第1話
第1話「E級、三年変わらぬ」
異能者等級判定の結果が張り出される日は、いつだって地獄だ。
四月の教室。窓から差し込む春の陽光が、廊下の掲示板に貼られた等級一覧表を照らしている。俺——柊真琴は、自分の名前の横に印刷された文字を見つめていた。
E級。
去年と同じ。一昨年と同じ。生まれてからずっと、同じ。
「おい見ろよ、柊またEだってさ」
背後で笑い声が弾ける。振り返らなくても分かる。声の主は隣のクラスの桐生だ。C級の念動力持ち。ペンを浮かせる程度の力だが、この学校ではそれでも「使える側」に分類される。
「微振動だっけ? 指先がちょっと震えるだけのやつ。あれもう異能って呼んでいいのかよ」
桐生の取り巻きがげらげら笑う。俺は掲示板から目を逸らし、鞄を肩にかけ直した。言い返す言葉は持っていない。事実だからだ。
異能者管理法が施行されて十二年。この国では十五歳の時点で全国民の異能を測定し、S級からE級までの等級を付与する。等級は就職、進学、社会的信用のすべてに影響する。S級ともなれば国家機関が直接スカウトに来るし、A級でも大手企業の特別枠が用意される。
E級は——何もない。
無能力者と同じ扱い。いや、無能力者よりたちが悪いかもしれない。「異能があるのに使えない」という烙印は、「そもそも持っていない」よりずっと惨めだ。
俺の異能、微振動(トレモア)。指先に微弱な振動を発生させる。それだけ。判定官は測定器を三回確認した後、気の毒そうな顔で「E級です」と告げた。あの日の母親の、何も言わなかった横顔を、俺は今でも覚えている。
教室に戻ると、席についている楓と目が合った。
「真琴、おはよ。今日プリント出すの忘れないでね、先生怒ってたよ昨日」
楓だけだ。等級の話をしない人間は。
「ああ、分かった」
短く答えて席に着く。楓は俺がE級だと知っている。知っていて、それについて何も言わない。憐れみでも優しさでもなく、ただ興味がないのかもしれない。それが俺にはちょうどいい。
午後の体育は異能実技。C級以上は能力の精度訓練、B級以上は模擬戦闘。E級の俺は見学組だ。グラウンドの端に置かれたパイプ椅子に座って、同級生たちが炎を操り、風を纏い、重力を歪める様子を眺める。
隣に座った楓がペットボトルのお茶を差し出してきた。
「暑いね」
「……ああ」
楓はD級の感応力持ちだ。他人の感情をぼんやりと感じ取る。実技の評価は低いが、俺と違って「応用次第でカウンセラー適性あり」と判定されている。D級でも、道がある。E級には、道すらない。
ぬるいお茶を喉に流し込みながら、グラウンドを見た。桐生がペンではなく拳大の石を浮かせて見せている。周囲から歓声が上がる。
指先が、かすかに震えた。俺の異能。誰にも見えない、誰にも届かない、微振動。
放課後、俺は真っ直ぐバイト先に向かった。
駅前のコンビニ。深夜シフト専門。時給は割増だし、客が少ないから誰とも話さなくていい。店長の岩瀬さんは五十過ぎの元サラリーマンで、俺の等級を知っても「レジ打ちに異能はいらんからな」と笑っただけだった。
「柊くん、今日も頼むよ。冷蔵庫の補充、先にやっちゃって」
「はい」
バックヤードで段ボールを開ける。冷蔵庫の冷気が指先を刺す。ペットボトルを並べ、おにぎりの棚を整え、ホットスナックのケースを拭く。単純作業の繰り返し。だけど、ここにいる間だけは等級も異能も関係ない。ただの高校生のバイトだ。
深夜一時を回ると、客足はほとんど途絶える。蛍光灯の白い光の中、俺はカウンターに頬杖をついて参考書を開いた。異能に頼れない以上、勉強で食っていくしかない。E級でも大学には行ける。異能枠じゃなく、一般枠で。
「お疲れさま、柊くん。戸締まり頼んだよ」
午前三時、岩瀬さんが先に上がる。残りの一時間は俺一人だ。静まり返った店内に、冷蔵庫のモーター音だけが低く響く。
四時きっかりにシャッターを下ろし、裏口から外に出た。四月とはいえ、深夜の空気は肌を刺すほど冷たい。息が白くなりかけるのを見ながら、いつもの裏路地を歩き出す。駅の反対側、住宅街を抜ける近道。街灯が二本に一本の割合で切れていて、暗い道が続く。
——何か、おかしい。
足を止めた。理由は分からない。ただ、首の後ろの産毛が逆立つような感覚。空気の温度が二度ほど下がった気がした。
振り返る。
街灯の光が届かない暗がりの中に、何かが蹲っていた。
犬、ではない。大きさは大型犬ほどだが、輪郭が歪んでいる。影そのものが膨らんだような、形の定まらない黒い塊。そこから、赤い光が二つ——目だ。こちらを見ている。
妖魔。
知識としては知っていた。異能者社会の裏側に存在する、人ならざるもの。霊的エネルギーが凝集して実体化した存在。通常はA級以上の異能者や、専門の退魔機関が対処する。
E級の俺が遭遇していい相手じゃない。
鞄を握りしめたまま、一歩後退った。目を逸らすな。背中を見せるな。異能実技の座学で聞いた、妖魔遭遇時のマニュアルが頭を掠める。ゆっくり後退して距離を取り、管理局に通報——
妖魔が、動いた。
速い。残像すら見えなかった。一瞬で距離が詰まり、腐った肉のような悪臭が鼻を突く。赤い目が眼前にある。口——いや、裂け目だ。黒い塊の表面が裂けて、びっしりと並んだ牙が覗いている。
背中がブロック塀にぶつかった。逃げ場がない。
喉から声が出ない。足が動かない。心臓が壊れるんじゃないかと思うほど激しく打っている。
妖魔が跳んだ。
その瞬間、体が勝手に動いた。考えるより先に、右手が前に突き出されていた。
指先が、震えている。
俺の異能。最弱の、誰にも認められなかった力。微振動。
それが——妖魔の体表に触れた。
指先から伝わる感覚は、想像していたものと全く違った。妖魔の体内に、何かの周波が流れている。鼓動のような、うねりのような。俺の微振動がそれに触れた途端、共鳴が始まった。
びりびりと。骨まで響くような振動が指先から腕を駆け上がってくる。止められない。止め方を知らない。俺の振動が妖魔の内側で増幅していく。
妖魔が、鳴いた。
聞いたことのない音だった。金属を引き裂くような悲鳴。赤い目が大きく見開かれ、黒い体表に亀裂が走る。内側から何かが膨張している。
次の瞬間——破裂した。
黒い飛沫が路地に飛び散った。生暖かい液体が頬にかかる。腐臭が何倍にも濃くなり、胃の中身がせり上がってくる。膝から力が抜けて、アスファルトに手をついた。
指先が、まだ震えている。
自分が何をしたのか、分からなかった。ただ指先を当てただけだ。それだけで、妖魔の内臓が——共振で、破裂した。
吐き気を堪えながら、自分の右手を見つめる。こんな力があったのか。E級の、最弱の、振動するだけの——この指先に。
路地の奥から、煙草の煙の匂いがした。
顔を上げる。街灯の切れた暗がりの中に、人影が一つ。長身の男が壁に背を預けて立っていた。口元で赤い火が明滅する。
「——見てたのかよ」
声が震えた。男は煙を吐き出しながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。革のブーツが水溜まりを踏む音が、妙にはっきり聞こえた。
街灯の光が男の顔を照らす。三十代半ばか。切れ長の目に、頬を横切る古い傷跡。纏っている空気が、今まで会ったどの異能者とも違う。
男が、笑った。
「面白い使い方するじゃねえか——ガキ」
煙草の煙の向こうで、その目だけが笑っていなかった。俺を値踏みするような、あるいは品定めするような、鋭い眼光。
俺は答えられなかった。膝が笑って立ち上がれない。妖魔の残骸が足元で黒い霧になって消えていく。
男が屈み込んで、俺の右手を掴んだ。まだ微かに震えている指先を、まるで精密機器でも検分するように見つめる。
「微振動、だろ。E級の——いや、E級なわけがねえな、こいつは」
男は俺の手を離し、立ち上がった。新しい煙草に火をつけながら、暗い路地の奥を顎でしゃくる。
「来い。話がある」
「……誰だよ、あんた」
やっと絞り出した声に、男は振り返らずに答えた。
「鬼道蓮夜。退魔師だ」
退魔師。聞いたことがない肩書きだった。だが男の背中には、有無を言わせない何かがあった。
立ち上がろうとして、また膝が折れた。指先の震えが止まらない。さっきまで最弱と嗤われていたこの力が、妖魔を内側から食い破った。
嬉しいのか、怖いのか、分からなかった。
ただ一つだけ確かなのは——今夜、何かが変わったということだ。
蓮夜と名乗った男の背中が、路地の闇に溶けていく。俺は震える足で、その後を追った。