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図鑑狂いの追放記録係

第2話 第2話

第2話

第2話

階段は螺旋を描いていた。

 一段ごとに空気の温度が下がる。最初は肌の表面がひんやりとする程度だったが、二十段も降りると吐く息が白く曇り始めた。松明の炎が揺れ、壁に映る影が不規則に伸び縮みした。炎の芯がぱちりと弾けるたびに、微細な火の粉が螺旋の闇に吸い込まれていく。石段の表面は滑らかだったが、踏み面の端に細かな溝が刻まれている。滑り止めだ。誰かが、人の足で降りることを想定して造った階段だった。溝の深さは均一で、摩耗も少ない。使われた期間が短いか、あるいは使った者が極めて少なかったか。どちらにしても、ギルドの測量記録にこの構造物は載っていない。

 ノアは歩数を数えていた。六十二段を過ぎたあたりで、灰の坑道の最深部よりも深い位置に達した計算になる。ギルドの公式記録には、この深度に空間は存在しない。だが足元の石段は途切れる気配がなく、松明の光の先にはまだ闇が続いている。空気の味が変わっていた。坑道の上層にある鉄錆と乾いた土の匂いは消え、代わりに鼻腔の奥を刺す冷たい鉱気が満ちている。舌の上にかすかな金属の味が残った。

 胸に抱えたノートの燐光が、心臓の拍動と同期して明滅していた。温もりは消えない。むしろ深く降りるほど、光は強くなっている。三百十二種の記録が書かれた頁の一枚一枚が、薄い青で縁取られていた。その光に照らされた自分の指が、いつもより白く見えた。冷えのせいか、緊張のせいか。ノアには判別がつかなかった。

 九十段で、階段が終わった。

 松明を掲げる。光が届いたのは、数歩先までだった。その先は壁も天井も見えない。坑道の狭い通路とは根本的に異なる、広大な空間が口を開けていた。闇が固体のような密度を持っている。松明の炎がその境界線で押し返されるように、光の輪郭がくっきりと途切れた。耳を澄ませた。水音はない。風もない。ただ、沈黙の底で何かが響いている気がした。空気そのものの圧力が、鼓膜をかすかに押している。

 足元の感触が変わった。石段の加工面から、天然の岩盤に移った。だが岩の色が違う。灰の坑道の灰褐色ではなく、暗い藍色。表面に微かな光沢がある。ノアは腰を落とし、岩肌に指を触れた。冷たく、硬い。だが指先に伝わるのは鉱石の無機質な感触ではなかった。かすかな振動。脈のように、一定の間隔で岩そのものが震えている。振動は指から手首へ、手首から腕へと伝い上がり、胸骨の裏側で自分の心拍と重なった。不快ではなかった。むしろ奇妙な親密さがあった。それが余計に不気味だった。

 ノアは自分の知識の索引を引いた。脈動する岩盤。魔力が高濃度で浸透した地層に見られる現象だ。ノートの二百三十一頁、魔力汚染地質の項に記録がある。だが、あの記録で扱った濃度とは桁が違った。灰の坑道はDランクの低魔力ダンジョンだ。この振動は、Aランク以上のダンジョン深層でしか観測されない水準を示している。Dランクの坑道の直下に、これほどの魔力密度が眠っている。六年間、その真上を歩いていた。記録を取り、魔物の生態を書き留め、坑道のすべてを知ったつもりでいた。

 立ち上がり、慎重に歩を進めた。松明の光が壁を捉えた。藍色の岩壁に、白い筋が走っている。鍾乳石のような自然物ではない。筋は直線的で、等間隔に枝分かれしていた。何かの根だった。だが、この深度に植物が根を張ることはありえない。光も土壌もない。ノアは壁に松明を近づけ、白い筋の断面を観察した。内部に空洞があり、微かに透き通っている。液体が流れた痕跡。壁の表面に松明の熱が当たると、白い筋の周囲の岩がわずかに滲んだ。水分を含んでいる。この深度で、乾燥していない岩盤。

「……魔導管」

 声が反響した。自分の呟きが、闇の奥まで届いて返ってくる。反響の残り方が長い。音が壁に吸収されず、空間の中を何度も跳ね返っている。この広間は、想像よりもさらに大きい。魔力を循環させるための人工構造物。あるいは、人工に見える天然の魔脈。どちらにしても、灰の坑道の公式記録にはない。

 ノアはノートを開いた。光る頁に新しい情報を書き込む。藍色岩盤、脈動周期約四秒、白色魔導管状構造体、直径約二ミル。ペンを走らせる指先はまだ震えていたが、文字を綴るうちに呼吸が整っていく。書き慣れた作業が、震える指を落ち着かせた。記録することは呼吸と同じだった。未知を前にして、ノアにできる唯一の対処法だった。ペン先がインクを引く微かな音が、沈黙の空間にやけに大きく響いた。

 広間は奥に向かって緩やかに下っていた。天井が少しずつ低くなり、再び通路状の空間に変わる。壁の魔導管が密度を増し、白い筋が網目のように走っている。その一本一本が、微かに脈動していた。管の交差点では光が重なり合い、壁面にぼんやりとした紋様を描いている。規則的なようで、どこか有機的な配置。血管を内側から見たら、こう見えるのかもしれないとノアは思った。

 足を止めたのは、匂いだった。

 坑道の鉄錆とも、階段で感じた古い匂いとも違う。生き物の匂い。湿った毛皮と、獣脂の酸っぱい気配。それが冷たい空気の層を突き破って、一気に鼻腔を満たした。ノアの全身に緊張が走った。背筋の筋肉が勝手に硬直し、握ったペンの軸がきしんだ。六年間の記録係としての経験が、反射的に周囲の情報を拾い始める。足元に散った砂利の乱れ。壁の低い位置についた擦過痕。爪痕ではなく、体側を擦りつけたような幅広の摩耗。何かが、この通路を頻繁に通っている。

 ノアは松明を低くし、足音を殺した。蝙蝠擬きへの対処と同じだ。音と光を抑え、存在を消す。呼吸を浅くする。口で吸い、鼻から細く吐く。壁の擦過痕の高さは腰のあたり。四足歩行の魔物。体高は七十センチ前後。灰の坑道に生息する魔物の中に、このサイズの四足種はいない。知らない魔物。その言葉が頭の中で反復するたびに、指先の冷えが増した。

 通路の先が、ほのかに明るかった。松明の光ではない。壁の魔導管が、ここだけ強く発光している。青白い光が通路の出口を縁取り、その向こうに開けた空間を照らし出していた。

 ノアは通路の壁に背をつけ、出口の縁から顔だけを出した。石壁の冷たさが肩甲骨に染みる。心臓が速い。それを自覚した瞬間、ノートの燐光も速く明滅し始めた。

 広間だった。天井は高く、魔導管の光が星空のように散在している。中央に水たまりがあり、透き通った水が青白く光を反射していた。水面はほとんど静止しているが、ごくわずかに揺れている。岩盤の脈動が水に伝わっているのだ。その水際に、何かがいた。

 四足。体高はノアの見立て通り七十センチほど。だが体表がおかしかった。毛皮でも鱗でもない。全身が、透明な結晶で覆われている。水晶のような、だが水晶よりも複雑な屈折を持つ鉱物質の外殻。光を受けて虹色に分光し、筋肉の動きに合わせて表面が流動する。水を飲んでいた。結晶の顎が水面に触れるたびに、ガラスを爪で弾くような澄んだ音が立った。

 ノアの手が止まった。記録しようとして、ペンが紙に触れたまま動かない。

 三百十二種。六年間で記録した全ての魔物の中に、この生物に該当する記述はなかった。行動パターンも、弱点も、何も持っていない。知識がない。知識がなければ、避けることも逃げることもできない。ノアの武器は剣でも魔法でもなく、常に情報だった。その情報が、今は白紙だった。

 結晶の獣が水面から顔を上げた。水滴が結晶の表面を伝い落ち、光の粒になって散った。眼窩に収まっているのは、眼球ではなく小さな光点だった。それがゆっくりと、通路の方角を向いた。

 ノアの胸元で、ノートが一際強く脈打った。

 開いた頁の、何も書いていない余白に、文字が浮かび始めていた。ノアの筆跡ではない。だがノアの図鑑と同じ書式で、見たこともない魔物の輪郭線が、一画ずつ描かれていく。インクの色はノアが使う黒ではなく、魔導管と同じ青白い光だった。

 結晶の獣の光点が、ノアを捉えた。低い、鉱石同士が擦れるような唸り声が、広間に響いた。

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