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魂色の駒

第2話 第2話「い草と線香の残り香」

第2話

第2話「い草と線香の残り香」

畳の匂いがした。

それが、意識の底から最初に拾い上げた感覚だった。い草と、古い木材と、微かに残る線香の残り香。組織の施設では嗅いだことのない匂いだ。コンクリートと消毒液と、時々血の鉄錆——それが俺の知っている「部屋」の匂いだった。

身体が重い。瞼を持ち上げると、見知らぬ天井が視界を埋めた。木目の浮いた板張りの天井。隅に蜘蛛の巣がかかっている。障子の向こうから朝の光が差し込んで、敷かれた布団の上に白い格子模様を落としていた。

布団。生まれて初めて、まともな布団で眠った気がする。

上体を起こした瞬間、右脇腹に鋭い痛みが走った。見下ろすと、シャツがめくれた腹に白い包帯が巻かれている。記憶が断片的に戻る。追手。三人。路地裏での短い戦闘。男——鬼道が、信じられない速度で二人を無力化した。残る一人は俺に向かってきて、腹にナイフを受けた。浅い傷だったはずだ。浅い傷でも、手当てされたのは初めてだった。

組織では、怪我は自分で処理するものだった。消毒液と包帯は支給されたが、巻き方を教わったことはない。この包帯は違う。きつすぎず緩すぎず、傷口を的確に圧迫している。誰かが丁寧に巻いた包帯だ。

障子の向こうから、味噌汁の匂いが漂ってきた。

俺は布団の上で膝を抱えた。ここにいるべきじゃない。分かっている。無線機を捨てた時点で、俺は組織を裏切った。H-009は消去対象になった。時間が経てば経つほど、追手の数は増える。今すぐ出て、どこかに——。

どこに。

行く場所なんて、最初からない。

「起きたか」

障子が開いた。鬼道宗一郎が盆を片手に立っていた。湯気の立つ味噌汁と、白飯と、焼き鮭。質素だが、本物の朝飯だった。昨夜の戦闘が嘘のように、男の色は穏やかな藍のまま凪いでいた。

「食え。話はそれからだ」

盆が目の前に置かれる。俺は箸を手に取ったが、動かない。喉の奥がつかえたように詰まって、白飯を見つめたまま固まった。

「——毒なんか入れてないぞ」

「分かってる」

分かっている。この男の色に偽りがないことは、俺の眼が証明している。だが十五年間、他人から差し出されたものには必ず代価があった。飯を食えば借りになる。借りは鎖になる。鎖は——。

「食いたくないなら残せ。強制はしない」

鬼道は俺の向かいに腰を下ろし、自分の茶を啜り始めた。それだけだった。急かさない。問い詰めない。条件も出さない。ただ、茶を飲んでいる。

沈黙の中で、味噌汁の湯気だけが細く立ち昇っていた。

俺は一口、飯を口に運んだ。温かかった。

噛む。飲み込む。もう一口。気づけば、箸が止まらなくなっていた。白飯の甘さが舌の上で広がって、味噌汁の塩気が胃の底を温めて、焼き鮭の脂が口の中でほどけた。たかが朝飯だ。たかが朝飯のはずなのに、視界がじわりと滲んで、慌てて袖で眼を拭った。

鬼道は何も言わず、茶を啜っていた。

飯を平らげた後、俺は茶碗を膝の前に置いて、口を開いた。

「昨夜のあれ——魂相観測って言ったな。俺のこの力の、正式な名前か」

「そうだ」

鬼道が茶碗を置いた。藍色の奥に、教える者の色が微かに灯る。講義の始まりを告げるような、静かな切り替わり。

「お前が視ているのは、人間の感情や意思が放つ霊的放射——術者の世界では『魂相』と呼ぶ。怒りの赤、恐怖の灰。お前は生まれつきそれを色として知覚できる。だがお前が視ているのは、本来の魂相観測のごく表層だ」

「表層?」

「例えるなら、お前は今、片目を閉じて世界を視ている。距離感もなく、奥行きもなく、平面的に色を拾っているだけだ。本来の魂相観測は——」

鬼道が右手を持ち上げた。

「異能の属性、術式の構造、霊脈の流れ、土地に染みついた残留思念。この世界の裏側に張り巡らされた、もう一つの風景。それを丸ごと視る力だ」

俺は息を呑んだ。今まで俺が視ていたものは、世界の表面をなぞっていたに過ぎないのか。組織で「嘘発見器」として使い潰されてきた力が——知覚系最高位の術式。その言葉が、まだ実感として掴めない。

「なぜ俺にそんな力がある。組織の実験か何かで——」

「違う」

鬼道の声に初めて、硬さが混じった。藍色が一瞬だけ深くなる。何かを呑み込むような間があった。

「それについては、いずれ話す。今は——」

鬼道が手を差し出した。掌を上に向けて、俺の前に。

「覚醒させるぞ。お前の眼を、本来の状態に戻す。痛みはない。ただ、世界が変わる。覚悟はいいか」

選択を迫られている。この手を取れば、もう「色がちょっと視えるだけの便利な道具」には戻れない。知らなかった世界に踏み込むことになる。

だが、戻る場所なんて最初からない。

俺は鬼道の手を掴んだ。

触れた瞬間——視界が、弾けた。

比喩じゃない。物理的に、世界が裂けて開いた。鬼道の掌から流れ込んできたのは熱でも衝撃でもなく、純粋な「情報」だった。網膜の裏側を灼くような光が奔流となって、脳の奥を貫く。

畳の目の一本一本から、淡い緑の光脈が浮かび上がった。建材に残る木の記憶。障子の和紙に宿る、漉いた職人の手の温度。築数十年のこの家が蓄えてきた時間の堆積が、色の地層となって視える。

壁の向こう——隣の部屋、その先の廊下、さらに外壁を越えて。視界が建物の構造を透過して広がっていく。地面の下を流れる水脈が青白い筋となって走り、その上を覆う東京の地層が灰と赤茶の縞模様を描く。空を見上げれば、大気の流れが薄い黄緑の川となって蛇行し、その中を渡り鳥の群れが残した霊的航跡が糸のように漂っていた。

「——っ」

息ができない。情報量が多すぎる。世界がこんなにも饒舌だったなんて知らなかった。あらゆるものが色を持ち、あらゆるものが語りかけてくる。十五年間、片目を閉じて覗き穴から世界を見ていた人間が、突然両目を見開いて大空の下に放り出されたような——。

鬼道が手を離した。情報の奔流が徐々に落ち着いて、視界が正常な範囲に収束していく。だがもう、元には戻らない。片目の世界は終わった。閉じていた瞼が開かれてしまった以上、視えるものを視えないふりはできない。

畳に突っ伏して、荒い呼吸を繰り返す。額に汗が滲んでいた。

「最初は制御が難しい。だが慣れる」

鬼道が淡々と言う。その藍色が、今ははるかに精細に視えた。凪いだ海だと思っていたものが、実際には無数の層から成る深い構造を持っていることが分かる。表層の静けさの下に、膨大な経験と力が沈んでいる。この男が何者なのか——その片鱗が、ようやく視えた。

俺は体を起こし、窓の外に目を向けた。

東京の朝。ビルの谷間を通勤の人々が流れていく。以前なら、その周囲に浮かぶ感情の色が視えるだけだった。今は違う。人々の足元を走る霊脈の網。ビルの壁面に刻まれた古い結界の残骸。交差点の地下に眠る、江戸時代の辻斬りが残した暗い染み。東京という街そのものが、表と裏の二重構造で成り立っていることが——魂相観測の両目で、はっきりと視えた。

そしてその視界の端に、それはあった。

昨夜、表通りで垣間見た黒い靄。あの時は遠目にしか視えなかった。だが今、覚醒した眼は、その正体をより鮮明に捉えていた。

街の北東。住宅街の只中に、色の「穴」が空いている。周囲の霊脈が、排水口に吸い込まれる水のように、その一点に向かって渦を巻いている。色の不在じゃない。色を喰っている。生きている闇だ。

胃の底が冷える。本能が、あれに近づくなと叫んでいる。

「……おい、鬼道。あの黒いの、なんだ」

鬼道は窓の外を見ようともしなかった。茶を啜り、静かに言った。

「お前が視るべきものだ」

「答えになってない」

「答えは自分の眼で見つけろ。——だがひとつだけ教えてやる」

鬼道の藍色が、深く沈んだ。

「あれは喰う。人間の異能を、魂の色を、根こそぎな。お前が組織で嘘発見器をやっている間にも、あの手の存在は東京で静かに喰い続けてきた」

湯呑みを置く、小さな音。

「お前の眼は、あれを視るために在る。——選ぶのはお前だ」

窓の外で、黒い穴がゆっくりと脈動していた。周囲の霊脈を一本、また一本と呑み込みながら、確実に育っている。

俺は視線を逸らせなかった。片目の世界では見えなかったもの。見えないふりができたもの。だがもう、閉じた瞼は元には戻らない。

北東の闇が、脈打った。まるで俺が視ていることに気づいたかのように。

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