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最弱振動の退魔師

第3話 第3話「物差しが足りなかっただけ」

第3話

第3話「物差しが足りなかっただけ」

翌日の授業は、一秒も頭に入らなかった。

ノートの端に意味のない線を引きながら、指先の感触ばかり反芻している。妖魔の体内で振動が増幅していくあの瞬間。小石が砂に崩れた手応え。蓮夜の言葉——「物差しが足りてなかっただけだ」。

教室の蛍光灯がやけに眩しい。周囲の雑談が遠い水底の音みたいにぼやけて聞こえる。桐生が廊下でまた何か言っていたが、今日は言葉の意味を追う余裕すらなかった。

「真琴、大丈夫? 顔色悪いよ」

楓が覗き込んでくる。俺は慌てて姿勢を正した。

「寝不足。バイト明けだから」

「また深夜シフト? 体壊すよ」

「慣れてる」

嘘だ。寝不足は本当だが、理由が違う。昨夜から一睡もしていない。目を閉じると妖魔の赤い目が瞼の裏に浮かぶ。破裂した瞬間の感触が右手に蘇る。それなのに——怯えているのとは、少し違った。

放課後、楓に「今日バイト」と嘘をついて別れた。帰宅して、布団に潜り込んで、目覚ましを午後九時にセットした。眠れるはずがないと思ったのに、泥のように意識が落ちた。体が限界だったらしい。

目覚ましの音で飛び起きたとき、窓の外はもう暗かった。

九時四十分に家を出た。母親は夜勤でいない。書き置きもしなかった。書くことがない。「妖魔を殺した男に会いに行く」とでも書けばいいのか。

河川敷に着いたのは十時五分前だった。

橋の下に、昨夜と同じように蓮夜がいた。ただし今夜は立っている。煙草も吸っていない。革のジャケットの下に黒いシャツ。左手首に巻かれた数珠のようなものが、街灯の光を鈍く反射していた。

「遅刻じゃねえな。感心だ」

「……来ないとは言ってない」

「言ってもねえがな」

蓮夜は橋の下から歩き出した。昨夜と違う方向——川の上流に向かっている。

「ついて来い。アジトに案内する」

「アジト?」

「退魔師の拠点だ。河川敷で毎晩講義するわけにもいかねえだろ」

歩きながら、蓮夜は最低限の説明だけを寄越した。

川沿いの道を十五分ほど北上し、工業地帯の外れに入った。稼働していない工場が並ぶ一帯。錆びたフェンスと割れた窓ガラス。人の気配が完全に途絶えている。蓮夜は閉鎖された機械加工工場の裏手に回り、非常口の鉄扉の前で立ち止まった。

鉄扉に手を当てる。一瞬、蓮夜の掌が淡く赤い光を帯びた。

音もなく扉が開く。

「結界錠。術式で封じてある。許可した人間以外は、扉があることすら認識できねえ」

中に入ると、外観からは想像できない空間が広がっていた。

工場の一階部分がほぼ丸ごと改装されている。コンクリートの床にはラグが敷かれ、中央に大きな作業テーブル。壁際には金属製の棚が並び、瓶や札や見たことのない道具が整然と収められている。奥にはキッチンらしきスペースと、仕切りで区切られた個室がいくつか。天井の配管はむき出しのままだが、暖色の照明がそれを気にさせない程度に空間を温めていた。

「ここが拠点か」

「正確には俺の私有地じゃねえ。地主が二十年前に夜逃げして、登記が宙に浮いてる。管理局の記録にも載ってねえ——退魔師にはちょうどいい」

蓮夜は作業テーブルの椅子を引いて座り、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。俺には何も勧めない。未成年だから当然だが。

「座れ。長い話になる」

テーブルの向かい側に座った。椅子のクッションは意外としっかりしている。テーブルの上には地図や書類が散らばっていて、赤いピンが何箇所にも刺さった都内の地図が目についた。ピンの一つが、俺が妖魔に遭遇した裏路地の近くに刺さっている。

「昨夜の妖魔——あれは偶然じゃねえ」

蓮夜がビールを一口飲み、テーブルの地図を指で叩いた。

「ここ二ヶ月で、都内の妖魔出現件数が三倍に跳ね上がってる。管理局は公表してねえが、裏じゃとっくにパンクしてる。退魔師への依頼も捌ききれてねえ」

赤いピンの密集具合が、その言葉を裏付けていた。新宿、渋谷、池袋——繁華街を中心に、ピンが集中している。

「表の異能者ランキングってのは、要するに行政が国民を管理するための仕組みだ。異能の強さを数値化して、社会の歯車にはめ込む。S級は国の駒、A級は企業の戦力、B級C級は労働力、D級E級は——」

「いてもいなくても同じ、か」

「お前がそう言うならそうだろうな」

蓮夜の声には同情がなかった。ただ事実を述べている。

「だが退魔師の世界じゃ等級は意味を持たねえ。妖魔を祓えるかどうか。それだけだ。S級でも妖魔に対処できねえ奴はいるし、測定不能の能力で化け物じみた退魔をする奴もいる。表と裏で、求められる力が根本的に違う」

蓮夜がビールの缶をテーブルに置いた。軽い金属音が静かな空間に響く。

「退魔師は個人か、少人数のチームで動く。依頼は民間から直接。報酬は現金。税務申告なんざ誰もしてねえ。管理局とは——まあ、見て見ぬふりの関係だ。局も退魔師がいなきゃ回らねえことは分かってるからな」

壁の棚に目をやった。ガラス瓶の中に浮かぶ黒い液体。朱色の墨で文字が書かれた札。柄の短い刀。銀色の弾丸が並んだケース。どれも現実の道具には見えない。教科書で見た「退魔用具」の写真より、ずっと生々しかった。

「表の世界じゃ、異能は管理されて、評価されて、序列をつけられる。裏の世界じゃ——自分の力で自分の価値を証明するしかねえ。等級もコネもねえ。あるのは腕だけだ」

蓮夜が俺を見た。テーブル越しに、あの切れ長の目がまっすぐ向けられる。

「お前に退魔師になれとは言わねえ。ただ、お前の能力はこっち側でしか正当に評価されねえ。表にいる限り、お前はE級のままだ」

言葉が胸の底に沈んでいく。

E級のまま。それは十七年間の俺の人生そのものだ。この先もずっと見学組のパイプ椅子に座って、桐生たちが石を浮かせるのを眺めて、深夜のコンビニでレジを打って——。

「なんで俺なんだ」

声が出ていた。自分でも意図しないタイミングで。

「あんた一人で十分強いだろ。わざわざE級のガキを拾う理由がない」

蓮夜は答えなかった。ビールの缶を傾けて、最後の一口を飲み干す。空き缶を握り潰す音が、妙に大きく聞こえた。

「理由はそのうち分かる」

「そのうちって——」

「今は知らなくていい」

蓮夜は立ち上がった。空き缶をゴミ箱に放り込み、奥の部屋に向かう。途中で足を止めて、棚から何かを取り出した。

黒い手袋だった。指先の部分がカットされた、ハーフフィンガーのレザーグローブ。使い込まれた革の表面に、細かい文字のような紋様が刻まれている。

「振動を通す特殊素材だ。直接触れなくても、こいつ越しに共振を起こせる。素手だと皮膚がやられるからな」

テーブルの上に手袋が放られた。革の匂いが鼻に届く。

「持っておけ。使うかどうかはお前が決めろ」

手袋を手に取った。革の感触が掌に馴染む。紋様の部分がわずかに温かい。異能を通す素材というのは聞いたことがある。A級以上の異能者に支給される装備品——それの、裏社会版。

「明日もここに来い。夜十時」

「……また明日も?」

「文句あるか」

「ないけど——何をするんだ」

蓮夜は奥の部屋のドアに手をかけたまま、こちらを振り返った。

「お前の振動がどこまで通じるか、試す。石と妖魔は壊した。次は——もっと硬いもんで試してみるか」

口元が笑っている。だが、その笑みの奥にある感情が何なのか、俺には読み取れなかった。興味なのか、期待なのか。それとも、俺がまだ知らない何かの計算なのか。

蓮夜はそれ以上何も言わず、奥の部屋に消えた。

一人残された作業テーブルで、手袋を眺めた。革に刻まれた紋様が、蛍光灯の下でかすかに光って見える。気のせいかもしれない。

立ち上がって、アジトの中を見回した。壁に貼られた都内の地図。赤いピンの群れ。棚に並ぶ退魔の道具。ここは表の世界の地図には載っていない場所だ。管理局も、学校も、母親も知らない——裏側の世界。

手袋を左手にはめてみた。指先が出る分、掌の感触がダイレクトに伝わる。革が体温で温まっていく。試しに微振動を起こしてみた。振動が革を伝わり、手袋の表面がかすかに震える。

——通る。素手のときより、振動の輪郭がくっきりしている。ノイズが減ったような、そんな感覚。

手袋を外してポケットにしまい、非常口から外に出た。鉄扉が背後で音もなく閉まる。振り返ると、そこにはただ錆びた壁があるだけだった。扉の痕跡すらない。結界錠——許可のない人間には見えない扉。

工業地帯を抜け、川沿いの道を戻る。深夜零時を回っていた。夜風が頬を撫でる。ポケットの中の手袋が、革の重みで存在を主張している。

スマホを取り出した。楓からのメッセージが入っている。

『明日の放課後、図書室で課題やらない?』

日常だ。数学の課題、図書室、楓の呑気なメッセージ。昨夜まではそれが俺の世界の全部だった。

今、ポケットには退魔師の手袋が入っている。頭の中には妖魔の赤い目と、蓮夜の言葉と、赤いピンが刺さった地図がある。

表と裏。二つの世界に片足ずつ突っ込んでいる。

蓮夜は理由を語らなかった。なぜ俺なのか。あの男の目の奥にあったものが何なのか、まだ分からない。分からないまま、明日もあの鉄扉の前に立つのだろう。

『いいよ』

楓に返信して、スマホをしまった。

夜空を見上げた。星は見えない。都会の空は、いつだって何かに覆い隠されている。表の光が強すぎて、裏側の星が見えないのと同じだ。

——でも、裏側にも光はある。蓮夜が灯した煙草の火のような、小さくて鋭い光が。

足を速めた。明日は一限から授業がある。それから放課後に楓と図書室。そのあと——夜十時に、あの工場へ。

ポケットの中の手袋が、歩くたびに太腿に触れる。まだ微かに温かかった。

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