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禁書の軍師——寡兵覇道

第2話 第2話「八百二十三の留守兵」

第2話

第2話「八百二十三の留守兵」

留守の城は、戦を知らぬ者の目には平穏そのものに映っただろう。

蒼真が父の出立を見送ってから三日が過ぎていた。朝は点呼に始まり、城壁の巡回、兵糧の確認、城門の開閉と続く。八百二十三名の留守兵——そのほとんどが老兵か傷兵であるという現実は変わらないが、彼らは淡々と持ち場を守った。蒼真もまた、淡々と努めた。ただし、その淡々の中身は日を追うごとに変わっていった。

初日、蒼真は伍平に連れられて城内を歩いた。本丸から二の丸、三の丸、馬廻り詰所、兵糧蔵、鍛冶場。どれも蒼真が幼い頃から知っている場所だったが、留守を預かる身として見ると、すべてが違って見えた。石垣のどこに苔が生えているか、井戸の水量がどれほどか、城門の蝶番にいつ油を差したか。父はこの一つ一つを把握していたのだろう。蒼真はそのことを、初めて実感として理解した。

二日目から、蒼真は兵の名を覚え始めた。点呼の名簿を手に一人ずつ顔を見て、名と持ち場を頭に入れていく。片腕の槍兵、膝に古傷を持つ弓手、咳が止まらぬ老兵。名簿の上では記号にすぎない者たちが、顔を持ち、癖を持ち、それぞれの理由でここに残っていた。

「若様、兵の名を覚えなさるのですか」

伍平が少し驚いた声で言った。蒼真は名簿から目を上げずに答えた。

「父上はすべての兵の名を知っていた。三万の、全員の」

「さようで。殿は——そういうお方です」

伍平の声にわずかな感慨が滲んだが、蒼真はそれ以上は問わなかった。父の真似をしているわけではない。ただ、名も知らぬ者を守ることはできないと思っただけだ。

三日目には城の地形図を書庫から持ち出し、実際の地形と照らし合わせる作業を始めた。城の北側は山地、南は平野に開け、東に川、西は深い森。父が二十年かけて築いた防衛線の意図を、蒼真は紙の上でなぞった。どの方角から敵が来れば、どこで迎え撃つのか。もっとも、敵が来る想定など今は不要なはずだった。東国に燐河家を脅かす者はいない。父がそう判断したからこそ、三万を率いて北辺へ向かったのだ。

それでも蒼真は地形図を読み続けた。理由を問われれば答えに窮しただろう。ただ、あの朝に見た黒瀬の笑みが——忘れたはずのあの笑みが、夜ごと瞼の裏に甦るのだった。

四日目、五日目と過ぎ、城下は春の気配を深めていった。街道の雪は溶け、農民たちは田を起こし始めている。城下の市には近在の商人が集まり、味噌、塩、反物が並ぶ。留守の城は静かだったが、城下の暮らしは止まらない。蒼真は巡回の合間に城壁から城下を眺め、人の営みの確かさに少しだけ安堵した。父が守ってきたものは、こういう日常なのだと。

六日目の夕刻。蒼真が居室で地形図を広げていると、母が茶を持って現れた。燐河家の奥方、静乃。物静かで、城内の者には穏やかな人として知られていたが、蒼真は母がただ穏やかなだけの人ではないことを知っていた。父が出征するたび、領内の政を黙って支えてきたのは母だった。年貢の減免、水路の修繕、飢饉時の蔵出し——父が武で国を守るなら、母は帳面で民を守った。

「よく読み込んでいますね」

静乃は地形図を一瞥し、蒼真の隣に腰を下ろした。

「まだ読んでいるだけです。何が足りないのかもわかっていません」

「足りないと思えるなら、足りています」

母の言葉はいつもこうだった。直接答えず、しかし芯を外さない。蒼真はそれ以上は言わず、茶を受け取った。母と並んで座る夕暮れの時間が、この留守の日々でもっとも穏やかな刻だった。

七日目の夜が来た。

蒼真は城壁の巡回を終え、居室に戻ろうとしていた。月のない夜で、城内は松明の灯りだけが石垣を赤く染めている。空気が重い。昼間は温んでいた風が再び冷たさを取り戻し、蒼真は思わず襟を掻き合わせた。

異変に最初に気づいたのは、南の物見櫓にいた老兵だった。

「烽火——烽火が上がっておる!」

声は枯れていたが、城壁に反響して蒼真の耳にも届いた。蒼真は足を止め、南を振り返った。

南の山稜に、赤い光が一つ灯っていた。そしてその右に、もう一つ。さらにその奥に、もう一つ。連鎖するように、赤い点が稜線に沿って並んでいく。

蒼真の喉が干上がった。

烽火は北辺からの警報として整備されている。北に敵あり、と伝えるための仕組みだ。南から烽火が上がる道理がない。南は燐河家の領地の奥であり、その先は同盟国の領土が続く。敵など、いるはずがない。

「伍平」

蒼真の声は自分でも驚くほど低く出た。いつの間にか駆けつけていた伍平が、南の稜線を凝視したまま答えた。

「あの烽火台は、領南の街道沿いのもの。味方の烽火台です」

「味方の台から、誰が火を上げている」

伍平は答えなかった。答えられなかったのだ。味方の烽火台から上がる烽火は、味方が上げたものだ。だが南に敵はいない。ならばこの烽火は何を告げている。論理が噛み合わず、蒼真の思考が一瞬だけ空転した。

城内が騒然とし始めた。兵たちが城壁に集まり、口々に声を上げている。「南から烽火とは何事だ」「間違いではないのか」「いや、三つも四つも連なっている」。混乱が、波紋のように広がっていった。

蒼真は唇を噛んだ。ここで立ち尽くしている場合ではない。留守を預かるのは自分だ。兵がざわめくなら、自分が声を出さなければならない。だがどんな声を出せばいい。何が起きているかもわからぬまま、何を命じればいい。父ならば——父ならば、この場で即座に斥候を出し、城門を固め、兵を配置するだろう。蒼真はそれを知っている。知っていることと、決めることの間にある溝。父の言葉が甦った。

蒼真は息を吸い、吐いた。

「南門を閉じろ。斥候を二騎、南街道に出せ。各門の守備兵は持ち場を離れるな」

声が震えなかったのは、ただ唇を強く噛んでいたからだ。伍平が即座に動き、指示が城内に伝わっていく。兵たちのざわめきが、命令を受けたことで幾分か鎮まった。誰かが指示を出すということが、それだけで人の不安を一段下げることを、蒼真はこのとき初めて知った。

足音がした。南の烽火を見たのだろう、母が居室から出てきていた。その手に一冊の帳面を持っている。蒼真が幼い頃から見慣れた、母の年貢帳。領内の村ごとの年貢高と、減免の記録が克明に記されたものだった。

「蒼真」

母の声は平静だった。烽火を見てなお平静でいられるのは、この人が父の傍で幾度もの戦を経験してきたからだろう。だがその目の奥に、蒼真が見たことのない光があった。悲しみでも恐怖でもない。覚悟の光だった。

静乃は帳面を蒼真の手に押し当てた。

「この帳面には、あなたの父が二十年かけて積み上げた、民との約束が書いてあります。年貢を減らした村、水路を引いた集落、飢饉の年に蔵を開けた記録。すべて、ここにある」

蒼真は帳面を受け取った。使い込まれた表紙は擦り切れ、頁の角が丸くなっている。母の字で、びっしりと数字が並んでいた。

「民のことを忘れるな」

母はそれだけを言った。何が起きようとも——その先の言葉を、静乃は口にしなかった。だが蒼真には聞こえた。何が起きようとも。何を失おうとも。刀を取ろうとも。この帳面に記された一つ一つの名前と数字を忘れるな、と。

蒼真は帳面を懐に入れた。その重みが、地形図の上で学んだどの知識よりも確かに、胸の内に落ちた。

南の烽火は、まだ燃えていた。赤い光が闇の中で脈打つように揺れ、消える気配はない。蒼真は城壁に戻り、暗闇の彼方を凝視した。斥候はまだ戻らない。夜気が肌を刺すほど冷たくなっていた。

やがて、伍平の声が聞こえた。静かな、しかし芯の凍った声だった。

「若様。南門の外に、軍勢が」

蒼真は南の城壁へ走った。城壁の上から身を乗り出すようにして闇を見下ろす。松明が点々と連なっている。一つや二つではない。数百の松明が、城の南面に沿って弧を描くように広がり——陣を敷いている。攻城の陣形だった。

先頭に翻る旗印を、蒼真の目が捉えた。

闇の中でも見間違えようがない。黒地に白鷺。それは黒瀬典膳の旗印だった。父と共に北辺へ向かったはずの黒瀬の軍旗が、南門の外で、攻城の陣形を敷いている。

味方の旗だった。

七日前、蒼真が石垣の上から見送った——あの笑みを浮かべた男の旗だった。

蒼真の手の中で、母の帳面がかすかに軋んだ。握りしめていることに、蒼真自身が気づいていなかった。

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