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最弱吟遊詩人の戦律

第2話 第2話「進捗どうですかの通知」

第2話

第2話「進捗どうですかの通知」

翌日。ログインした瞬間、受信トレイの通知が目に入った。

『九条さん、進捗どうですか? 第一層攻略ガイドの初稿、来週水曜までにお願いしますね。最低でもレベル10到達+中ボス情報くらいは欲しいです——早瀬』

現実時間で正式サービスから二日目。俺のレベルは、2。中ボスどころかチュートリアルエリアをまだ出られていない。メッセージを閉じて、ステータスを確認する。攻撃力14。昨日レベルが上がって2ポイント増えた。それでもスライムを倒すのに三発かかる事実は変わらない。

「……水曜か」

五日。五日で第一層攻略ガイドの初稿。剣士やバーサーカーなら余裕のスケジュールだ。攻略組は昨日の時点で推奨レベル帯を駆け抜け、中層エリアに到達したと掲示板に報告が上がっている。俺はスライムを殴っている。

とにかくレベルを上げるしかない。広場の端に移動し、スライムの群生地帯に陣取る。ペチン、ペチン、ペチン。三発で一匹。経験値2。次のレベルアップまで72。三十六匹。一匹あたり約四分として、百四十四分。二時間半弱でレベル3。このペースだとレベル10到達は——計算するのをやめた。気が狂う。

黙々と狩りを続ける。リュートの柄が掌に食い込む感触にも慣れてきた。五感再現率98%が、こんなところで効いてくる。単調な打撃を繰り返す手首に鈍い疲労が溜まっていく。周囲のプレイヤーはとっくに広場を卒業していて、スライム狩り場にいるのは俺と、数人の新規プレイヤーだけだった。

十五匹目を倒したあたりで、フレンドリストが光った。

『そっち大丈夫か? 俺らもう第三フロアなんだけど、吟遊詩人ってマジで救済ないのか? 運営に要望出しとくか?——タクヤ』

善意なのはわかる。わかるが、腹の底がじりっと焦げた。第三フロア。同日スタートで、もうそこまで行っているのか。画面の向こうでタクヤが気まずそうにしているのが想像できて、それがまた苛立ちを増幅させた。

『大丈夫。自分のペースでやってる』

送信してから、ペースという言葉の虚しさに気づく。ペースも何も、選択肢がないだけだ。

十八匹目のスライムにリュートを叩きつけた瞬間──また聞こえた。

昨日と同じ、BGMの揺れ。ただし今日は、はっきりしている。広場のBGMのベースラインに、半音下の音が重なっている。和音ではない。ずれだ。チューニングが狂ったギターのような、気持ちの悪い共鳴。他のプレイヤーは反応していない。近くでスライムを蹴り飛ばしている格闘家が鼻歌を歌っている。彼の耳にはいつも通りのBGMしか届いていないのだろう。

〈聴覚強化〉。昨日は偶然かと思った。だが二度目となると、偶然では片づけられない。

俺は戦闘の手を止め、目を閉じた。昨日と同じように、音のレイヤーを一枚ずつ剥がしていく。プレイヤーの足音、剣戟、魔法のエフェクト音、NPC の呼び込み、風の音——雑音を意識の外に押し出すたびに、その「揺れ」が鮮明になる。ゲーム内の集中力を表すパラメータが反応したのか、視界の端にかすかな光の粒子が舞った。パッシブスキルの発動エフェクトだ。

聞こえる。昨日より明瞭に。低く、長く、うねるような旋律。BGMの裏側を這うように流れている。楽譜に起こすなら、変ロ短調。物悲しいのに、どこか引力がある。

そして——方角がある。

昨日はぼんやりと北東だと感じただけだった。今は違う。指向性がある。音源がある。耳を澄ませたまま体の向きを変えると、音量が変わる。正面を北東に向けたとき最大になり、背を向けると減衰する。ゲーム音響の仕様としてはあり得る。だが、BGMに方向性を持たせる設計は聞いたことがない。

「環境音じゃない。これは……配置された音源だ」

ライターの脳が動き出す。ゲーム内に意図的に配置された、通常では聞こえない音源。〈聴覚強化〉を持つプレイヤーだけが検知できる隠し要素。もしそうなら、これは攻略情報として一級品だ。

マップを開く。北東方向——森林エリアを抜けた先に、灰色の未踏破エリアがある。推奨レベル5以上。マップの描画が途切れる崖際。通常の攻略ルートからは完全に外れた場所だ。攻略組が目指す中ボスは北西の要塞エリアにいる。北東には目ぼしいクエストもPOIの表示もない。誰も行く理由がない場所。

だからこそ、行く価値がある。

問題はレベルだ。推奨レベル5のエリアに、レベル2の吟遊詩人が突っ込めば即死する。だが、〈聴覚強化〉でモンスターの位置が音で把握できるなら——足音、ブレス音、翼の羽ばたき。戦わずに避けて通れるルートが見えるかもしれない。

これはギャンブルだ。死ねばリスポーン地点に戻されて時間をロスする。締め切りは迫っている。レベリングに費やすべき時間を、当たるかもわからない隠し要素の調査に使う余裕は本来ない。

だが——スライムをあと百匹殴る未来と、誰も知らない情報を掴む未来。ライターとして、どちらの記事が書きたい?

答えは決まっていた。

メモ帳を開き、現在の座標と音の方向を記録する。森林エリアの簡易マップに、音の指向性から推測した音源の位置を書き込んだ。直線距離でおよそ六百メートル。エリアの端、崖のすぐ手前。道中にモンスターの巡回ルートが最低三本は交差しているはずだ。

「……行くか」

リュートを背負い直し、広場の北東口に向かう。街灯の光が途切れ、森林エリアの入口が見えてきた。薄暗い木々の間から、推奨レベルの警告表示が赤く浮かんでいる。ここから先は、俺の実力で戦って勝てる敵はいない。

一歩踏み出す。足元の草の質感が変わった。硬い。枯れ葉と砂利の混じった地面。空気の匂いも違う。広場の焼きたてパンの香りは消え、湿った土と苔の匂いが鼻をつく。

耳を開く。

——右前方、四十メートル。重い足音。四足。おそらくウルフ系モンスター。巡回パターンは円形、十五秒周期。

——左方、七十メートル。羽音。鳥型のモブ。高度が低い。地上三メートルあたりを周回している。

——正面、百メートル先。静寂。何もいない。抜け道だ。

歩く。走らない。足音を最小限に抑え、〈聴覚強化〉が拾う情報だけを頼りに、モンスターの隙間を縫っていく。心臓がうるさい。仮想空間の心臓が、現実の鼓動に引きずられるように跳ねている。

途中、二度ほど肝が冷えた。ウルフの巡回ルートが予測と違い、三メートル先を横切ったとき。鳥型モブが急降下して俺の頭上をかすめたとき。だが、どちらも戦闘には入らなかった。モンスターのアグロ範囲ぎりぎりを、音だけで測って歩いた。足が震えている。最弱職の唯一の武器が「耳」だという事実が、いっそ滑稽だった。

二十分かけて、森の奥にたどり着いた。

崖だ。切り立った断崖が、マップの端を示すように南北に走っている。普通ならここで引き返す。見えない壁があるか、落下死するかのどちらかだ。だが、音が止まない。むしろここに来て、旋律は最も強くなっている。崖の下から、まっすぐ上に向かって響いてくる。

崖の縁に立ち、下を覗き込む。十メートルほど下に、岩肌に隠れるようにして——洞窟の入口があった。

マップには表示されていない。攻略サイトにも掲示板にも、この座標の情報は一件もない。人が通った形跡もない。狭い入口は蔦と苔に覆われ、注意して見なければ岩の割れ目にしか見えない。

だが、そこから確かに聞こえる。低く、誘うような旋律。BGMでも環境音でもない、このゲームに「隠された」音。

足場になりそうな岩の出っ張りを目で追う。慎重に降りれば、届く。落ちれば死ぬが、リスポーンするだけだ。

──いや、その前に。

メモ帳を開き、座標を正確に記録した。保険だ。死んでも場所は忘れない。

リュートが背中で揺れる。最弱の武器。だがこの耳がなければ、ここには来られなかった。

崖の下から吹き上げる風が、洞窟の奥の旋律を運んでくる。そこに混じって、かすかに別の音が聞こえた気がした。金属が軋むような、あるいは——何かが、息をしているような。

「さて、と」

足を、崖の縁にかけた。

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