第1話
第1話「スライムに三回死ぬ」
──Loss。
画面中央に無慈悲な赤文字が浮かび、視界が暗転する。三度目の死亡だ。相手はスライム。よりにもよって、チュートリアルエリアのスライム。
俺──九条レンは、仮想空間に仰向けに倒れたまま、天を仰いだ。『Aetheria Online』の空は、正式サービス初日にふさわしい快晴だった。雲ひとつない青空の下で、最弱のプレイヤーが最弱のモブに殺される。笑えない冗談だ。背中に感じる草の感触がやけにリアルで、五感再現率98%という謳い文句が恨めしい。敗北の屈辱まで精密に再現しなくていい。
リスポーン地点に戻される。一瞬の浮遊感のあと、視界が白く弾けて、聞き慣れたファンファーレが耳を叩く。チュートリアル広場は祝祭的な空気に満ちていて、あちこちで歓声が上がっている。石畳の広場には色とりどりの装備を纏ったプレイヤーが溢れ、NPCの露店からは焼き立てのパンの匂いまで漂ってくる。剣士が一撃でゴブリンを斬り伏せ、魔法使いが派手なエフェクトで三体まとめて焼く。炎のエフェクトが頬に熱を感じさせるほど近い。その横を、俺は安っぽいリュートを抱えてとぼとぼ歩いている。
職業──吟遊詩人。
このゲーム最大の「売り」にして最大の地雷。職業はキャラクター作成時にランダム配布、変更不可。リセマラもできない。引いたカードで最後まで戦え、というのが運営の方針らしい。で、俺が引いたのが全職業中最弱と名高い吟遊詩人だった。正式サービス開始前のベータテストでも、吟遊詩人を引いたテスターが公式フォーラムに長文の怨嗟を投稿していたのを覚えている。あのとき他人事だと思って笑った自分を殴りたい。
ステータスを開く。攻撃力12。参考までに、同レベルの剣士は48、バーサーカーは56。防御力は紙。HPに至っては魔法職より低い。吟遊詩人の固有武器「リュート」の通常攻撃は、スライム一匹倒すのに三発必要だ。三発。チュートリアルのスライムに。
通知音。フレンドメッセージだ。
『おい、職業なに引いた?』
送り主は大学の後輩、タクヤ。ゲーム仲間で、今日の正式サービスも一緒に始める約束をしていた。
『吟遊詩人』
三秒の沈黙。メッセージウィンドウの隅で「相手が入力中……」の表示が点滅しては消え、点滅しては消えた。言葉を選んでいるのが手に取るようにわかる。
『リセマラできないの終わってるな』
知ってる。
『俺パラディン引いたわ。タンクだけどまあ当たりの部類。そっちは……ドンマイ』
ドンマイじゃない。俺にはログアウトという選択肢がないのだ。
ゲーム雑誌『NEXT PLAY』──俺がフリーライターとして記事を書いている媒体だ。編集長の早瀬さんから「Aetheria Onlineの攻略記事、初日からお願いね」と依頼されたのが先週。電話越しの声は軽かったが、言外に「他に頼める人いないから」というニュアンスが滲んでいた。原稿料は良い。締め切りは二週間後。正式サービス初日から最低でも第一層クリアまでの攻略ガイドを書く、それが仕事だ。
問題は、攻略記事を書くには自分で攻略しなければならないということ。
「……最弱職の攻略ガイドか」
声に出すと、余計に現実味が増した。広場の喧騒が急に遠くなり、自分の声だけが妙にはっきりと耳に残る。誰が読むんだ、そんな記事。いや、逆にニッチな需要はあるかもしれない。「吟遊詩人でも戦える! 完全攻略ガイド」。タイトルだけは威勢がいい。中身は「スライムに三発殴られて死んだ」から始まる。
だが仕事は仕事だ。
リュートを構え直す。木製のネックを握る手に汗が滲む。仮想空間のくせに、緊張すると手汗まで再現される。広場の端にいるスライムに狙いを定め、通常攻撃。ペチン、という情けない効果音。ダメージ4。スライムのHP12に対して4。あと二発。
ペチン。ダメージ4。残り4。
スライムが反撃してくる。体当たり。ぶよぶよした半透明の体が腹に直撃し、内臓が押されるような鈍い衝撃が走る。ダメージ8。俺のHP32が24に減る。スライムの体当たりのほうが俺の攻撃より痛い。
三発目。ペチン。スライム撃破。経験値2。レベルアップまであと48。
「これを二十四回……」
気が遠くなる。周囲では同じスライムを一撃で沈める剣士たちが、もう次のエリアに向かっている。差は開く一方だ。
黙々と狩る。ペチン、ペチン、ペチン。単調なリュートの打撃音が、まるでメトロノームのように一定のリズムを刻む。三十分でスライムを八匹。経験値16。まだレベル2にもなっていない。指が、というか脳が疲れる。VRMMOの戦闘は全身を使うから、単調な作業でも体力を削られる。額に浮いた汗を拭おうとして、VR空間では意味がないことに気づく。現実の体は自室のゲーミングチェアに座ったまま、きっと同じように汗をかいているのだろう。
九匹目のスライムを追いかけているとき、タクヤからまたメッセージが来た。
『レン、こっちもう洞窟エリア入ったぞ。PTメンバー募集してるけど、吟遊詩人はちょっと……ごめんな』
わかってる。パーティに最弱職を入れる余裕なんて、序盤にはない。足手まといになるのは目に見えている。火力がないだけならまだしも、バフスキルの効果量が微小すぎてパーティ貢献すら怪しい。
『気にすんな。ソロで記事のネタ集めてる』
強がりだ。ソロでまともに戦えないのは身に染みている。だがメッセージウィンドウを閉じた瞬間、喉の奥にざらりとした苦さが残った。一緒に始めるはずだった初日が、こんな形で別れるとは思わなかった。
十匹目。ペチン、ペチン──三発目を振る直前、妙な違和感があった。
BGMだ。
チュートリアル広場にはずっと同じBGMが流れている。軽快なファンタジー調の曲。聞き慣れた、というより聞き飽きた旋律。だが今、ほんの一瞬──ベースラインが揺れた。
半音、いや四分の一音くらいの微かな変化。普通なら聴き逃す。というより、普通のプレイヤーには聞こえないだろう。俺の耳が拾えたのは、学生時代にバンドでベースを弾いていた経験があるからか、それとも──
ステータスを開き直す。スキル欄。通常攻撃、応援歌(バフ微小)、子守歌(スリープ確率低)。どれもゴミスキルだ。だがその下に、パッシブスキルの項目がある。
〈聴覚強化〉──ゲーム内の音響情報の感知範囲と精度が向上する。
今まで気にも留めなかった。戦闘に直結しない、フレーバー程度のパッシブだと思っていた。だけど今、確かに聞こえた。BGMの揺れ。他の誰も反応していない音の変化。広場を見回しても、周囲のプレイヤーは誰一人として足を止めていない。皆それぞれの戦闘や会話に夢中で、この音に気づいた者はいないようだった。
スライムを倒し損ねて反撃を食らう。HP24が16に。慌てて殴り返し、なんとか撃破。
「……なんだ、今の」
もう一度耳を澄ます。目を閉じ、広場の雑踏──金属が打ち合う音、呪文の詠唱、NPCの呼び込み──を意識の外に追いやる。一枚ずつ音のレイヤーを剥がしていくような感覚。その奥に、確かにある。通常のBGMとは異なる低い旋律が、脈拍のように微かに明滅している。広場のBGMは元の旋律に戻っている。気のせいだったのか。いや、確かに聞こえた。ベースラインの揺れ。それも、特定の方角から──北東。マップで確認すると、広場の外れ。森林エリアの手前。推奨レベル5以上。今の俺では即死圏内だ。
だが、気になる。ライターの職業病だ。違和感は記事のネタになる。それに、攻略記事で「他の誰も気づいていない情報」を書けたら、それだけで記事の価値が跳ね上がる。最弱職で真正面から攻略組と競っても勝ち目はない。なら、この耳でしか拾えない情報で勝負するしかないじゃないか。
メモ帳機能を開き、書き込む。
『チュートリアル広場BGM、北東方向から微小な旋律変化あり。パッシブ〈聴覚強化〉で検知? 要検証。推奨Lv帯に注意』
タクヤからのメッセージ通知がまた光る。
『第一層の中ボス情報出始めてるぞ。攻略組はもう先行してる。そっちどう?』
俺はスライムの死骸が消えていく広場を見渡した。レベル1。攻撃力12。最弱職。
『順調。ネタは見つかりそうだ』
嘘ではない。BGMの違和感。〈聴覚強化〉。この最弱職にしか聞こえない何かがある。
北東の森の向こうで、また旋律が揺れた気がした。今度は少しだけ、長く。まるで──何かが、こちらを呼んでいるように。