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図鑑狂いの追放記録係

第3話 第3話

第3話

第3話

結晶の獣が跳んだ。

 思考より先に体が動いた。六年間、前線の後ろで魔物の初動を観察し続けた経験が、ノアの足を横に弾かせた。結晶の体が通路の壁に激突し、岩盤が砕ける轟音が空間を震わせた。壁に埋まった魔導管が数本断裂し、青白い液体が霧のように散った。微細な飛沫が鼻腔を刺し、鉄錆に似た異臭が喉の奥に張りついた。獣が着地した衝撃で砕けた岩片が頬を掠め、熱い線が走る。松明を取り落とした。炎が地面で跳ね、明滅する視界の中で結晶の体表が虹色に閃いた。

 狼だ。体型の比率から犬科の骨格構造。だが頭蓋を覆う結晶が角のように隆起し、顎関節の可動域が通常の狼より明らかに広い。開いた口腔の奥に歯はなく、代わりに結晶の鋭い突起が乱杭のように並んでいた。その全てが、ノアの頭の中で自動的に観察データとして整理されていく。

 逃げろ。

 体が命じるまま、ノアは通路を走った。松明は諦めた。ノートの燐光だけが足元を照らしている。背後で爪が岩を抉る音。四足の走行リズム。一歩ごとに結晶が地面を叩く硬質な打撃音が追ってくる。速い。直線なら三秒で追いつかれる。

 通路の屈曲に体をねじ込んだ。結晶の狼が曲がりきれず壁に突っ込む衝撃音。岩壁の破片が背中に降り注ぐ。痛みを無視して走る。だが頭の別の場所が冷静に記録していた。曲がり角で減速する。直線加速型。旋回性能が低い。体表の結晶が重い。重心が高く、急な方向転換に対応できない。

 二つ目の屈曲を曲がりながら、ノアは壁の魔導管に手を伸ばした。白い管を掴み、体重をかけて引き剥がす。管の中を流れていた青白い液体が手首を濡らした。ぬるく、粘性がある。魔導管の断面から液体が床に広がり、結晶の狼がその上に踏み込んだ。

 一瞬、爪が滑った。それだけで二歩分の距離が開いた。

 だが逃げ切れない。通路はやがて先ほどの広間に戻る。堂々巡りだ。戦闘力のない自分に、この魔物を倒す手段はない。知識もない。知識がなければ——

 走りながら、ノアは胸元のノートを開いた。さっき浮かび始めていた青白い文字。まだ途中だった。輪郭線が描きかけのまま止まっている。

「足りない」

 息を切らしながら呟いた。ノートが生成しようとしている情報が、完成していない。観察データが不足しているのだ。

 三つ目の屈曲を曲がった。獣が壁に激突する音。その隙にノアは足を止め、振り返った。呼吸を二つ、整える間もなく結晶の狼が通路の闇から飛び出してきた。魔導管の光に照らされた体が虹色に裂けた。

 ノアはその姿を、見た。

 走行時の前肢の着地順序。右前、左前、右後、左後。結晶の隆起が最も薄い部位は腹部の正中線。跳躍時に後肢が地面を蹴る角度。結晶の継ぎ目に走る黒い線——あれは隙間だ。関節部の結晶が完全に噛み合っていない。首の付け根、左の肩甲骨の裏側、後肢の膝関節。三箇所。

 見ながら走り、走りながら見た。頭が記録装置になっていた。恐怖は消えない。心臓は破裂しそうなほど打ち、足は痙攣の予兆を訴えている。だがペンを持つ手だけが、ノアの意思とは無関係に動いていた。

 走りながら書いた。文字ではなかった。記号と線。結晶の狼の骨格図を、揺れる視界の中で描いた。関節部の隙間の位置に印をつけ、結晶の厚さの差を矢印で示した。殴り書きの、乱雑な、だが六年間の蓄積が支える正確さで。

 ペン先が紙を離れた瞬間、ノートが震えた。

 ノアの殴り書きの隣に、新しい頁が生まれた。紙が存在しなかった場所に、薄い光の層が挿入されるようにして一枚の頁が出現した。

 青白い文字が、走った。

 先ほどの途中だった輪郭線が完成し、ノアが描いた骨格図を補完するように内部構造が描き加えられていく。結晶の生成器官が胸腔内にあること。その器官から全身に結晶を供給する脈管が走っていること。そして——

〈結晶供給脈管・収束点〉

 弱点が、浮かんだ。

 左肩甲骨の裏側。ノアが目視で発見した三箇所の隙間の一つと、完全に一致している。ここに集中する脈管を断てば、上半身の結晶再生が停止する。

 ノアは足を止めた。もう逃げ場がなかった。広間に戻っていた。背後に水たまり、正面に通路から飛び出してくる結晶の狼。退路はない。

 鞄の底を探った。依頼装備に含まれていた安物の短剣。刃渡り二十センチ。鉄華団にいた頃から護身用に携帯していたが、戦闘でまともに使ったことは一度もない。握った柄が汗で滑った。握り直す。革巻きの柄が掌に食い込み、指の関節が白くなるほど力を込めた。

 結晶の狼が広間に姿を現した。通路での全力疾走で結晶の一部が剥落し、右前肢の関節が僅かに軋んでいる。光点の双眸がノアを捉え、低い唸りが水面を震わせた。

 来る。

 獣が跳んだ。ノアの目が、その跳躍の軌道を読んでいた。右前肢で踏み切り、左旋回しながらの突進。さっきと同じだ。記録した通りだ。

 体が反応するより先に、頭が指示を出した。左に半歩。獣の結晶の顎がノアの右肩を掠め、鎧代わりの厚手の外套が裂けた。結晶の破片が飛び散り、頬に刺さる鋭い痛み。だがノアの目は獣の体表を追っていた。跳躍の着地で、一瞬だけ左前肢が伸びきる。肩甲骨が浮く。裏側の隙間が、開く。

 今。

 短剣を突き出した。技術はない。型もない。ただノートに記された一点を、まっすぐに狙っただけだ。安物の刃が結晶の隙間に沈み、その奥の脈管に触れた瞬間、手首に伝わったのは硬い感触ではなかった。温かく、柔らかい何かが切れる抵抗。生き物の内側を裂いている、という実感が腕を伝って背筋に走った。獣の体から結晶が剥落し始めた。上半身の表面を覆っていた透明な鎧が、白濁し、罅割れ、砕けて床に散った。

 結晶の狼が悲鳴を上げた。鉱石が割れるような、耳の奥を抉る高音だった。剥き出しになった体表は灰色の獣皮で、想像よりずっと痩せていた。肋骨の一本一本が浮き出ている。結晶の鎧に守られながらも、この獣自身はひどく飢えていたのだ。結晶を失った左前肢が崩れ、獣が横倒しになる。

 ノアは短剣を抜き、一歩退いた。手が震えている。全身が震えている。獣はもがき、立ち上がろうとしたが、結晶の再生が始まらなかった。脈管が断たれたことで、上半身の防御が回復しない。数分の間、獣は唸り、もがき、やがて動かなくなった。

 水面の揺れだけが残った。

 ノアは膝から崩れた。短剣が手から滑り落ち、濡れた岩盤に乾いた音を立てた。呼吸が荒い。口の中が乾ききっている。汗が冷え、全身が一気に寒くなった。指先の感覚が遠く、さっき脈管を断った時の柔らかい抵抗だけがいつまでも掌にこびりついていた。

 手の中のノートを見た。

 開かれた頁に、完成した図が載っていた。ノアの殴り書きと、青白い光の文字。二つが重なり合い、一体の魔物の完全な生態記録を形成している。名前の欄だけが空白だった。この魔物には名前がない。図鑑にも、文献にも、どこにも記録されていない。

 ノアは震える指でペンを取り、空白の名前欄に書き込んだ。

 ——結晶狼(クリスタルヴォルフ)。第一号。

 ペン先が紙を離れると、文字が青白く光り、頁に定着した。ノートの燐光が穏やかな明滅に変わる。まるで、満足したかのように。

 ノアは頁を撫でた。自分が書いたのではない図。自分が知らなかった弱点。三百十二種の蓄積が何かの臨界点を超えて、ノートそのものが変質したのか。それとも、最初からこの機能が眠っていたのか。分からない。何も分からない。

 だが一つだけ、確かなことがあった。

 知らない魔物を、知識で倒した。不完全な観察と、ノートが補完した情報で。戦闘力のない記録係が、未知の魔物を単独で仕留めた。

 ノアは倒れた結晶狼に目を向けた。灰色の獣皮の下で、胸腔にあるはずの結晶生成器官がまだ微かに脈打っている。それを、またノートに書き留めた。死後の器官活動、約三分間持続。インクが震えて滲んだが、構わず書いた。

 水たまりの向こう側に、通路がもう一本伸びていた。広間はここで終わりではなかった。魔導管の光が、その奥にも続いている。

 ノアは立ち上がった。膝がまだ笑っている。外套の裂け目から夜気が入り、切り傷が沁みた。それでも、ノートを鞄に戻す手つきだけは丁寧だった。

 奥の通路から、結晶狼とは異なる匂いが流れてきていた。甘い樹液と、焦げた石の匂い。生き物のものではない。植物に近い。だが、この深度に植物が——

 壁の魔導管が、奥に向かって一斉に明るさを増した。まるで道を示すように。

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