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キノコ拾いの災害級従魔師

第1話 第1話

第1話

第1話

湿った空気が肺を満たした瞬間、ヒノキは今日の第3層が昨日と違うことを知った。

もっとも、その違いに気づく人間はケルベスの冒険者ギルドに登録された四千名の中で彼一人だろう。壁面に張りついた蛍苔の発光が、昨日より〇・二秒ほど長い。呼吸のような明滅リズムが僅かにずれている。それは第3層湿地帯の湿度が通常より三パーセント高いことを意味していた。

「——収穫日和だな」

誰に言うでもなく呟いて、ヒノキは腰の採取籠を叩いた。湿度が上がれば魔菌類の成長が促進される。とりわけ回復薬の主原料である蒼絨菌は、この程度の湿度変化で傘の直径が一割近く膨らむ。一本あたりの買取額は変わらないが、重量単価で取引する卸問屋への納品量は増える。数十レン硬貨の差が、素材屋にとっては夕食の品数を左右した。

三十二歳。冒険者ランクE。ダンジョン都市ケルベスで十五年、ヒノキが続けてきた仕事はただ一つ——浅層のキノコ拾いだ。

第3層の湿地帯は膝までの泥水に覆われた薄暗い空間で、天井から垂れる鍾乳管の隙間に魔菌類が密生している。冒険者にとっては通過点にすぎない退屈な階層。まともな魔物も出ない。ゆえに誰も立ち止まらない。ヒノキだけが、毎朝ここに来る。

鍾乳管の裏側に手を伸ばし、蒼絨菌の根元を二本の指で挟む。爪の先に微かな弾力を感じたところで、手首を四十五度捻りながら引く。柄が折れず、菌糸も傷つけない採取法を身につけるまでに三年かかった。

「はい、よっと」

湿った音とともに、掌大の蒼絨菌が綺麗に抜けた。傘の裏の胞子紋を確認する。放射状に広がる淡い青の筋。乱れも変色もない。上物だ。

籠に入れ、次の群落へ移動する。泥水を掻き分ける足音だけが階層に響く。十五年間、変わらない朝の光景。剣の柄も杖の先も握ったことのない手が、魔菌類だけを丁寧に摘んでいく。

ケルベスのダンジョンは地下六十二層まで確認されている。冒険者たちは深層を目指し、強大な魔物を討伐し、希少な素材を持ち帰る。一回の探索で数十万レンを稼ぐ者もいる。

ヒノキの日収は、良い日で八百レン。パン一斤が百二十レンのこの街で、それは生存ぎりぎりの額だった。

第3層から地上へ戻ったのは、太陽が中天を過ぎた頃だった。ダンジョン入口の広場には冒険者たちが屯していた。中層帰りのパーティが戦利品を見せ合い、酒場の呼び込みが声を張り上げている。

「おう、ヒノキじゃねえか。今日も拾ってたのか」

声の主を見上げなくても分かる。背中に大剣を背負った長身の男——カイル。十五年前、同じ日に冒険者登録をした同期だ。今はBランクパーティ「鉄牙」のリーダーを務めている。

「ああ。今日は湿度が高かったから、いい蒼絨菌が採れた」

「蒼絨菌、ねえ」カイルは肩を竦めた。革鎧の胸当てには中層魔物の返り血がこびりついている。「十五年経っても同じこと言ってんな、お前は」

悪意はない。ただの事実確認だ。だからこそ刺さる。

「まあ、無理すんなよ。浅層なら死にはしないだろうけど」

カイルはそれだけ言って、仲間の待つ酒場へ歩いていった。ヒノキは返事をしなかった。返す言葉がなかっただけだ。

卸問屋「ヤチヨ商会」は、ギルド裏手の路地を三本入った先にある。薬品臭が染みついた古い建物の奥で、白髪の主人トキワが帳簿を睨んでいた。

「来たか。見せてみろ」

ヒノキが籠を差し出すと、トキワは老眼鏡越しに一本一本を検分し始めた。骨張った指が蒼絨菌を摘み上げ、傘を裏返し、胞子紋に目を凝らす。

「ふん。相変わらず綺麗に抜くな、お前は。菌糸の切断面が均一だ。機械仕事みたいだよ」

「十五年やってますから」

「十五年な」トキワは鼻を鳴らし、算盤を弾いた。「蒼絨菌二十三本、灰胞茸八本、紫紐菌六本——〆て七百四十レンだ」

「灰胞茸、もう少し色を見てもらえませんか。今朝のは胞子嚢の膨らみが通常より大きい。湿度上昇に反応した高活性個体です。薬効も二割は高いはずだ」

トキワの眉が動いた。灰胞茸を手に取り直し、今度はルーペを引き出して胞子嚢を観察する。数秒の沈黙のあと、老主人は小さく唸った。

「——確かに。活性が高い。お前、よく気づくな」

「色が違います。通常の灰胞茸より黄味が強い。胞子嚢の膜も張りがある」

「分かった。灰胞茸は単価を三割増しにする。〆て八百十レンだ」

七十レンの上乗せ。パン半斤にも満たない差額を、ヒノキは素直にありがたいと思った。

トキワがレン硬貨を数えながら、不意に口を開いた。

「なあヒノキ。お前、いつまでキノコ拾いを続けるつもりだ」

「いつまでも、ですかね」

「そうじゃない。聞きたいのは——お前の眼は、キノコを見るだけの眼じゃないってことだ」

ヒノキは手を止めた。

「第3層の生態系を、お前ほど理解している人間はこの街にいない。冒険者どころか、ギルドの学術班でもだ。胞子の色で湿度変化を読み、菌糸の伸び方から階層の魔力濃度を推定する。それは単なる経験則じゃない。観察に基づいた体系的な知識だ」

「買い被りですよ。俺は剣も振れない。魔法も使えない」

「だからなんだ」トキワは帳簿を閉じた。「この街の冒険者は、ダンジョンを『敵の巣』としか見ていない。お前だけがあそこを『生態系』として見ている。それがどれだけ稀有なことか、お前自身が分かっていない」

言葉が胸の奥に落ちて、静かに沈んだ。返答を探しているうちに、トキワは話題を変えた。

「ところで、最近ギルドに妙な報告が上がっているのを知っているか」

「妙な報告?」

「中層——第10層から第15層あたりで、地形変異が起きている。通路の形が変わった、壁が消えた、新しい空洞が出現した。そういう話がここ一月で五件だ」

ヒノキの眉が寄った。ダンジョンの地形が変わること自体は珍しくない。魔力の流動によって壁が生成・消滅する現象は古くから記録されている。だが一月で五件は異常だ。

「原因は」

「分かっていない。ギルドの学術班が調査に入っているが、中層の話だ。Bランク以上しか入れん。お前には関係ないだろうが——」

トキワは一度言葉を切って、ヒノキの目を見た。

「浅層でも何か変わったことがあったら、教えてくれ。お前の眼なら、他の連中が見落とすものを拾えるはずだ」

「分かりました」

硬貨を受け取り、店を出た。西日が路地を橙色に染めている。ヒノキは八百十レンの重みを掌で確かめながら、明日の採取計画を頭の中で組み立て始めた。

翌朝。

第3層湿地帯への降下口に立ったヒノキは、最初の一歩を踏み出す前に足を止めた。

空気が違う。

昨日までの湿り気を帯びた、苔と泥の匂い——その下に、嗅いだことのない気配が混じっている。金属とも土ともつかない、鉱物的な冷たさを含んだ匂い。

壁の蛍苔を見る。明滅のリズムが、昨日よりさらに乱れていた。単なる湿度変化では説明がつかない揺らぎ方だ。

十五年の経験が、背筋を冷やす。

ヒノキは泥水に片足を踏み入れ、水面の波紋を観察した。通常、第3層の水流は北から南へ緩やかに流れる。地下水脈の位置関係から、十五年間一度も変わったことがない。

今日は——東から西だ。

水の流れが変わっている。それは地形そのものが変わったことを意味する。トキワの言っていた地形変異が、浅層にまで及んでいるのか。

足を進めた。いつもの採取ルートを辿りながら、五感を研ぎ澄ます。蒼絨菌の群落は健在だが、配置が微妙にずれている。昨日まで壁の右側に密生していた株が、左側に移動している。菌糸が、何かから逃げるように。

そして——湿地帯の最奥部に差し掛かったとき、ヒノキの足が完全に止まった。

胞子だ。

空気中を漂う胞子の流れが、一点に向かって収束している。蒼絨菌のものではない。灰胞茸でも紫紐菌でもない。十五年間、第3層で見たことのない色をした胞子が、湿地帯の奥——本来は行き止まりであるはずの岩壁の方角から、大量に流れ出していた。

ヒノキは採取籠を下ろし、胞子を掌で受けた。光に透かす。

淡い金色。

図鑑にも、記録にも、存在しない色だった。

岩壁の向こうに、何かがある。十五年間通い詰めたこの階層に、ヒノキが知らない空間が口を開けている。

鼓動が速くなるのを感じながら、ヒノキは湿地帯の奥へ、一歩を踏み出した。

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