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図鑑狂いの追放記録係

第1話 第1話

第1話

第1話

「お前の図鑑メモなんか、誰も読んでない」

 その言葉は、酒場の喧騒の中で妙に澄んでいた。

 ノアは反射的にテーブルの上のノートへ手を伸ばした。革表紙の端がほつれ、背表紙は何度も開いた跡で白く変色している。六年分の手書きの魔物図鑑。三百十二種、すべての行動パターン、弱点、生息域を書き留めたものだ。

 パーティリーダーのガルドが腕を組み、真正面からノアを見下ろしていた。Bランクパーティ「鉄華団」の大剣使い。その背後に、盾士のヴォルク、魔術師のセレナが立っている。三人とも、視線を合わせようとしない。

「六年だぞ」

 自分の声が震えていた。喉の奥が締まり、言葉の端が不格好に裏返った。テーブルに置いた手が白くなるほど拳を握っていることに、自分では気づいていなかった。

「六年分の記録が、全部無意味だったと?」

「無意味とは言ってない」ガルドが片手を振った。「戦えないやつを連れて歩く余裕がなくなったって話だ。Aランク昇格試験が近い。お前も分かるだろ」

 分かる。痛いほど分かる。ノアの戦闘力は、新人冒険者と比べても底辺だった。剣技は形になったことがなく、魔法は初級火球がかろうじて撃てる程度。パーティに在籍できていたのは、記録係として役に立っていたからだ。少なくとも、そう信じていた。

「記録なら、ギルドの公式資料で足りる」セレナが目を逸らしたまま呟いた。「ノアの図鑑は詳しすぎて、読むのに時間がかかるの。実戦では使えない」

 詳しすぎて、使えない。

 その矛盾した言葉が、ノアの胸の奥に沈んだ。六年間、依頼のたびに走り書きし、宿に戻って清書した。眠る時間を削って挿絵を描いた。骨格の構造、鱗の枚数、威嚇時の尾の角度。誰よりも正確に。誰よりも丁寧に。

 けれどそれは、誰にも必要とされていなかった。

 ガルドがギルドカードを差し出した。所属欄の「鉄華団」の文字が、魔力で消去されていた。空白。たった数秒で、六年の居場所が消えた。

「……恨むなよ」

 ガルドの声だけが、少しだけ苦かった。

 ノアはカードを受け取り、革鞄にノートを詰め、酒場を出た。背中に「鉄華団」の笑い声が追いかけてきた。振り返らなかった。振り返ったら、ノートを投げ捨ててしまいそうだった。

 夜風が頬を叩いた。王都の大通りは松明と魔灯の光で明るく、行き交う冒険者たちの鎧がぶつかる金属音が絶えない。その雑踏の中を、ノアは俯いて歩いた。すれ違う誰もが武器を腰に帯び、仲間と肩を並べている。自分だけが、何も持たず、一人だった。

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 辺境の街クレイドルに着いたのは、三日後の昼過ぎだった。

 王都からの乗合馬車で丸二日。残った所持金は銀貨六枚と銅貨の握り。宿を三泊取れば消える額だった。

 石畳の目地から雑草が伸びる、寂れた街だった。冒険者ギルドの支部は大通りに面しているが、看板の塗装が剥がれ、窓硝子が一枚割れたまま板で塞がれている。中に入ると、酒の匂いとカビの匂いが混ざった空気が鼻を突いた。

「仕事を探しているんですが」

 受付の中年女性がノアのギルドカードを一瞥し、鼻で笑った。

「Bランクパーティに所属歴あり、現在フリー。戦闘スキル……記載なし?」

「記録係をしていました。魔物の観察と分析が専門で」

「記録係ね」女性がカードを返した。「うちは辺境よ。戦える冒険者が足りないの。分析だけじゃ、パーティに入れてくれるところはないわ」

 予想はしていた。だが、実際に言われると腹の底が冷える。

 ギルドの掲示板に目を走らせた。依頼の大半はランクC以下のダンジョン探索か魔物駆除。報酬は王都の三分の一。それでも、ソロで受けられる依頼がいくつかあった。

「灰の坑道、ランクD。採掘ダンジョンの定期清掃。報酬は銀貨四枚」

 受付の女性が怪訝な顔をした。

「一人で? 戦えないんでしょう」

「知識で切り抜けます」

「……死んでも自己責任よ」

 ノアは依頼書を剥がし取り、鞄の中のノートを確かめた。三百十二種の記録。灰の坑道に出現する魔物は、索引を引くまでもなく頭に入っている。坑道蟲(マインワーム)、灰色粘体(グレイスライム)、蝙蝠擬き(バットミミック)。いずれもDランク以下。行動パターン、攻撃の予備動作、嫌う鉱石の種類まで、すべてノートの四十七頁から五十二頁に記してある。

 戦闘力がなくても、知っていれば避けられる。避けられれば、死なない。

 六年間、ノアはそうやって生き延びてきた。

 宿の安い部屋を一泊分だけ取り、荷を降ろした。窓の外に、錆びた風見鶏が軋んでいる。ベッドに腰を下ろし、ノートを膝の上に広げた。

 一頁目。六年前、最初に記録した魔物。森棲みの角兎(ホーンラビット)。震える線で描いた耳の形。角の長さを測った数値。走行速度の目測。

 ノアは指先でその頁を撫でた。インクの匂いがかすかに残っている。

「……誰にも読まれなくても」

 声が掠れた。

「俺が、読む」

 ノートを閉じ、鞄に戻した。明日、灰の坑道に潜る。戦えない記録係が、記録だけで食い繋ぐ。それしかない。それだけでいい。

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 翌朝、ノアは街の東門を出て灰の坑道へ向かった。

 坑道の入口は、枯れた丘陵の斜面に穿たれた横穴だった。かつての鉱山を魔力汚染が侵食し、魔物が棲み着いてダンジョン化したものだ。入口の木枠は腐り、支柱が傾いている。冷たい風が奥から吹き出し、土と鉄錆の匂いを運んでくる。

 松明に火を点け、ノアは坑道に足を踏み入れた。

 第一層は予想通りだった。坑道蟲の群れが天井に張り付いているのを、ノートの記録通りに火晶石の粉を撒いて追い払う。灰色粘体は酸性の体液を飛ばしてくるが、攻撃の前に体表が一瞬膨張する癖がある。その膨張を見てから横に避ければ、当たることはない。

 蝙蝠擬きは音に敏感だ。足音を殺し、松明の炎を低くすれば近寄ってこない。ノアは壁に沿って進み、坑道蟲の巣から魔石を三つ回収した。これだけで銀貨一枚にはなる。

 第二層の分岐を左に取り、採掘跡の広間に出た。ここが定期清掃の対象区域だ。灰色粘体を二体処理し、通路の崩落箇所を記録する。依頼の内容はこれで完了だった。

 帰路につこうとした時、足が止まった。

 第二層の最奥、行き止まりのはずの壁。その下部に、拳ほどの隙間が開いている。以前の探索報告書にはなかった亀裂だ。そこから、風が吹いている。冷たく、湿った、坑道の空気とは明らかに異質な風。

 ノアは膝をつき、隙間に顔を近づけた。

 苔の匂いではない。石灰岩の乾いた匂いでもない。甘く、重く、古い。図鑑に記録したどの地質とも違う匂いだった。奥の闇から、微かに水の滴る音が反響している。風は一定の間隔で強弱を繰り返していた。まるで呼吸のように。ノアは無意識にノートを開き、風の周期を数え始めていた。約八秒で強まり、十二秒で弱まる。自然の気流にしては規則的すぎた。

 壁は脆かった。崩落が進んでいたのだろう。ノアが手をかけると、石が砕けて肩幅ほどの穴が開いた。松明を差し入れる。光が届く範囲に、磨かれたような石段が見えた。人工の構造物だ。坑道の粗い岩肌とはまるで違う、滑らかな加工の痕。

 本来、灰の坑道は三層構造のDランクダンジョンだ。それ以上の深層は存在しないと、ギルドの公式記録にも記されている。

 なのに、階段がある。

 ノアは鞄のノートに手を伸ばした。新しい発見を記録する時の、いつもの癖だ。指先が革表紙に触れた瞬間――

 ノートが、淡く光った。

 薄い燐光が革表紙の縁を走り、金具の留め金が微かに震えた。ノアは息を呑み、ノートを鞄から引き出した。光は表紙全体に広がり、頁の断面から青白い筋が漏れている。六年間、一度もこんなことは起きなかった。

 手の中のノートが温かかった。体温とは違う、もっと深いところから湧く熱。心臓の鼓動に合わせるように、光の明滅が脈打っている。ノアは震える指で表紙を開いた。頁に書かれた文字のひとつひとつが、薄く青白い光を帯びていた。三百十二種分の記録が、まるで目覚めたかのように呼吸している。

 冷たい風が穴の奥から吹き上げ、ノアの前髪を揺らした。

 階段の先は暗い。松明の光を呑み込むほどの闇が、深く、遠くまで続いている。既知のダンジョンの気配ではなかった。空気の密度が違う。音の反響が違う。何かが、下で息をしている。

 ノアは光るノートを胸に抱き、最初の一段に足を置いた。

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