第3話
第3話「世田谷の小さな庭」
三日が経った。
鬼道の隠れ家——築四十年の木造平屋は、世田谷の住宅街の奥まった路地に建っていた。表札はない。塀に囲まれた小さな庭には手入れの行き届いた植木が並び、近隣の住民からはただの隠居老人の家に見えているらしい。実際、覚醒した眼で視ると、この家の周囲には幾重もの結界が張り巡らされていた。外側から内部の気配を探知できない、精緻な隠蔽術式。組織の追手がこの三日間現れなかった理由が、今なら分かる。
その三日間、俺は魂相観測の制御訓練をひたすら叩き込まれた。情報の奔流に脳が焼かれないよう、視界の深度を自分で調整する技術。鬼道は教え方も淡白で、「絞れ」「広げろ」「もう一回」の三語だけで朝から晩まで俺を追い込んだ。飯は三食出た。毎回、温かかった。
朝の訓練を終えて縁側で麦茶を飲んでいると、鬼道が庭から戻ってきた。手に一枚の封筒を持っている。封蝋で閉じられた、古い様式の茶封筒。
「身体は動くか」
「三日前から動く」
「なら話がある」
鬼道が縁側に腰を下ろし、封筒を俺の前に置いた。中身は書類の束だった。転入届、身分証明、健康診断書。すべてが「灰堂レン、十五歳」の名前で完璧に整えられている。偽造にしては精度が高すぎた。
「天鏡学園。東京都下の全寮制高校だ。表向きは進学校、実態は鎮守府直轄の異能者養成機関。来週から、ここに入れ」
俺は書類を捲った。学園のパンフレットが一枚挟まっている。緑に囲まれた広大な敷地に、白亜の校舎。絵に描いたような名門校の佇まいだ。
「任務は、喰色者の炙り出し」
鬼道の声が一段低くなった。藍色の奥に、昨日まではなかった硬質な光が混じっている。
「北東の黒——お前が視たあれの発生源を追っている。手がかりが天鏡学園の内部にある。だが鎮守府の連中は政治に忙しくて、現場に人間を入れられん。俺が直接動けば目立ちすぎる。だから——」
「俺を送り込む」
「そうだ」
簡潔な肯定。鬼道は茶を啜って、それ以上何も足さなかった。
沈黙の中で、庭の植木の葉が風に揺れた。その葉脈を走る淡い緑の霊脈が、覚醒した眼にはっきりと視える。三日前には視えなかったものだ。三日前には持っていなかった力で、三日前にはなかった任務を遂行しろと言われている。
胸の奥で、冷たいものが軋んだ。
「——結局、同じか」
声が出ていた。自分でも予想していなかった言葉だった。
「組織では嘘発見器。ここでは喰色者探知機。使い方が変わっただけで、俺が道具なのは変わらないのか」
鬼道の色が動いた。怒りではない。藍の深部がわずかに波立って、すぐに凪いだ。
「そう思うか」
「思う。あんたは俺を拾った。飯を食わせた。眼を覚醒させた。全部、この任務のための投資だろう。組織の駒から、あんたの駒に移っただけだ」
吐き出した言葉は、三日間ずっと喉の奥に刺さっていた棘だった。温かい飯を食うたびに、丁寧に巻かれた包帯に触れるたびに、この善意には値札がついているはずだと——十五年間の経験が、そう叫び続けていた。
鬼道は麦茶の残りを飲み干して、湯呑みを縁側に置いた。
「お前の言う通りだ」
意外だった。否定されると思っていた。綺麗事で包まれると覚悟していた。だが鬼道の色には嘘がない。透き通った藍のまま、俺の眼を真っ直ぐに見ている。
「俺がお前を拾ったのは、お前の力が必要だからだ。喰色者を視認できる術者は、今の東京には俺とお前しかいない。お前を見つけたのは偶然だが、使えると思ったのは本音だ」
嘘の色は、ない。一片も。
「——だがな」
鬼道が立ち上がった。庭に面した背中が、朝の光を受けて長い影を落とす。
「駒には意志がない。命令に従い、壊れたら捨てられる。お前が組織でそうだったようにな。だが俺はお前に命令する気はない」
振り返った鬼道の藍色に、あの夜と同じ橙が灯った。
「嫌なら逃げろ。金も身分証も渡す。沖縄でも北海道でも、好きな場所に消えろ。追わない。俺はお前を縛らん」
その言葉を、魂相観測が全力で検証する。声の色、瞳の色、身体の輪郭を包む霊的放射の微細な揺らぎ。覚醒した眼で読み取れるあらゆる情報が、同じ答えを返す。
本気だ。この男は本気で、俺を逃がすつもりでいる。
「逃げた先で、あの黒いのに喰われたらどうする」
「それはお前の問題だ。俺の問題じゃない」
突き放すような言葉。だが色は温かいままだった。矛盾している。突き放しているのに、その奥にある橙は「心配している」と言っている。
俺は組織で十五年間、命令に従って生きてきた。指示がなければ動けない。判断を委ねることが生存戦略だった。自分の意志で何かを選んだことなんて——。
いや。一度だけ、あった。
三日前の夜、あの路地裏で。ナイフを落として、無線機を捨てて、この男の背中を追った。あれは命令じゃなかった。誰に強制されたわけでもなかった。あの橙色に手を伸ばしたのは、俺自身の意志だった。
北東の闇が、脈動している。この家の結界越しでも、覚醒した眼には微かに視える。あの黒い穴は三日間で確実に膨張している。何かを喰い続けて、太り続けている。放置すれば、いずれ——。
「俺は」
声が震えた。だが今度は恐怖じゃない。
「逃げない」
鬼道の眉が僅かに動いた。
「俺は組織に道具として使われた。あんたにも使われるのかもしれない。でも——」
言葉を探す。語彙が足りない。十五年間、感情を言語化する訓練を受けてこなかった人間には、胸の中で暴れているものを正確に表す言葉がない。
「あの黒いのが視える。視えてしまう。それを見なかったふりして逃げたら、俺は一生片目を閉じて生きることになる。それは——嫌だ」
拙い言葉だった。だが嘘はなかった。
鬼道が笑った。初めて見る笑顔だった。目尻の深い皺が寄って、藍色全体が柔らかく波打った。
「上出来だ」
それだけ言って、鬼道は家の中に戻っていった。残された俺は縁側に座ったまま、自分の手を見つめていた。三日前までナイフを握っていた手。今は何も握っていない。だが、空っぽじゃなかった。
翌週の月曜日。四月の朝。
タクシーを降りた俺の前に、天鏡学園の正門がそびえていた。
白い石柱の門扉。蔦の絡まった煉瓦塀が、広大な敷地を囲んでいる。門の奥に続く並木道の先に、四階建ての本校舎が朝日を受けて輝いていた。鬼道が用意した制服——紺のブレザーに灰色のスラックス——は、サイズこそ合っていたが着慣れない硬さで肩を締めつける。
真新しい学生鞄を右手に、俺は門をくぐった。
その瞬間、視界が爆発した。
生徒たちの「色」が、津波のように押し寄せてきた。
門から校舎に向かう並木道を、数十人の生徒が歩いている。普通の人間なら、制服を着た高校生の集団にしか見えないだろう。だが覚醒した魂相観測は、その一人一人が纏う異能の色を容赦なく映し出す。
炎の赤。氷の白。雷の紫。風の薄緑。土の黄土。水の青。見たこともない色が、個々の生徒の輪郭に沿って揺らめいている。異能者の養成機関——鬼道の言葉が実感に変わる。ここにいる生徒の大半が、何らかの異能を持っている。
情報の奔流が、脳の処理能力を超えた。
視界が明滅する。足元がぐらついて、門柱に手をついた。三日間の訓練で制御を覚えたはずなのに、これほどの数の異能者を同時に視たことがなかった。鬼道の隠れ家は静かだった。一対一の訓練で視界の深度を絞る練習を繰り返していたが、実戦はまるで違う。
「——絞れ」
鬼道の声が脳裏に蘇る。深度を落とせ。表層だけ拾え。全部視ようとするな。
息を吐いて、視界を絞り込む。色彩の奔流が薄れ、生徒たちの姿が普通の光景に戻っていく。それでも完全には遮断できない。制御しきれない色の残像が視界の端でちらついて、こめかみの奥が鈍く疼いた。
並木道を歩く。すれ違う生徒たちの視線が刺さる。転入生という存在が、閉鎖的な全寮制の学園でどれだけ目立つか。好奇の黄色、警戒の灰、無関心の透明——視界を絞っていても、向けられた感情の色は嫌でも滲んでくる。
校舎の入口が近づく。正面玄関のガラス扉に、朝日を浴びた自分の姿が映った。紺のブレザー。無表情。眼の下に薄い隈。どこにでもいる、少し陰気な転入生。
——ここから、始まる。
鞄の中に忍ばせた鬼道からの連絡用の護符が、微かに熱を帯びた。組織の無線機とは違う。これは一方通行じゃない。俺が自分の意志で、触れた時だけ繋がる。
俺は鞄の紐を握り直して、天鏡学園の扉を押し開けた。