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キノコ拾いの災害級従魔師

第2話 第2話

第2話

第2話

岩壁は、なかった。

正確には、あったはずの壁が崩れていた。人ひとりが横向きに通れるほどの亀裂が、湿地帯の最奥部に口を開けている。縁には蛍苔が張りついているが、発光していない。死んでいるのではなく、光ることを止めている——そう見えた。

ヒノキは亀裂の前でしゃがみ込み、泥水の流れを指先で確かめた。水は亀裂の奥から湧き出していた。温度が違う。湿地帯の泥水より明らかに冷たい。地下水脈とも異なる、鉱物を溶かし込んだような硬い冷たさだ。指先の感覚が痺れるように鈍くなり、慌てて手を引いた。ほんの数秒浸けただけで、爪の下が白く変色している。

金色の胞子は、この亀裂から流れ出している。

ヒノキは立ち上がり、採取籠を亀裂の手前に置いた。念のため、中身の蒼絨菌に防湿布を被せる。万が一ここで自分に何かあっても、籠が見つかれば誰かが気づく。素材屋の習性だった。命より先に納品物の心配をする。

亀裂に体を滑り込ませた。肩が岩肌に擦れ、苔の水分が首筋を伝う。冷たさに一瞬息が詰まる。苔の匂い——湿地帯の表層に生えるものとは異なる、錆びた金属を思わせる刺すような臭気が鼻腔を突いた。三歩、五歩、八歩。通路は狭いままだったが、天井だけが急に高くなった。松明がなくても足元が見えるのは、壁面の鉱脈が微かに燐光を放っているからだ。見たことのない鉱物だった。乳白色の地に、金色の筋が走っている。胞子の色と同じ金だ。

通路の先が、唐突に途切れた。

ヒノキの足が止まり、呼吸が止まった。

縦穴だ。

足元から十数メートル下まで、円形の空洞が垂直に落ち込んでいる。直径は二十メートルほど。壁面には同じ燐光鉱脈が螺旋状に走り、底まで淡い光で照らし出していた。自然にできた地形ではない。壁面が滑らかすぎる。何かが——あるいは誰かが、この穴を穿ったのだ。

十五年、毎日この階層に通い詰めた。すべての壁を指で撫で、すべての水流を記憶し、すべての菌糸の配置を頭に刻んだ。それでもこの空間を知らなかった。昨日までは存在しなかったのか、それとも——隠されていたのか。

底を覗き込む。金色の燐光に照らされた縦穴の最深部に、水が溜まっている。浅い水たまり程度だが、水面が妙な揺れ方をしていた。何かの呼吸に合わせるように、規則的に膨らみ、沈む。

引き返せ。

十五年の経験が、腹の底から警告を発した。この匂い、この空気、この静けさは危険の兆候だ。浅層の素材屋が足を踏み入れていい領域ではない。胃の奥が締まり、口の中に酸っぱい唾液が溜まる。体が本能的に拒絶しているのだ。

だが、ヒノキの目は縦穴の壁面に釘付けになっていた。

壁に刻まれた痕跡。自然の浸食ではない、明らかに人工的な溝が等間隔に穿たれている。足場だ。誰かがこの縦穴を降りるために、壁面に手がかりを刻んだ。しかも一度ではない。溝の摩耗具合から、繰り返し使われた形跡がある。

ギルドの調査記録にも、冒険者の手記にも、この縦穴への言及はない。それは単に発見されなかったのか。それとも——記録から消されたのか。

トキワの言葉が脳裏をよぎる。中層で地形変異が多発している。原因は不明。浅層で何か変わったことがあったら教えてくれ。

ヒノキは壁面の溝に手をかけた。指先に冷たい岩の感触が伝わる。足場は体重に耐えた。一段、また一段。素材屋の手は剣を振るうことはできないが、岩壁にしがみつく握力だけは十五年の採取作業で鍛えられている。鍾乳管の裏に手を突っ込み、体をねじり、片手で自重を支えながら菌類を摘む。それを毎日繰り返してきた手だ。

降りるにつれて、空気が変わった。湿地帯の腐葉と泥の匂いが薄れ、代わりに古い石と水の匂いが濃くなる。鳴っていた虫の声も消え、自分の呼吸と衣擦れの音だけが壁に反響する。静寂が、耳を圧迫するように重い。まるで音そのものが何かに吸い込まれているかのようだった。

七メートルほど降りたところで、燐光の色が変わった。金から、赤みを帯びた琥珀色へ。壁面の温度も上がっている。指先で触れた岩肌が、微かに脈動していた。生きている、と思った。この縦穴そのものが、何かの一部であるかのように。

底まであと三メートル。水面が近づく。そこでヒノキは、水たまりだと思っていたものが水たまりではないことに気づいた。

底に溜まった液体は透明ではなく、光を吸い込む深い藍色をしていた。表面に金色の胞子が浮遊し、ゆっくりと渦を巻いている。そして、その藍色の液体の中央に——。

巨大な塊が沈んでいた。

最初は岩だと思った。藍色の液体に半ば浸かった、灰褐色の巨岩。だが岩は呼吸をしない。

それは、呼吸していた。

水面を規則的に揺らしていたのは地下水脈の脈動ではなく、この巨大な「何か」の呼吸だった。体長は六メートルを超える。四肢を折り畳んで蹲る姿勢で、背中の稜線が水面から突き出している。体表を覆う鱗——いや、甲殻に近い灰褐色の外皮は所々剥落し、下から赤黒い肉が覗いていた。剥落した箇所から藍色の液体が染み出し、傷口を覆うように凝固している。液体は血液なのか、それとも外部から吸収した治癒物質なのか——素材屋としての観察眼が、恐怖の下で冷徹に分析を続けていた。

ヒノキは壁面にしがみついたまま、石のように動けなくなった。

知っている。図鑑でしか見たことはないが、この輪郭を間違えるはずがない。ケルベス冒険者ギルドが発行する『魔物大系・災害級指定種一覧』——その七十二ページに、寸分違わぬ姿が描かれている。

グラトニア。

災害級指定モンスター。出現すれば都市ひとつが壊滅しうるとされ、討伐にはSランクパーティの複数編成が必要とされる存在。最後の目撃記録は八年前、大陸北部の鉱山都市カルゲン。その際の討伐には四日を要し、冒険者の死者は三十七名を数えた。

それが——浅層の、第3層の、自分が毎日キノコを拾っている湿地帯の真下に、蹲っている。

壁面を掴む指が震え始めた。握力が保たない。降りることも、登ることもできない。声を出せば気づかれる。気づかれれば、死ぬ。Eランクの素材屋がどうあがいても、災害級の前では塵に等しい。奥歯を噛み締めた。歯の根が鳴る音すら、この静寂の中では致命的に響くのではないかと思った。汗が額から垂れ、顎を伝い、壁面に落ちる。その一滴が岩肌を濡らす小さな染みになるのを、ヒノキはただ見つめていた。

だが、観察者の目は恐怖の中でも動き続けていた。

衰弱している。

グラトニアの呼吸は浅く、不規則だった。甲殻の剥落は老化ではなく損傷の痕跡だ。そして体表のあちこちに刻まれた、直線的な傷痕——自然界の爪や牙では生じない、刃物による切創。何者かが、この災害級を傷つけ、この縦穴に閉じ込めた。壁面の足場はそのためのものだ。

金色の胞子が、グラトニアの体表から立ち昇っている。湿地帯に流れ出していた未知の胞子の源は、この巨体そのものだった。体表に共生する菌類が胞子を放出しているのか。それとも甲殻の成分が空気中で微粒子化しているのか。いずれにせよ、ヒノキが十五年見たことのない胞子の出所はここだった。

思考が加速する。地形変異の原因。水流の変化。蛍苔の異常。すべてがこの存在に帰結する。災害級モンスターの魔力が、地下構造そのものに影響を与えているのだ。

どれほどの時間が経ったか分からない。一分かもしれないし、十分かもしれない。壁面に張りついたまま、ヒノキは一つの結論に達していた。

ここにいてはいけない。今すぐ壁を登り、亀裂を抜け、ギルドに報告しなければならない。

指に力を込め、一段上の溝に手を伸ばした瞬間——足場が、崩れた。

小さな岩片が壁面から剥がれ、藍色の水面に落ちた。音は、大きくなかった。水を叩くかすかな音が、縦穴の底に反響しただけだ。

だが、それで十分だった。

水面の揺れが止まった。

規則的だった呼吸のリズムが、ぴたりと消える。縦穴全体を満たしていた藍色の燐光が、一瞬だけ脈打つように明滅した。空気の温度が、一段上がった気がした。

そしてグラトニアが——ゆっくりと、頭を持ち上げた。

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