上。灰原はそれを知っている。五年も同じ相手と向き合っていれば、教科書に書いていないことまで体が覚える。

一歩踏み込み、ナイフを突き入れる。ぷちり、という手応え。スライムが弾けるように液状化し、床に小さな魔石が転がった。

これを一日に三十体。それが灰原の日常だった。

かつては違った。二年前まではパーティに所属していた。「鉄槌の牙」——Dランクパーティで、灰原は荷物持ち兼囮役だった。前衛が削った魔物のトドメを任されることもあったが、ほとんどの時間は後方で荷物を担いでいた。

追放されたのは、第5層の討伐任務でパーティが危機に陥ったときだ。

リーダーの鷹城が中型魔獣の不意打ちを受け、灰原に援護を求めた。灰原は動けなかった。恐怖ではない。どう動けばいいのか、分からなかったのだ。戦い方を、誰にも教わったことがなかった。

「足手まとい」。鷹城はそう言った。「お前がいると、俺たちが死ぬ」

否定できなかった。事実だったからだ。

あれから二年。灰原は一人で第1層を巡回し続けている。日当は約八千円。ハンターとしては最底辺の稼ぎだが、一般のアルバイトよりはましだ。そしてこの金が、灰原にとっては全てだった。

四時間の狩りを終え、ギルドの買取窓口で素材を換金する。八千四百円。今日は少しだけ多い。灰原はその金を財布にしまい、ダンジョンゲートを出て地上に戻った。

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病室の扉を開けると、消毒液の匂いの奥から、かすかに花の香りがした。窓辺に置かれた小さな鉢植え。ナースステーションの誰かがくれたものだ。

「おかえり、お兄ちゃん」

ベッドの上で、灰原ヒナが笑った。十四歳。灰原より六つ下の妹は、二年前から原因不明の魔力浸食症でこの病室にいる。ダンジョン出現以降に確認された新しい病で、治療法は確立されていない。唯一有効とされるのが高位の回復術師による魔力洗浄だが、一回の施術費は百二十万円。保険適用外。

「今日はどうだった?」

「いつも通り。スライム三十二体」

「新記録?」

「二体多いだけだ」

ヒナはくすりと笑った。灰原はパイプ椅子に座り、持ってきたプリンをサイドテーブルに置いた。ヒナの好物だ。本当は果物を買いたかったが、季節の果物は高い。

「ねえ、お兄ちゃん」

「なんだ」

「辛かったら、辞めてもいいんだよ」

ヒナの声はいつも通り穏やかだったが、その目は灰原の顔をじっと見ていた。灰原の手の甲にある小さな切り傷。スライムの核を取り出すときについたものだが、ヒナには分かるのだろう。兄が毎日、地下で何をしているか。

「辞めない」

灰原は短く答えた。

「でも——」

「ヒナ」

灰原はプリンの蓋を開け、スプーンを差し出した。

「次の魔力洗浄の予約、来月取れるって先生が言ってた。あと四回分、俺が稼げばいい」

四回分。四百八十万円。今の日当では二年近くかかる計算だ。ヒナもそれを分かっている。分かっていて、何も言わなかった。ただプリンを受け取り、小さく「ありがとう」と言った。

灰原は窓の外を見た。夕焼けが病室を橙色に染めている。ここから見えるビルの谷間に、ダンジョンゲートの青い光がかすかに見えた。

五年間、一度もランクが上がらない。才能がないことは分かっている。固有スキルもない。戦闘センスもない。それでも——

「俺がやらなきゃ、誰がやるんだよ」

声に出したつもりはなかった。だがヒナが顔を上げ、灰原を見た。灰原は気づかないふりをして立ち上がり、「また明日来る」とだけ言って病室を出た。

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翌朝。灰原がギルドのロビーに入ると、掲示板の前に人だかりができていた。

新しい依頼票が一枚、目立つ位置に貼り出されている。赤い縁取り——通常より報酬が高い特別依頼の印だった。灰原は人垣の隙間から、その文面を読んだ。

「第3層掃討任務。近日確認された異常発生源の調査を兼ねる。ランク制限:Eランク以上可。報酬:三万八千円」

三万八千円。灰原の通常日当の四倍以上だ。

周囲のハンターたちがざわめいている。Eランク可の依頼にしては報酬が高すぎる、何か裏があるんじゃないか、第3層で異常発生源なんて聞いたことがない——。

灰原の目は報酬額に釘付けになっていた。三万八千円。これが四回あれば、ヒナの魔力洗浄一回分になる。

手が伸びていた。依頼票を掴み、剥がす。周囲の視線が集まるのを感じたが、灰原は構わず受付カウンターに向かった。

「この依頼、受注します」

受付職員が灰原のカードを見て、一瞬だけ口を開きかけた。何か言いたげな表情。だがすぐに端末を操作し、依頼書を発行した。

「お気をつけて」

その声に、いつもの呆れた色はなかった。

灰原は依頼書を折りたたみ、ポケットにしまった。第3層。これまでの第1層とは違う。二年前、「鉄槌の牙」と一緒に何度か足を踏み入れたことはあるが、ソロでは初めてだ。

だが報酬が必要だった。ヒナのために。それだけで、足は動く。

ロビーを出る灰原の背中を、誰かが見ていた。カウンター奥のモニターに映る灰原のハンターカード情報——固有スキル:なし、ランク昇格履歴:なし、パーティ所属:なし。その画面を眺めていた人物が、小さく呟いた。

「第3層掃討任務に、Eランクソロか」

その声に含まれていたのは、嘲笑ではなかった。

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