第1話
第1話
血の匂いがする。自分の血じゃない。
廃工場の天井から垂れ下がった蛍光灯が、断末魔のように明滅していた。白い光が痙攣するたびに、床に転がる男たちの影が伸びたり縮んだりする。コンクリートの床に転がる男たちの間を、朝霧蓮は無造作に歩く。十二人。全員が意識を失っているか、失いかけている。所要時間は三分を切った。
蓮の呼吸は乱れていない。心拍数も平常値のままだ。十二人を叩き伏せた直後の生理反応としては、異常と言っていい。だが蓮にとってはこれが標準だった。戦闘は演算に近い。入力があり、処理があり、出力がある。汗すらほとんどかいていなかった。
「がっ——てめ、なんだよ、その力——」
背後で最後の一人が立ち上がる気配。鉄パイプを握る手が震えている音が聞こえた。振り向きもせず、蓮は右手を壁に触れた。
〈崩律〉。
触れた対象の物理法則を局所的に書き換える。蓮に与えられた異能の名前だ。壁面の摩擦係数がゼロになり、寄りかかっていた男が支えを失って滑り落ちる。同時に床の反発係数を跳ね上げた。男の体が一度だけ跳ね、天井に叩きつけられてから落下した。鈍い音。肋骨が軋む湿った響き。それから、静寂。
十三人。
蓮はコートのポケットからスマートフォンを取り出し、暗号化チャネルに四文字だけ打った。
「処理完了」
返信はない。いつものことだ。
闘技場の残骸を見回す。パイプ椅子が並べられた観客席。血痕のこびりついたリング。賭け金の管理端末。異能者同士を戦わせて賭博の対象にする違法闘技場——裏社会では「穴蔵」と呼ばれている施設の、今月三件目の殲滅だった。
リングの脇に、参加者のリストが印刷された紙が落ちていた。名前の横に異能の種別、勝率、賭けのオッズ。人間を数字に変換する書式。蓮はそれを踏んで歩いた。靴底に血がついた。気にしなかった。
出口のシャッターに触れる。鋼鉄の引張強度を紙と同等に書き換え、指先で引き裂いた。金属が裂ける音は、布を破くのと大差なかった。断面がめくれ上がり、外の冷たい空気が一気に流れ込んでくる。四月の未明の風は湿気を含んでいて、鉄錆の匂いと混ざると独特の金属臭になった。外はまだ暗い。関東郊外のどこかにある工業地帯。錆びたフェンスと雑草の隙間から、遠くの幹線道路を走るトラックのヘッドライトが見えた。街灯のない道を五分歩けば、最寄りの駅に着く。
蓮は歩き出した。コートの裾が風に揺れるたびに、鉄錆に似た匂いが立ち上る。他人の血と、火薬と、汗の混合臭。任務のたびに染みつく匂いを、蓮は洗い落とさない。洗う理由がない。明日もまた同じ匂いになる。
始発電車が来るまで、あと二十分。
駅のベンチに腰を下ろし、蓮は目を閉じた。瞼の裏に残るのは、さっき叩き潰した男たちの顔ではなく、天井の蛍光灯の残像だった。人の顔は覚えない。訓練でそうなった。灰燼課——政府非公認の特務機関が蓮に施した三年間の「調整」は、感情という名のノイズを徹底的に削り取った。恐怖、怒り、哀しみ、喜び。どれも任務遂行の障害だと叩き込まれた。
実際、そうだった。感情がなければ迷わない。迷わなければ速い。速ければ死なない。単純な論理だ。蓮はその論理に従い、今日まで四十七件の闘技場を壊してきた。一度も負傷していない。感情を持つ相手は動きが読める。怒れば大振りになり、恐れれば後退する。蓮にはそのどちらもないから、最短距離で最適解を叩き込める。
最強の掃除屋。灰燼課が蓮につけた符丁だ。
始発のアナウンスが構内に響いた。蓮は立ち上がり、ホームへ向かう。数人の乗客がちらほらと待っていた。スーツ姿の中年男性。ジャージ姿の女子高生。新聞を広げた老人。誰もが蓮のコートから漂う異臭に気づかない——あるいは、気づかないふりをしている。
電車が滑り込んできた。蓮は端の座席に座り、車窓の外を見た。まだ薄暗い住宅街が流れていく。どこかの家の窓に明かりがついていた。早起きの誰かが朝食を作っているのだろう。味噌汁の湯気。焼き魚の匂い。そういうものを想像する回路は、蓮の中にもまだ残っているらしかった。ただ、想像したところで何も感じない。空腹を認識する。だからコンビニに寄る。それだけの話だ。
最寄り駅で降りる。改札を出て十五歩。コンビニの自動ドアが開き、冷房の匂いが顔を撫でた。棚から鮭のおにぎりを二つ取り、ブラックの缶コーヒーを一本。レジの店員は大学生くらいの男で、蓮のコートをちらりと見たが、何も言わなかった。
「袋、いりますか」 「いらない」
会計を済ませ、店の前のガードレールに腰を下ろす。おにぎりのフィルムを剥がし、機械的に咀嚼する。米の味がする。海苔の香りがする。鮭の塩気がある。それら全てを蓮は情報として処理し、栄養として摂取した。「美味い」とも「不味い」とも思わない。食事は燃料補給だ。感情を伴う行為じゃない。
缶コーヒーを開ける。苦い液体が喉を流れ落ちる。東の空が白み始めていた。四月の朝は冷える。コートの血が乾いて、生地が強張っている。帰宅したらクリーニングに出す——いや、面倒だ。そのまま寝よう。次の任務までは、眠ることだけが蓮のスケジュールだ。
スマートフォンが振動した。
暗号化チャネルに、一件の着信。発信者は七瀬——灰燼課で蓮の直属の上司にあたる男だ。蓮は缶コーヒーを片手に応答した。
「終わったか」
七瀬の声は低く、抑揚がない。だが蓮とは違う種類の無感情だった。七瀬は感情を持っている。持った上で、表に出さないだけだ。蓮にはその違いが分かる。声の奥に微かな澱みがある。言葉を選んでいるときの、ほんの僅かな間。感情を持つ人間特有の演算負荷。蓮にはそれがない分、相手のそれがよく見える。
「三分で片付いた」 「十三人、全員か」 「生きてる。殺処分の指示は出てない」
短い沈黙。七瀬が何かを考えている気配がした。紙をめくる音が受話器の向こうで聞こえる。
「次がある」
蓮はおにぎりの最後の一口を飲み込んだ。
「今月四件目か」 「規模が違う。新宿地下の〈喰鬼楼〉——聞いたことがあるか」
蓮の咀嚼が止まった。喰鬼楼。裏社会の闘技場の中でも最大級と噂される施設。地下三階構造。異能者同士の殺し合いを最高級の娯楽として提供し、政財界の裏の顔が顧客リストに並ぶ。これまで灰燼課が手を出さなかったのは、政治的な力学が絡んでいたからだ。潰せば報復が来る。それも異能者を使った、組織的な報復が。今までの穴蔵とは、根本的にレイヤーが違う。
「手を出していい案件になったのか」 「上が変わった。詳細はブリーフィングで渡す。——蓮」
七瀬の声に、わずかに色が混じった。普段の事務的な報告口調から、半音だけ下がったような声。蓮はそれを正確に聞き取った。
「お前はいつか壊れるぞ」
蓮は缶コーヒーを傾けた。最後の一滴が舌に落ちた。苦い。それだけだ。
「壊れるも何も、最初から何も組み上がってない」 「……そういうところだ」
通話が切れた。電子音の残響が耳の奥で消えるまでの一瞬、蓮は受話器を耳に当てたまま動かなかった。七瀬の最後の言葉が反復する。「そういうところだ」——何を指しているのか、蓮には正確に理解できなかった。理解できないことを、不快とも不安とも感じない。ただ、処理できない入力として一時保存した。
蓮は空き缶をゴミ箱に投げ入れ、立ち上がった。東の空はもう完全に白んでいる。通勤の人波が少しずつ膨らみ始めた街の中を、血の匂いのするコートの男が歩いていく。誰も振り返らない。東京という街は、見て見ぬふりの技術だけが異常に発達している。異能者が隣を歩いていても、目を合わせなければ存在しないのと同じだ。蓮にとっては都合がいい。透明でいられる限り、任務は円滑に進む。
新宿。地下三階。
その言葉が頭の中で反復した。今までとは桁が違う相手がいる。だが蓮の歩調は変わらなかった。恐怖がないのだから、歩調が変わる理由もない。
コートのポケットの中で、蓮の指先が無意識に動いた。触れたものの法則を書き換える——その感覚を、確かめるように。