第1話
第1話
──死ね。
画面中央に浮かぶ巨大な戦斧が、俺の頭蓋を正確に狙って振り下ろされる。空気を裂く効果音が鼓膜を震わせ、斧の刃面に反射する炎の光が視界を赤く染めた。回避入力、0.08秒。右ステップで斧の軌道から外れた瞬間、足元の石畳が砕け散るエフェクトとともに衝撃波が広がる。返しの横薙ぎが来る。これも読んでる。しゃがみ回避から即キャンセル、背中のロングソードを抜きながら前方にダッシュ。鞘走りの金属音が耳に心地いい。刃がボスの左膝裏に吸い込まれた。硬い外殻を断つ手応えがコントローラー越しに伝わる──いや、VRだ。握った柄を通じて、掌に直接振動が走る。ダメージ表示、1,247。弱点ピッタリ。
《紅蓮の回廊》フロアボス・炎骸将ヴァルムンド。推奨攻略人数6人、推奨レベル85。
俺のレベルは91。職業は剣士系統の派生職「幻影剣士」。そしてパーティ人数は──1。
「なんでソロで来るかな、この人……」 「またこいつかよ草」 「幻影剣士ってソロ向けの職じゃねーだろ」
配信を見ている誰かのコメントが視界の端に流れたが、無視する。配信は攻略証明用に回しているだけだ。コメント欄の文字が何百流れようと、俺のプレイには1ミリも関係がない。
ヴァルムンドが咆哮した。鼓膜を直接掴まれるような重低音が、頭蓋の内側で反響する。第二フェーズ移行。炎の柱が床から6本、同時に噴き上がる。室温が跳ね上がり、肌がじりじりと灼ける触覚フィードバック。本来ならタンクが引きつけている間にDPSが柱を処理し、ヒーラーが全体回復を重ねる──教科書通りの6人連携ギミック。
俺は柱を無視してボスの懐に潜り込んだ。
炎柱の発生座標はランダムじゃない。ボスの足元から半径3メートルが安全地帯になる。200回以上このフェーズを検証して割り出したデータだ。他人に教えたことはない。教える相手もいないし、教える理由もない。
「ッ──」
連撃。左袈裟、右逆袈裟、突き、突き、横薙ぎ。通常攻撃5段を最速入力で叩き込む。振るうたびに腕の筋肉が軋む感覚がフィードバックされ、剣が肉を裂く湿った音が重なる。ヴァルムンドの体力が残り30%を切った。ここからが本番だ。
第三フェーズ。ヴァルムンドの全身が赤熱して、攻撃速度が1.4倍になる。放射される熱量が段違いで、近づくだけでHPがじわじわ削れる灼熱オーラが展開された。被弾すれば炎上デバフ付き。PT戦なら回復で耐えながら削る時間帯だが、ソロには回復がない。
つまり──ここから一発も食らわずに削りきる。
戦斧の振り下ろし。横薙ぎ。回転斬り。突進。叩きつけ。全部で12パターンの攻撃モーションを、予備動作の0.1秒で判別する。肩が先に動けば振り下ろし。腰が先なら回転。右足が滑れば突進──。
体に染みついたデータが、思考より先に体を動かす。回避、反撃。回避、反撃。純粋な反復。他人のミスも、回復待ちの焦りも、連携の齟齬もない。俺と敵、1対1の純粋な計算だけがある。
これが、最も効率的な戦い方だ。
最後の一撃がヴァルムンドの胸を貫いた。刃が赤熱した鎧を突き破る瞬間、金属と炎が弾ける衝突音がフィールド全体に響き渡る。赤熱した巨体が膝をつき、粒子になって崩壊する。燃え残りの粒子が雪のように舞い落ちて、頬をかすめた。熱い。最後まで律儀な熱量表現だった。
──CLEAR。ソロ討伐。タイム12分43秒。
ドロップアイテムを回収しながら、ステータス画面を開く。攻略ランキング個人12位。変動なし。11位との差は相変わらず僅差だが、ここから先はソロでは厳しい。上位10人は全員、大手ギルド所属のパーティプレイヤーだ。
別にいい。他人のミスで死ぬストレスを抱えてまで、順位を上げたいとは思わない。
《ソードレルム・オンライン》のプレイヤー数は800万人。その中で、ギルド未所属、フレンド数0、パーティ実績なし。3年間ずっとそうだ。効率を追求した結果、人間関係という不確定変数を排除した。それだけのこと。
帰還結晶を使おうとして、ふと手を止めた。
紅蓮の回廊の最奥。クリア報酬の宝箱があった壁の裏側に、かすかな違和感がある。テクスチャの色味がわずかに違う。0.5%くらい暗い。普通なら気づかないレベル。だが200回通ったダンジョンの壁は、全部覚えている。
壁に触れた。指先に返ってくるのは、他の壁と同じ冷たい石の感触。温度も硬さも変わらない。だが目が捉えた0.5%の差は、指先の情報では打ち消せなかった。
──何も起きない。
剣で叩いてみる。ノーダメージオブジェクト。壁は壁だ。だがこの違和感が引っかかる。少し考えて、スキル「幻影歩行」を発動した。本来は敵の攻撃をすり抜けるための回避スキルだが、判定的には0.3秒間だけ当たり判定が消える。もしこの壁にも当たり判定があるなら──
体が壁をすり抜けた。
「……は?」
壁の向こう側。暗い通路が、地下深くに向かって続いていた。冷たい空気が足元から這い上がってくる。ダンジョンの炎に焼かれ続けた肌が、急激な温度差に粟立った。マップを開く。表示は真っ白。未踏破エリアの表示すらない。このエリアは、マップデータ上に存在しない。
通路を進む。足音だけが響く。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえる。それ以外の環境音が、完全に消えていた。BGMすらない。3年間このゲームをプレイして、BGMが無音のエリアは初めてだ。壁のテクスチャが変わった。紅蓮の回廊の赤い石材ではなく、黒い金属質の壁。指で触れると、石とはまるで違う滑らかで冷たい感触が返ってくる。明らかに異なるダンジョンのアセットが使われている。5分ほど歩くと、広い空間に出た。
中央に、石碑が一つ。
近づいて読む。刻まれた文字は古い書体で、通常のゲーム内テキストとはフォントが違っていた。一文字ずつ、刻印が浮き上がるようにゆっくりと表示される。通常のテキスト表示とは明らかに異なる演出だった。
「──忘却の坑道。深層区画。立入制限:なし。推奨人数:不明」
推奨人数「不明」。3年間このゲームをやってきて、見たことのない表記だ。未実装エリアか、それとも意図的に隠されたコンテンツか。胸の奥で、忘れかけていた感覚が疼いた。このゲームを始めたばかりの頃、未知のフィールドに足を踏み入れるたびに感じていた、あの高揚感に似た何か。
石碑の先にはさらに通路が続いている。奥から微かに、低い振動音が聞こえる。空気が振動しているような、腹の底に響く重低音。ゲーム内の環境音としては異質だった。骨を直接揺さぶるような周波数で、無意識に歯を食いしばっていた。
進むべきか。帰還結晶はあと一つ。緊急離脱は可能。だがここで引き返したら、この場所を二度と見つけられないかもしれない。紅蓮の回廊はクリアするたびにマップ構造がリセットされる。壁のテクスチャのバグ──もしくは仕様──が次も再現される保証はない。
足を踏み出した。通路は螺旋状に下降していく。温度が下がっている。吐く息が白く見えるほどに。VR空間の温度表現がここまで精密に変化するのも珍しい。5分、10分。体感では相当な深さまで降りた。螺旋を一周するごとに、あの重低音が少しずつ大きくなっていく。
そして、通路が途切れた。
目の前に巨大な扉。高さ10メートルはある黒い金属の両開き扉。表面に刻まれた紋様が、脈動するように明滅している。まるで生きているように。紋様の光に照らされて、自分の影が背後の壁に長く伸びていた。影が揺れるたびに、何か別のものがそこに立っているように見える。
扉の前に立つと、システムメッセージが出た。
『零番目の試練場──扉を開きますか? Y/N』
試練場。ダンジョンの名前にすらなっていない。番号は「零」。正規のコンテンツには存在しない分類。
俺は迷わなかった。
Y。
扉が、重い軋みを上げて開いた。錆びた鉄を引きずるような不快な金属音が、螺旋通路の奥まで反響していく。冷気とは異質な、肌を刺す圧力のような空気が扉の隙間から噴き出した。その向こうに、6つの巨大な影が蠢いている。ステータスバーが6本、同時に表示された。どの名前にも見覚えがない。レベル表示は「??」。
──全部ボスか。
6体同時。推奨人数「不明」。これが、この場所の答えだった。最初の一体が動く。開幕のモーションを見切る猶予は、おそらく0.5秒以下。
俺は剣を構えた。ソロで来たことを後悔する暇など、最初からない。