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最弱振動の退魔師

第2話 第2話「指先の破裂の感触」

第2話

第2話「指先の破裂の感触」

路地を抜け、線路沿いの細い道に出た。蓮夜の歩幅は大きく、俺は半ば小走りでその背中を追っていた。

右手がまだ震えている。さっきの感触が指先にこびりついて離れない。妖魔の体内で何かが共鳴し、膨張し、弾けた——あの手応え。風船を内側から破裂させたような、生々しい抵抗感。指の腹に残る温度は人間のそれとは違う、粘つくような冷たさだった。何度手を開閉しても消えない。爪の間にまで染み込んだように、その感触が居座っている。

吐き気が込み上げて、電柱に手をついた。視界が揺れる。街灯の橙色の光が滲んで、アスファルトの染みが妖魔の体液に見えた。胃の底がぐらりと傾き、膝に力が入らなくなる。電柱の冷たいコンクリートの感触だけが、辛うじて現実を繋ぎ止めていた。

蓮夜が足を止める。振り返りもせずに、ただ立ち止まった。

「吐くなら吐け。待ってやる」

胃液が喉まで来て、引っ込んだ。唇を袖で拭い、顔を上げる。

「——吐かねえよ」

「そうかよ」

蓮夜は歩き出した。俺もまた、その背中を追う。他に行く場所がなかった。深夜四時半の街に、アスファルトを叩くブーツの音と、俺のスニーカーの足音だけが響いている。閉まったシャッターの商店が並ぶ通りを抜け、信号が永遠に点滅する交差点を渡った。すれ違う人間は一人もいない。世界から俺たちだけが切り離されたような、奇妙な静寂だった。

五分ほど歩いて、蓮夜が足を止めたのは河川敷だった。

欄干の錆びた橋の下。コンクリートの護岸にはスプレーの落書きが重なり、誰かが置いていったビールの空き缶が転がっている。川の匂いがした。泥と水草が混ざった、生臭い湿気。蓮夜は橋脚に背を預けて座り込み、新しい煙草に火をつけた。ライターの火が一瞬だけ蓮夜の横顔を照らし、頬の古い傷跡を浮かび上がらせた。

「座れ」

言われるまま、二メートルほど離れた場所に腰を下ろした。コンクリートが冷たい。川面を渡る風が汗ばんだ首筋を冷やす。

「あんた、何者だよ」

「さっき言った。退魔師だ」

「そんな職業、聞いたことない」

「表にねえからな」

蓮夜が煙を吐く。白い煙が川風に攫われて、すぐに消えた。

「お前が学校で習う異能者ランキング、あれは表の制度だ。管理局が国民を等級で管理して、税金で回してる。だが妖魔ってのは行政の管轄じゃ処理しきれねえ。数が多すぎる。公式発表の十倍は出てる」

「十倍……」

「だから裏がある。管理局が認可しない、登録もされない、だが実質的に妖魔を間引いてる連中。それが退魔師だ。報酬は依頼主からの直接払い。法律の外で動く——まあ、非合法と思ってくれていい」

蓮夜の口調は淡々としていた。世間話でもするように、この国の裏側を語る。

「あんたは、その退魔師のなかで——」

「ランクの話か? 興味ねえな。等級ってのは測定する側の物差しだ。物差しが狂ってりゃ、測定結果も狂う」

蓮夜の目がこちらを向いた。煙草の火が暗闇の中で赤く揺れる。

「お前がいい例だろ。E級の微振動——ガキ、お前さっき自分が何をしたか分かってるか」

「……妖魔に、振動を流した。それだけだ」

「それだけ、ね」

蓮夜は煙草を咥えたまま、足元の小石を拾い上げた。親指と人差し指で摘んで、俺の前に差し出す。

「触れ。さっきと同じことをしろ」

「は?」

「いいから触れ」

言われるまま、小石に指先を当てた。微振動を起こす。いつもと同じ、指先がわずかに震えるだけの——

小石の表面に、細かいひびが入った。

「え」

「もっと」

蓮夜の声に押されて、意識を集中する。振動を強く——いや、違う。強くしたんじゃない。さっき妖魔に触れたときの感覚を思い出す。内側に流れる何かの周波に、自分の振動を合わせる。共鳴させる。

小石が、指の間で砕けた。砂のように崩れて、風に攫われていく。

掌に残った石の粉を見つめた。指先がまだ微かに痺れている。振動を合わせた瞬間、石の内部構造が手に取るように分かった。結晶の並び方、分子の隙間、力が集中する一点——それが感覚として流れ込んできた。

「——なんだ、これ」

「共振だ」

蓮夜が立ち上がった。煙草を川に弾き、こちらを見下ろす。

「あらゆる物質には固有振動数がある。お前の異能は振動を発生させるだけじゃねえ。対象の固有振動数を読み取って、そこに干渉できる。共振を起こせば、内側から構造を破壊できる」

石だけじゃない。金属でも、骨でも、内臓でも——

「E級の判定基準は出力だ。お前の振動は出力だけ見りゃ確かに最底辺。だが精度が異常に高い。周波数を合わせる精度が、だ。測定器はそこを見てねえ」

蓮夜の言葉が、頭の中で反響していた。

E級。最弱。使えない異能。十五の時に押された烙印。母親の、何も言わなかった横顔。桐生の嘲笑。見学組のパイプ椅子。全部が、測定器の——物差しの、欠陥?

「嘘だろ」

声が掠れた。自分でも驚くほど、喉が渇いていた。

「嘘ついてどうする。お前の能力が面白いから声かけたんだ。慈善事業じゃねえ」

面白い。

その言葉が、胸の奥で妙な振動を起こした。共振とは違う。もっと深い場所にある何かが、十七年間で初めて揺さぶられた感覚。

「あんたは——俺の能力が、使えるって言ってるのか」

「使える使えないの話をしてるんじゃねえ」

蓮夜が屈み込んだ。至近距離で、あの切れ長の目が俺を見据える。頬の傷跡が闇の中で影を落としている。

「お前の微振動は、物質の本質に触れる力だ。表の測定器がE級と判定したのは、出力しか測れない制度の限界だ。お前が弱いんじゃない。物差しが足りてなかっただけだ」

川面を風が渡る。対岸の街灯が水面に揺れて、不規則な光の模様を作っている。

今まで俺の異能を見た人間は、全員同じ反応だった。苦笑、嘲笑、同情、無関心。誰一人として「使い方が違う」とは言わなかった。最弱だと。それだけだと。E級はE級だと。

蓮夜は違った。

「……俺に、何をさせたいんだ」

「別に何も。ただ、もったいねえと思っただけだ」

蓮夜は立ち上がり、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。川沿いの道を歩き出しながら、振り返らずに言う。

「明日の夜十時にここに来い。退魔の基礎を教えてやる」

「待てよ。俺は別に退魔師になりたいなんて——」

「なりたいかどうかは関係ねえ」

蓮夜が足を止めた。今度は振り返った。煙草のない口元が、薄く笑みを刻んでいる。

「お前、さっき妖魔を殺した感触がまだ指に残ってるだろ。あの感覚を知った人間は、二種類に分かれる。怯えて逃げるか——もっと深く知りたいと思うか」

言葉が出なかった。図星だった。

吐き気がした。恐怖もあった。だけど——指先に残る、あの共鳴の感覚。妖魔の内側に自分の振動が浸透していく、あの瞬間。世界の裏側に手が届いたような、異質な全能感。

怖い。でも、もう忘れられない。

蓮夜は俺の答えを待たなかった。暗い川沿いの道を歩いていく背中が、じきに見えなくなる。

一人残された河川敷で、空が白み始めていた。東の空にうっすらと朱が滲み、川面が鈍い銀色に光る。始発電車の走る音が遠くから聞こえた。世界が動き出す。何も知らない人々の、普通の朝が。

俺は自分の右手を見つめた。震えは止まっていた。

だが指先には、まだあの周波が残っている。妖魔の、小石の、そして——蓮夜の言葉の。全部がごちゃ混ぜになって、俺の内側でまだ共振している。

明日の夜十時。

口の中で呟いて、立ち上がった。膝はもう笑っていない。コンクリートの冷たさが体に染みている。

帰り道、住宅街の角を曲がったとき、ポケットの中のスマホが震えた。画面を見ると、楓からのメッセージだった。

『今日の一限、数学のノート貸して。寝坊しそう』

午前五時十二分。こんな時間に起きているのか、それとも寝ぼけて時間を確認せずに送ったのか。

『分かった』

短く返して、スマホをしまった。数学のノート。一限の授業。等級判定。日常。

昨夜、裏路地で妖魔を殺した手で、今日は数学のノートを貸す。

その落差に、自分でも笑えなかった。笑おうとして口元が引き攣り、結局ただ息を吐いただけだった。朝の空気が肺の奥まで沁みて、冷たかった。

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