Novelis
← 目次

魂色の駒

第1話 第1話「四月の路地のナイフ」

第1話

第1話「四月の路地のナイフ」

人を殺す夜は、いつも空が綺麗だった。

歌舞伎町の裏路地に染みついた小便と腐った生ゴミの臭いが鼻を突く。四月の夜風は冷たく、薄いパーカーの下で肌が粟立つ。俺——灰堂レンは、ビルとビルの隙間に体を押し込めて息を殺していた。

右手に握った折り畳みナイフの柄が、汗で滑る。ブレードを開く時の小さなクリック音すら、今は致命的な音に思えた。柄に巻いた黒いテープが手汗を吸って、微かにべたつく。

『対象は路地裏の居酒屋を出たところで仕留めろ。失敗は許さない』

耳に嵌めた無線機から、抑揚のない声が流れていた。組織の連絡係——名前は知らない。知る必要もない。俺に名前が与えられていないのと同じだ。灰堂レンという名は、管理番号「H-009」の代わりに便宜上つけられたもの。人間として扱われているわけじゃない。

標的は居酒屋の奥のカウンターにいる。視認済みだ。

五十代くらいの男。がっしりとした体躯に、白髪混じりの短髪。一見すると、ただの中年にしか見えない。だが俺の眼には、その男の周囲に渦巻く「色」が視えていた。

深い藍色。怒りでも恐怖でもない、凪いだ海のような色。

俺には昔から、人の周囲に揺れる色が視える。怒っている人間は赤。怯えている人間は灰。嘘をついている人間は、色が不自然にちらつく。組織はこの力を「嘘発見器」として使い潰してきた。取引相手が裏切るかどうか、尋問中の人間が本当のことを言っているかどうか——俺の眼が判定する。便利な道具だ。

でも今夜は違う。今夜は、殺しだ。

居酒屋の暖簾が揺れた。男が出てきた。暖簾の隙間から漏れた黄色い灯りが路地を一瞬だけ染めて、すぐに消えた。店内から流れ出た焼き鳥の煙の匂いが、生ゴミの悪臭に混じって妙に生々しかった。

俺は路地の影から滑り出て、背後に回る。靴音を殺す歩き方は、十歳の時に叩き込まれた。呼吸を落とし、心拍を抑え、存在を消す。刃を逆手に握り直す。頸動脈。一撃。それで終わる。

三歩。二歩。一歩——。

「お前、その眼——視えてるな?」

男が振り返った。いつの間に気づいていたのか。いや、最初から気づいていた。その藍色の色は、一度も乱れていなかった。俺が背後にいることを知った上で、平然と歩いていた。

ナイフを構えた俺の手が、止まる。

男の眼が、真っ直ぐに俺を見ていた。品定めでも、敵意でもない。ただ静かに、俺の眼の奥を覗き込んでいる。深い皺の刻まれた目尻には、疲労ともあきらめとも違う、長い時間をかけて何かを見つけた人間だけが持つ落ち着きがあった。

「色が視えるんだろう。人の周りに揺れる、あれが」

心臓が跳ねた。

この力のことを言い当てた人間は、十五年の人生で一人もいなかった。組織の幹部たちは「便利な体質」としか認識していない。まして見知らぬ標的が、一目で——。

「……何の話だ」

声が震えた。自分でも分かるほど。ナイフの切っ先が僅かに揺れ、蛍光灯の光を弾いた。

「隠すな。お前の瞳孔の動きで分かる。俺の色を読んでるな?」

沈黙が落ちた。

路地裏の蛍光灯がジジ、と音を立てて明滅する。その不安定な光の下で、男の藍色は微動だにしない。恐怖がない。殺意もない。十五年間、あらゆる人間の色を視てきた俺が初めて出会う——底の見えない色だった。まるで夜の海を覗き込んでいるようで、見つめるほどに引き込まれそうになる。

「お前の力は、ただの体質じゃない」

男が一歩、近づいた。俺は反射的にナイフを突き出す。だが男は素手でその刃を——正確には、刃を握った俺の手首ごと掴んだ。速さじゃない。力でもない。俺の動きの軌道を完全に読み切った上で、最小限の動作で封じた。掴まれた手首から伝わる体温が、驚くほど穏やかだった。殺しにきた相手を掴む手の温度じゃない。骨を軋ませるでもなく、痛みを与えるでもなく、ただ俺の腕をそこに留めている。まるで崖から落ちかけた子供の手を掴むような、そんな力加減だった。

「未覚醒の上位術式。『魂相観測』——他者の感情、殺意、異能の質を色彩と濃度で読み取る知覚系最高位の力だ」

術式。異能。聞いたことのない単語が矢継ぎ早に降ってくる。だが男の声には嘘の色がなかった。一片の濁りもない、透き通った藍。

「そんな力が、こんな小僧のナイフ遊びに使われてるのか。もったいない」

手首を掴む力が緩んだ。逃げようと思えば逃げられた。だが足が動かない。

男の指先が、俺の手首から腕に触れた。パーカーの袖がめくれ、両腕に刻まれた無数の傷痕が露わになる。組織の「教育」の跡。逃亡を図った時の罰。従順さを刻み込むための痛み。古い傷は白く盛り上がり、新しい傷はまだ薄い赤を残している。十五年分の痕跡が、左腕だけで数えきれないほど重なっていた。

男は一瞥しただけで、何も言わなかった。その沈黙が、同情の言葉よりもずっと重かった。色が一瞬だけ揺れた——怒りではない。もっと深い場所から湧き上がる、名前のつけられない感情の色。

代わりに——。

「飯、食うか」

その瞬間、男の色が変わった。いや、変わったんじゃない。藍色の奥にもう一層、今まで見えなかった色が透けた。温かい橙。

俺の視界が、ぶれた。

「……は?」

「腹、減ってるだろう。ガキの癖に痩せすぎだ」

理解が追いつかない。今、殺しにきた相手に飯を誘われている。任務は失敗した。組織への報告が必要だ。失敗した駒がどう扱われるか、身体が覚えている。肋骨の奥が軋むように痛んだ。前回の「失敗」の後、三日間水だけで暗室に入れられた時の記憶が、勝手に蘇る。

『H-009、応答しろ。対象の排除を確認しろ』

無線機がノイズ交じりに鳴る。男は——標的は、その音が聞こえているはずなのに、構わず背を向けて歩き出した。

「ついてこい。近くにまともな定食屋がある」

行くべきじゃない。分かっている。組織に戻らなければ、俺は「裏切り者」になる。裏切り者に用意されているのは、消去だ。存在ごと抹消される。名前すらなかった俺が、その名前すら残らなくなる。

だが——。

男の背中に纏う藍色の中に灯った橙は、俺が十五年間、誰の周囲にも見たことのない色だった。

温かい。その一語が、凍りついた胸の奥を焼く。

気づけば、俺はナイフを路地に落としていた。金属が湿ったアスファルトに当たって、乾いた音を立てる。指先がまだナイフの形に強張っていた。五年間握り続けてきた感触が、手のひらに残像のようにこびりついている。握っていない右手が、小さく震えていた。

無線機が再び鳴った。今度は声の色が変わっていた。灰がかった赤——苛立ちから、怒りへ。

『H-009。最終警告だ。直ちに帰投しろ。さもなくば——』

俺は耳から無線機を引き抜いて、排水溝に落とした。

小さな水音。それだけで、十五年間の鎖が一本、切れた気がした。

男の背中を追って、路地を抜ける。表通りに出た瞬間、雑踏の音と光が押し寄せてきた。ネオンの赤と青が濡れた路面に反射して、足元が万華鏡のように揺れる。酔客の笑い声、客引きの怒鳴り声、どこかの店から漏れる重低音——歌舞伎町の夜は、いつだって騒がしい。行き交う人々の色が視界の端で揺れている。赤、黄、灰、青——見慣れた色彩の洪水。その中を歩く男の藍だけが、喧騒に染まらず、静かに揺れていた。

だがその中に、俺は異質なものを視た。

街の東側。繁華街の喧騒から外れた一角に、闇が蟠っている。色ではない。色の不在。光を呑み込む黒い靄のようなものが、ビルの谷間から滲み出している。

今まで視えなかった——いや、視えていたのに、認識できなかったものが、そこにあった。

背筋に氷を流し込まれたような悪寒が走る。胃の底がひっくり返りそうな嫌悪感が込み上げ、無意識に一歩、後退っていた。

「……おい。あれ、なんだ」

男が足を止めた。振り返らずに、低く言った。

「視えたか。——やっぱりな」

橙色の温もりを帯びた声が、静かに告げる。

「行くぞ。話は飯を食いながらだ」

俺は黒い靄から眼を逸らせないまま、それでも男の背中を追った。

路地の向こうで、複数の気配が動いた。色を視るまでもない。殺意の赤が、三方向から滲んでいる。

組織の追手。——もう、始まっていた。

この話はいかがでしたか?

次の話を読む →

第2話「第2話「い草と線香の残り香」」

↓ スクロールで次の話へ

第1話「四月の路地のナイフ」 - 魂色の駒 | Novelis