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禁書の軍師——寡兵覇道

第1話 第1話「三万の蹄が砕く土」

第1話

第1話「三万の蹄が砕く土」

三万の軍勢が動くとき、大地そのものが唸る。

燐河蒼真は本丸の石垣に立ち、眼下に広がる出陣の光景を見つめていた。東国六州の精鋭が隊列を組み、北門から果てしなく続く街道へと吸い込まれてゆく。騎馬の蹄が凍った土を砕く音、槍衾の穂先が朝日を弾く光、兵糧を満載した荷駄の車輪が軋む響き。それらが混じり合い、まだ薄暗い城下を震わせていた。吐く息が白く漂い、石垣の上は早春の冷気に晒されている。蒼真は無意識に拳を握り、指先の冷たさでようやく自分がどれほど長くここに立っていたかを知った。

先頭を行くのは父、燐河玄洋。

東国六州を束ね、北辺の蛮族を三度退け、朝廷からも一目置かれる当代随一の名将。その背は甲冑越しにも大きく、馬上にあってなお地に根を張った老木のように揺るぎない。蒼真は物心ついた頃からあの背中を見てきた。陣中で地図を睨む父、兵の名を一人ずつ呼んで労う父、糧道の配置を夜通し考え直す父。見て、覚えて、学んだ。だが学んだことと、それを使うことの間には、蒼真にはまだ越えたことのない溝がある。父はいつも決断する側にいた。迷いを見せたことすらない。蒼真はいつも、その決断を後ろから見つめている側だった。

「見ることと、決めることは別だ」

父が繰り返し言った言葉を、蒼真は唇の中で反芻した。十五になるまで、自ら采配を振るったことは一度もない。それが何を意味するのか、蒼真はまだ正確には理解していなかった。理解する機会が来ないまま、父の治世が続くのだと、どこかで思い込んでいた。

石段を降りる足音がした。振り向くと、父が供回りを従えて歩いてくる。出陣の支度を終えた姿は、蒼真が幼い頃から見慣れたものだった。黒漆塗りの胴丸に、燐河家の紋——蒼い流水——を染め抜いた陣羽織。腰には三尺二寸の太刀。だがその目は戦場へ向かう将のそれではなく、子に言い置くべきことを探す父の目だった。蒼真はその目を見て、不意に胸がざわついた。父がこの目をするのは、いつも何か重い話をするときだ。

「蒼真」

「はい」

「北辺の鎮圧に、早くて二月はかかる。その間、留守は任せる」

「承知しております」

玄洋は一度言葉を切り、蒼真の顔をじっと見た。朝靄の中、父の視線には重さがあった。まるで蒼真の中にある何かを量るように、あるいは、自分がこれから口にすることの意味が伝わるかどうかを見極めるように。

「残る兵は八百。老兵と傷兵が大半だが、いずれも燐河に骨を埋める覚悟の者たちだ。粗略に扱うな」

「心得ております」

「それから——」

玄洋が声を落とした。周囲の供回りがわずかに距離を取ったのは、長年仕えた者の察しだろう。父の声が低くなるとき、そこには他人の耳に入れてはならない話が続く。供回りの者たちはそれを肌で知っていた。

「書庫の奥に、封をした巻物がある」

蒼真の眉がかすかに動いた。父が書庫の奥に何かを秘していることは知っていた。幼い頃、一度だけ近づこうとして、父にこれまでにない厳しさで叱責されたことがある。あのとき父の声に滲んでいたのは怒りではなく、恐れに近い何かだった。蒼真はそのことを、今になって思い出していた。

「決して開くな。だが、持ち出せなくなる前に、お前の手元に置いておけ」

矛盾した命だった。開くなと言いながら、手元に置けと言う。蒼真が問いかけようと口を開いたとき、玄洋はすでに背を向けていた。

「開く必要がないまま、儂が戻るのが一番良い」

それだけ言って、父は石段を降りていった。陣羽織の蒼い流水紋が、朝靄の中に溶けるように遠ざかる。蒼真はその背を見送りながら、胸の底にわだかまる不安の正体を掴めずにいた。開く必要がないまま——その言葉の裏にある、開かねばならぬ時が来るかもしれぬという含みを。父はいつも、最悪を想定して動く。あの巻物が最悪の備えだとすれば、父は何を想定しているのか。蒼真は喉の奥が渇くのを感じたが、もう問うことはできなかった。石段の下で、父は馬に跨がり、振り返ることなく北門へ向かっていった。

本丸から見下ろすと、軍勢の最後尾がようやく北門を通過しようとしていた。殿を務めるのは父の副将、黒瀬典膳。齢四十を超え、燐河家に二十年仕えた古参の武将である。実直を絵に描いたような男で、父も全幅の信頼を置いていると蒼真は聞かされてきた。

その黒瀬が、ふと足を止めて振り返った。

本丸の石垣に立つ蒼真と、一瞬だけ目が合う。距離がありすぎて表情の細部までは読めない。だが黒瀬は軽く頭を下げるでもなく、手を挙げるでもなく、ただ——笑った。口の端だけを歪めるような、蒼真がこれまで見たことのない種類の笑みだった。それは忠臣が主家の若君に向ける顔ではなかった。どこか値踏みするような、あるいは、すでに結末を知っている者が芝居の幕開けを楽しむような——そんな笑みだった。

何だ、あれは。

蒼真は眉を寄せた。だが黒瀬はすぐに前を向き、軍列の中へと消えていった。気のせいだろうか。朝靄が見せた影の加減だったのかもしれない。蒼真はそう自分に言い聞かせ、視線を城下の街道へと戻した。だが一度引っかかった棘は、意識の底に沈んだまま消えてくれなかった。

軍勢が去った後の城下は、嘘のように静かだった。三万の兵が踏み固めた街道には轍と蹄の跡だけが残り、沿道で見送っていた商人や農民たちが三々五々と日常へ戻ってゆく。蒼真は石垣の上に立ったまま、しばらくその静けさに耳を澄ませていた。つい先ほどまで地鳴りのように響いていた軍靴の音が嘘のように遠い。静寂が、かえって城の広さを際立たせていた。三万が埋めていた空間を八百で守る。その事実が、数字以上の重みで蒼真の肩にのしかかった。

風が変わった。北から吹いていた乾いた風が止み、南から湿り気を含んだ空気が頬を撫でる。季節の変わり目だった。父が戻る頃には、この風はさらに温くなっているだろう。

「若様」

背後から声をかけたのは、老兵の伍平だった。蒼真が物心つく前から燐河家に仕え、片足を戦傷で引きずりながらも本城の守備を任されている男である。白髪交じりの髪を無造作に束ね、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。

「留守居の兵、点呼が終わりました。八百二十三名。うち、まともに槍を振れるのは三百ほどかと」

「残りは」

「傷病兵と、年寄りです。儂を含めて」

伍平は淡々と言った。卑下するでもなく、嘆くでもない。事実を事実として伝える、古兵の口調だった。その淡白さが、かえって数字の厳しさを際立たせる。蒼真はこの男が、かつて父の旗本として最前線に立ち、片足の腱を斬られてなお敵兵を三人斬り伏せたという話を思い出した。槍が振れぬと伍平は言うが、この男の目にはまだ兵の光が残っている。

蒼真は頷いた。三万が去った後の八百。数の差は歴然だが、父がこの八百を残したことには意味がある。北辺の蛮族討伐に必要な兵力は三万で、留守の城には八百で事足りる。東国六州において、燐河家に正面から挑む勢力はない——それが父の判断だった。

「伍平」

「はい」

「父上の書庫に、封をされた巻物がある。私の居室に運んでくれ」

伍平の目がわずかに見開かれた。あの書庫の奥を、蒼真が幼い頃に触れようとして叱られたことは、伍平も知っている。あのときの玄洋の剣幕を、伍平は側で見ていたのだ。

「殿の、お許しが」

「父上の命だ」

伍平は一瞬だけ逡巡し、それから深く頭を下げた。「承知いたしました」

蒼真は再び城下に目を向けた。穏やかな朝だった。街道沿いの茶屋が暖簾を出し、鍛冶場からは槌の音が聞こえ始めている。味噌を煮る匂いがどこからか漂い、城下町の朝が動き出す気配が石垣の上にまで届いてきた。この日常を守ること。それが今の蒼真に与えられた役目のはずだった。

だが胸の奥に残る、あの黒瀬の笑みが消えない。

あれは何だったのか。祝勝を期す武人の笑みとも、別れを惜しむ情の発露とも違う。何かを知っている者の——何かをすでに決めてしまった者の、あの薄い笑み。

考えすぎだ。蒼真は首を振り、石垣を降りた。書庫の巻物を受け取り、留守居の務めを果たす。それだけのことだ。父が戻るまでの、二月ほどの話にすぎない。そう思いながらも、石段を降りる自分の足音が、先ほどの父のそれとは比べものにならないほど軽く、頼りなく響くことに蒼真は気づいていた。

城下の外れ、街道が森に呑まれる手前の辻で、一人の男が軍列を離れた。黒瀬典膳が、出立の前夜に手ずから選んだ密使である。男は鎧を着けていない。旅商人の身なりに、腰には短刀を一振りだけ。懐に収めた書状には封蝋がされ、宛名は記されていなかった。

男は北へ向かう軍勢に背を向け、南の間道へと駆け出した。

朝靄が、その姿をすぐに隠した。

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